第26話 冬樹と大樹
「森村くんって、ちょっと流されやすいところがあるよね」
笑みの含まれた囁きを耳にしたのは、蒸し暑い視聴覚室で映画鑑賞をしていた時だった。名を呼ばれたことで、大樹の意識は白と黒の二色しかない世界から現実世界へと引き戻された。
隣りの席に目をやると、正面を向いたままの坂下がいる。
暗がりの中に浮かび上がる坂下の横顔は、どこか淋しげだった。白い肌は映画が展開する度に色を変え、移ろいやすい人間の気持ちを表しているかのようだ。
「流されやすい……って、どういうことですか?」
「きみは察しがよくて、共感性が高い。だから他人をよく気遣える。反面、いつも周りばかり優先して、自分のことを後まわしにしてしまう。そして、それを当たり前だと思っている。話し合いの場面でも、周りの意見を尊重するあまり自分の思っていることを伝えられないままでいることが多いんじゃないかな」
「言われてみれば」
「計算された優しさもどうかと思うけれど、自覚もないままに他人を優先する癖があると、社会へ出た時に困るかもしれない」
「自分ではよく分かりませんけど、直した方がいい……ですよね」
生徒の声の調子がわずかに沈むと、坂下は考え込む素振りを見せた。伏せられたまつ毛がスクリーンの明かりを反射し、濡れたように光る。教師の横顔が光と陰で彩られる様子を、大樹はただ隣りで見ていた。
やがて、映画の中の役者に負けず劣らずの美顔を上げると、坂下は言った。
「きみの将来を考えたら、今のうちに直しておいた方がいいのかもしれない。でも僕は、そんな森村くんのことを気に入っているよ」
「気に入っている……」
胸の奥で何かが大きく弾む。その感覚があって初めて、大樹は坂下への想いを自覚した。思い浮かんだ疑問を投げかけるべきか迷う。軽はずみに口へ出すべきではないと理解しているつもりでも、自覚という名の栄養を得て急激にふくらんだ恋心は内側から強く大樹を突き動かした。
「それって、好きってことですか」
鼓動が急かすままに問いかける。劇中歌の音量が大きくなり、反射的に視線を正面へ戻すと、スクリーンいっぱいに男女が口づけを交わす場面が映し出されていた。坂下とのやり取りに気を取られているうちに、物語は佳境を迎えていた。
「僕がうなずいたら、……きみはどうする?」
坂下は座席に寄りかかり、上目に生徒を見た。
大樹は言葉を失った。視線は目の前の男にのみ注がれ、耳は男が次に発声する瞬間を今か今かと待っていた。早く回答を得たい。汗が肌を伝い落ちていく一瞬が、何時間にも感じられた。焦燥と期待で少しずつ呼吸が乱れ、つかえるが、止まらない。
坂下の頭が縦に小さく振られた。居眠りをする動作とよく似た、さり気なく控えめな肯定だった。
騒ぎ立てる鼓動をなだめようとするも、加速する一方だった。大樹の手は、まるで救いを求めるかの如く坂下の手をとった。二つの手は肘掛けの上で重なり合い、やがて一つになった。
キスして、と密やかな声が囁く。言われるがままに大樹は坂下の唇に口づけた。熱く互いを求め合う行為は、スクリーンが暗くなり、エンドロールが終わってもなお続いた。
視聴覚室での出来事が発端となり、大樹は坂下への想いを日毎に募らせていった。放課後、部室で坂下と顔を合わせると決まって口づけを交わし、愛情の深さを確かめ合うように指を絡め抱き合った。声を潜め、室外の様子の変化に気を張り巡らせなくてはならない状況が、行為を燃え上がらせた。
すべては、大樹の了承を得た上で行われた。大樹は心から慕う男を全身で受け入れ、水中から突如として地上へ引き揚げられた魚のように喘ぎながら、愛した。
甘い誘惑を孕んだ危険な関係は、山の木々が色づき、雪が降り始めても壊れることはなかった。生徒との秘め事を、坂下は持ち前の演技力と社交性で覆い隠した。嘘をつく場面でも、彼の表情は崩れることなく罪悪感など微塵も感じさせない笑顔を貫き通した。
「もうすぐ冬樹先生の誕生日ですよね」
体育館の用具入れから持ち出したマットレスへ身を横たえ、大樹は隣りに座っている坂下を見上げた。部室に漂う冬の冷たい空気に肌をさらした彼は、先ほどから何事かを思案する様子で座り込んでいる。が、愛する人の声には顔を上げ、うなずいた。
「うん。冬に生まれたから、冬樹っていう名前を授かったんだ。冬の寒さにも負けず耐え忍ぶ樹木みたいに強く健康に育つようにってね」
きみの名前と一文字違いだね。いたずらっぽく微笑んだ坂下は、大樹の隣りへ寝転がり前髪をかき上げると無防備な額に唇を落とした。寒くはないのかと問われ、「寒い」と言いながら大樹の身体を引き寄せ抱きしめる。「でも、こうすれば温かい」
