第25話 教師と生徒


 夕焼けが美しいことに腹を立てる人間なんて、自分以外にいるだろうか。


 祭り会場から離れた駐車場まで逃れてきた大樹は、乱れた呼吸を整えながら愛車の向こうに見える空を睨んでいた。朱色の雲が流れ形を変える度、空の表情も変化する。絵画のように幻想的な風景だが、冷静さを欠いている大樹には感動する余裕も生まれてこなかった。湧き出る感情は、怒りだけだ。


 何故、憤っているのか。自分でもよく分からなかった。


 ずっと心に留め置くしかなかった激情をぶつけられて、多少は身軽になったはずだ。なのに何故、こんなにも腹が立つのか。


 逃げ出すという惨めな方法を選んだ自分への怒りか。それとも、かつて恋い慕った相手への不満がまだくすぶっているのか。どっちでもいい、と大樹は思った。どちらにせよ、店に戻りづらいことに変わりはない。


 あの人はまだ、あそこにいるのだろうか。俺が帰るのを待っているかもしれない。


 淡い期待を抱いている自分を、大樹は心の底から嘲った。鈍色に塗りつぶされた雲の影が濃くなり、夜の気配が忍び寄る。


 懐かしい感覚へ身をまかせかけた時、軽やかに駆ける足音を聞いた。それは駐車場の入口で一度止まり、速度を落として大樹の方へ近づいてくる。誰のものかは振り向かなくとも分かった。土で汚れたスニーカーを履き、日当たりのいい庭で花を愛でる後ろ姿が脳裏によみがえる。


 「……どうして追ってきたの」


 振り向かずに問う。砂利を踏む音が止んだ。


 応答はなかった。乱れた息遣いと微かな気配だけが彼の存在を大樹に知らせる。


 「ねえ、どうして」と再度問いかけた口調にはとげがあった。責めるつもりなどなかったのに。大樹はますます自己嫌悪に陥った。


 「追いかけなきゃって、思ったから」


 普段通りの冷静な声が答えた。


 「大樹さん、今にも泣きそうな顔してたから」


 「……」


 「……大丈夫、ですか」


 無言でかぶりを振る。すると足音がさらに近づき、大樹の真後ろでぴたりと止まった。腰紐を引かれた。さり気ない仕草は、一人きりで暗がりへ沈みかけている大樹を、それとなく引き留めているようだった。


 「かっこ悪いとこ、見せちゃったね」


 年下の想い人へ、大人らしいかっこいいところを見せるつもりが、上手くいかないものだ。


 「ごめん、店を放って追いかけてきてくれたんだよね。早く戻らないと」


 「梢さんたちが戻って来てくれたので、お店の方は心配ありません」


 「……そっか。母さんたちもタイミングがいいな」


 大樹は感情を出来る限り押し殺し、いつも通りの態度を心掛けた。だが、振り返ることだけは、どうしてもできなかった。陽向と目が合った瞬間、自分を制御できなくなると分かっていた。


 陽向の瞳は、まっすぐに大樹を捉え、心のうちを見透かしてしまう。清らかな部分も、傷だらけになって化膿している脆い部分まで、際限なく。


 弱さを見抜かれることを、大樹は何より恐れていた。陽向の前では常に強く在りたかった。実際は、引きずって、古くなって、腐敗臭さえしないほどに朽ち果てている荷物を捨てられず、すがってばかりいる臆病者だと知られるのが怖かった。ごみ同然の荷物は、新しい恋へ踏み出しても重みを増していく一方だった。


 「好きだったって、言ってましたけど」


 腰紐を引く力が強くなった。


 「もしかして……付き合ってたんですか。坂下先生と」


 「そうだよ」


 自身の口から穏やかな声が出たことに、大樹はいささか驚いた。動揺し、取り乱してもおかしくはない状況で落ち着いていられる自分が不気味に感じられた。


 もう、いい。重荷はすべて、この場へ投げ出してしまおう。そこから陽向が何か拾い上げようとも、すがるものを失って立ち尽くす男の身体ごと置き去りにしようとも、それは大樹にはどうにもできないことだ。