「誕生日プレゼント、何がいいですか」
「いいよ、そんなの。僕は、きみとこうしていられるだけで充分に幸せだから」
最上級の愛情を表現する、ごく短い言葉を大樹の耳に囁き坂下は艶然と笑んでみせた。
冬休みへ突入し、年が明けても二人の関係は良好なまま続けられた。授業のない期間中は電話やメールでやり取りをし、どうしても逢いたい気持ちを抑えられない時には部室で密会した。一つのクラスを受け持つ彼は多忙で、休日まで返上して仕事をこなしていることを大樹は知っていた。
坂下の誕生日は冬休みの最終日だった。その日の午後、大樹は彼に渡す贈り物を抱えて家を出た。
時折、赤く色づいた花びらが冷風に吹かれて揺れる。シャコバサボテン。クリスマス時期に花を開花させることから、クリスマスカクタスとも呼ばれる植物だ。母親の話では上手に育てないと花が咲かないらしいが、市場から店に入荷した時にはすでに開花していた。花の可憐さに惹かれ、坂下にも見せたいと思った。大樹は小遣いからサボテンの代金を出し、レジカウンターの上に置くと、母親の目を盗んで鉢を持ち出した。
学校へ行くことを、坂下には伝えなかった。彼を驚かせるためだ。何も知らない坂下を呼び出し、贈り物を渡す場面を大樹は想像した。あの人は、どんな顔をするだろう。喜んでくれるだろうか。
寒空の下を浮足立てて歩き、学校に着くと坂下の姿を求めて校内を見てまわった。
一階から順に探し、二階の音楽室の手前で足を止める。
室内から坂下の声が聞こえる。はやる気持ちを抑えきれずに教室へ飛び込もうとした大樹の耳元を、女の笑い声がかすめていった。瞬時に身を引いた大樹は、扉にはめ込まれたガラス越しにそっと室内を窺った。
部屋の奥に設置されたピアノの前に坂下は立っていた。傍らには一人の女性。見おぼえがあった。音楽を担当している教師だ。
他愛無い話をしながら笑い合う二人の様子が、大樹には親密そうに見えた。教室の外で息を潜めて成り行きを見守っている者がいることなど知らない彼らは、次第に距離を詰め口づけを交わした。驚愕し、叫び声を上げようとする口を大樹はとっさに押さえた。
男と女は、しばらく互いの唇を貪り合っていた。大樹が我慢できずに耳を塞ごうとした時、坂下が何かを言った。
それは彼が、部室で大樹に囁いたものと同じ愛の言葉だった。
ガシャン! 何かが崩壊する音が、廊下に響き渡った。つい先ほどまで大事に抱きかかえられていた花が、冷たい床の上で大樹を見上げていた。周りには土が血しぶきのように飛び散っている。救おうと手を伸ばした指先は、鋭いとげに阻まれた。
痛みを感じて引っ込めた指先に血の粒が浮き出る。小さな木の実ほどの大きさまでふくらむとそれは形を失くし、指の腹を伝い落ちた。
「誰かいるの?」
女の一声で、すくんでいた足が勝手にあとずさりを始める。踵を返しかけた、その時。教室の扉が開かれた。
廊下に出てきた人物は、まず床の惨状を一瞥し、傍らに立つ大樹を見た。立ちすくんだまま動けないでいる生徒の姿を目にした途端、彼は息を呑んだ。
綿あめのようにやわらかく温かみのある笑みが浮かぶことの多い顔は、ひどく歪んでいた。ひきつった頬の上でほくろが変形し、雫のように見えた。泣いているのかと動揺する大樹の目の前で、男は口元に笑みを浮かべた。
「……見つかっちゃったね」
絞り出された声が普段と何ら変わりないことに、泣きたくなった。
足が動く。壊れものをそのままに、大樹は駆け出した。
校舎を出て、しばらく無心で走った。息が続かなくなって立ち止まると、冷えた空気を胸いっぱいに吸い込んでは吐き、苦しみに喘いだ。呼吸が落ち着いた頃、やっと状況が飲み込めた。
あの人の「愛しているよ」は、俺だけのものじゃなかった。
嘘だったんだ、何もかも。
演技は得意だと、自慢げに語っていた笑顔を思い出す。学生時代は演劇部に入っていて、いつかは演劇で成功する夢を持っていたけれど、結局は親と同じ教師になる道を選んだのだと、本の読み聞かせをするような口調で話していたことを、思い出す。
騙されていたのか、俺は。衝撃で涙も出なかった。大樹はマフラーで顔の半分を覆い隠し、欲しかったものを何も得られないまま帰宅した。
坂下の裏切りを目の当たりにしてから、大樹は文芸部の部室へ通うのをやめた。坂下とは毎日顔を合わせたが、必要以上の交流を避け自ら話しかけることはしなかった。あの日、音楽室で見たものは何かの冗談か錯覚だったのかもしれない。優しく微笑みかけてくる坂下の姿を夢に見る度、現実で起こった出来事を信じたくないと叫ぶ己の本心を感じ取った。
ふとした瞬間に何かを言いたそうにしている坂下と目が合った。視線が交錯しても進展はなく、坂下は、ただの教師として大樹と接した。素っ気ない彼の言動で、あれが確かに現実で起きたことだったと再認識させられる羽目になる。時には登校するのでさえ苦痛に思えたが、大学入試を目前に控えた大樹には、授業を休むことなどできはしなかった。
「ねえ。何かあったの?」
心に痛手を負ってから一ヶ月後。やることがなくてひまだからと、店の手伝いをしに来ていた友花がたずねてきた。
「大樹さ、近頃ずっと元気ないじゃない。どうしたの?」
「……別に、俺はいつも通りだけど」
「そんな暗い声で嘘ついても無駄よ。伯母さんたちは忙しくて気づいてないみたいだけど、あたしの目は誤魔化せないわ。何、失恋でもした?」
友花は笑いながら大樹の顔を覗き込んだ。どうやら冗談のつもりだったらしい。しかし、いとこの険しい表情を見た彼女は冗談が図らずも的を射たことを察し、意外そうに目を瞠った。
「へえ、珍しいわね。アンタが女の子にフラれて落ち込むなんて」
「女じゃ、ない」
間髪入れずに否定してから、大樹は後悔した。社交的で、おしゃべり好きな性格の彼女に知られたら、家族はもちろん親戚中に言いふらされるかもしれない。そうなれば、肩身の狭い思いをするのは目に見えている。
誰かに聞いてもらいたい気持ちがあるのも事実だった。
どうするべきか、大樹は頭を抱えた。彼があまりにも深刻そうにしているのが気にかかったのか、友花の表情が憂慮に染まる。
「話してみてよ。あたしでよければ、聞くから」
「嫌だ。話したらお前、絶対に俺のこと軽蔑する」
「約束する。軽蔑なんかしないし、誰かに言いふらしたりもしないわ」
「そんな空約束してまで、他人の失恋話が聞きたいのか」
「違うわよ。あたしは、大樹に元気になって欲しいだけ。大樹、あたしの愚痴をいつも聞いてくれるでしょ。だから今日は、あたしが大樹の話を聞く番」
友花は「話すだけでも、意外とすっきりするわよ」と言いながら、後押しするように大樹の背中を軽く叩いた。
いとこを信じ、大樹は坂下との関係を打ち明けた。友花は、間に言葉を挟むことなく、黙って大樹の話へ耳を傾けていた。
何もかも聞き終えた彼女は、複雑そうにため息をつき「そんなことがあったんだ」と呟いた。
「つらかったわね、それは」
同情など、無意味だった。上辺だけの言葉ではなく、友花が心から案じてくれているということは、大樹にも分かっていた。抱えた秘密を打ち明け、幾分かは気が楽になったのも事実だった。だが心に負った傷は深く、友花の言葉も大樹の慰めにはならなかった。
「……あのさ、その先生がしたことって犯罪にはならないのかな」
しばし黙りこくった後、彼女は毅然と顔を上げて疑問を呈した。
大樹は友花の顔を凝視した。犯罪、という鋭く硬質な響きが、肩に重くのしかかる。
「教師なのに、未成年の生徒に手を出したんでしょ。それって罪になると思うんだけど。警察にも相談してみようか」
「無理だよ、物的な証拠は何もない。あの人はいつも俺に同意を得てから触ってきたし」
「用意周到ね……。その人、本当に大樹のこと好きだったのかな。ひょっとしたら、ただの犯罪者かも」
最初から身体だけが目当てだったのではないかと、友花は疑っているようだ。疑惑を持つのは当然のことだった。大樹も早くからその可能性を見出していた。だが、彼は見て見ぬふりを続けた。
坂下のことを、信じたかったのだ。
「好き、だったよ。少なくとも俺は、」
喉から力が抜け、言葉が震えた。
この時になって、最も強く自分の気持ちを理解した。
大好きだった。愛していた、あの人を。
こんなにも深く。
冬樹先生――。胸のうちで呼びかけた声は弱々しく、まぶたの裏に思い浮かべた顔は涙で滲んでいた。
住居と店舗の狭間で、友花の手に背中をさすられながら大樹は泣いた。
その後、大樹は坂下に真相を聞くこともないまま高校を卒業した。坂下は別の町の学校へ異動が決まっていたが、卒業式の日まで大樹を含めた生徒の全員へその事実を明かさなかった。
式を終えた後、坂下は生徒たちと握手を交わし、短く言葉をかけてまわった。差し出された手を、大樹は握ることができなかった。
暗闇の中で触れた冷たい手の感触がよみがえる。すべては、あのささいな触れ合いから始まった。最初は大樹の方から、望んで触れた。だが終わりを告げたのは、坂下の方だった。
「今までありがとう、森村くん」
久々に繫がれた手は、すぐに離れ、遠ざかった。他の生徒が嗚咽を漏らす中、大樹は一人、涙も流せず立ち尽くしていた。
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