 「身のほど知らずにもほどがあるよね。教師と生徒、それも男同士が関係を持つなんて」


 友花、ごめん。誰にも言わないでって約束させておいて、俺はそれを守れない。


 大樹は心の中でいとこに詫び、親しい間柄の彼女にしか見せなかった傷口を深部までさらけ出す覚悟を決めた。




 「森村くん、文芸部に興味ない?」


 クラスの担任教師、坂下冬樹ふゆきに声をかけられたのは、三年生に進学して間もない春のことだった。昼休み、購買部から教室へ戻る途中の生徒に、坂下は世間話を持ち掛けるような気軽さで話しかけた。


 彼が発した部活動の名称を反芻しながら、大樹は警戒心を芽生えさせた。


 「きみは確か、一年生の途中まではサッカー部だったけど、退部して今はどこの部にも所属してないよね」


 「ええ。この学校のサッカー部のレベルの高さに、ついていけなかったので……。サッカーは何となく続けてただけなので、特に未練はありませんでした。やめた今は、勉強に専念してます」


 「勉強熱心なのはいいことだね。……そんなきみに、お願いがあるんだけど」


 坂下は二つの部活動の顧問をしていた。一つは演劇部。もう一つが文芸部だ。大樹は、自分はこれから勧誘されるのだと察し、憂うつになった。頼みごとを断るのは苦手だ。相手が目上の人間ならば、なおさら断りにくい。


 何ですか。先を促すと、坂下は大樹の思い通りの行動をとった。部員数が少なく、廃部の危機にある文芸部へ入部してくれないかと頼んできたのだ。


 「でも俺、文芸とか……よく分からないし。活字を読んだら眠くなっちゃうんで、多分まともな活動はできないかと」


 浮かない反応をする大樹へ、坂下はさらに食い下がる。


 「それなら大丈夫。文芸部は基本、活動の内容は自由なんだ。部員たちは、読書したり創作活動をしたり、それぞれ好きなことをして放課後を過ごしていいんだよ。……とは言っても、在籍する生徒は幽霊部員ばかりで、部室にすら顔を出さない日が多いんだけどね」


 「はあ……」


 「高校の設立当初からある部だし、なるべく廃部にしたくないんだ。名前を借りるだけでもいい。なんとか頼めないかな」


 そんなことで、よく部が成り立っているものだ。呆れとも感心ともとれない複雑な気持ちになったが、部の存続のために頭を下げる担任教師の姿には少なからず心を動かされた。


 大樹は坂下からの誘いを許諾し、その日のうちに入部届を提出した。


 翌日の放課後から、大樹は文芸部の部室へ通った。仲のいい友人は皆それぞれ部活動で忙しく、家に帰っても店の手伝いか勉強くらいしかやることがない。大樹には、中学時代から何気なく続けていたサッカーの他に没頭できるものがなかった。唯一の趣味を失くし、月日が過ぎ去るまま茫漠と生きていた彼にとっては、新たな部活動への入部もただのひまつぶしに過ぎなかった。


 顧問を掛け持ちしている坂下が部室へ顔を出すのは、週に二日か三日ほどだった。顧問の彼が言う通り、部室で大樹以外の生徒が活動をする日は皆無に等しかった。幽霊部員は口をそろえて「文芸部の活動は、部室じゃなくてもできるから」と、もっともらしい言い訳を新入部員へ述べた。


 「今日は一つ、映画を見ようか」


 部室で宿題や復習をすることがもっぱら多い大樹を見兼ね、坂下は彼に少しでも部活動を楽しんでもらおうと手を尽くすようになった。専門分野である国語の補習授業と銘打って文学作品の解説や雑学を語り聞かせたり、視聴覚室を貸し切って映画を見せたりなど、活動は多岐に渡った。面白い作品があるからと漫画本を持ち込み、大樹と二人で下校時刻まで読書をすることもあった。


 入部する以前から、つまらない部活だと決めてかかっていた大樹は、次第に考えを改め、部活を楽しむようになった。いつしか、部室に坂下の姿がないと落胆することが増え、坂下と過ごす時間を待ち侘びるようになった。


 坂下は、常に生徒との距離が近く親しみやすい教師だった。どんな生徒にも優しく気さくに接し、叱る時でも声を荒らげたりなどせず穏やかに諭す。そんな彼の人柄と整った容姿を好み、信頼を置く生徒は多かった。自分もその一人だと大樹は自覚していた。


 どの生徒も抱くありふれた感情だと思い、疑わなかった。教師への信頼が淡い恋心へと変貌を遂げつつあることに、大樹は気づきもしなかったのだ。


 運命の瞬間がおとずれたのは、夏のことだった。

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