第27話 大樹と陽向
語り終えた時、辺りは夜の色に染まりつつあった。つき始めた街灯に羽虫が群がっている。明かりを欲してさまよう蛾の習性を、大樹は憐れに思った。すぐ近くに眩しい存在があると、他のものが認識しづらくなる。光は、手に入れたいと欲し、いくら腕を伸ばしたところでつかめはしない。
俺は所詮、明かりに引き寄せられて夢中になっていた羽虫の一匹に過ぎない。同じ明かりを求める者が周りにいることさえ気づかないまま、熱に焼かれ、真っ逆さまに落ちたんだ。
「結局さ、俺はあの人のことを何も理解できていなかったんだ。あの人が言っていたことは、どこまでが本当で、どこからが嘘だったのか。どれだけ考えても俺には分からない。問いただす勇気すら出せなかった」
坂下の方は、どうだったのだろう。彼は一度でも、大樹に真相を語ろうと決意したことがあっただろうか。
何かを言いたそうにしていた顔。彼はあの瞬間、どんな言葉を大樹へかけようとしていたのか。
「女の人とキスしてたのも意外だったけど、今じゃお父さんになってるなんて」
大樹に性的指向のことを問われた際、坂下は「どうも、女の人には関心を持てなくて」と苦笑しながらも同性愛者であることを認めた。その言葉を信じたからこそ、大樹はなおのこと彼の浮気に衝撃を受けたのだ。
「……目に見えることだけが真実とは限りません」
「自分をさらけ出すのがどんなに怖いか、僕には分かります。先生も、怖かったんだと思います。怖いのと同じくらい……同性に惹かれる自分を受け入れたくなかった。だから、大樹さんに想いを告げた後も異性と付き合い続けたんだと思います」
坂下の心情を覗き見たような解釈だ。怪訝に眉を寄せている大樹に気がつき、「僕も、最初はそうだったので」と陽向がつけ加える。
「なら、どうして何も教えてくれないまま、いなくなったんだろう。話しても、意味が伝わらないと思ったのかな」
理解したかった。今になってこそ、思う。だが未熟だった少年は知ることを恐れ、好きだった男と正面から向き合おうとしないままに歳月が流れた。大人になった今ならば、坂下と本音で語り合えるかもしれない。再会した時のためにと重ね続けた心構えは、祭りの熱気の中で呆気なく
「俺は、性別関係なくあの人に恋をした。でもあの人から見れば、俺が男だったから好き放題できた。たまたま俺の好意に気がついたから付き合っただけで、本当は……誰でもよかったのかもしれない」
追いかけるほどに、真相は濃い霧に覆われて姿を隠してしまう。
長い間、放っておいた傷口が痛み出す。失恋でこしらえた傷は、時間の経過という処置を施しても完治には至らず、思い出したように騒いでは大樹を苦しませた。
「せめて、言い訳の一つでも聞いておくべきだった」
一人で懊悩する大樹の姿に、いたたまれない気持ちになる者がいた。
「ここに来る前、少しだけ坂下先生と話しました。それが、ヒントになるかどうかは、分かりませんが……」
前置きし、陽向は彼だけが知る坂下とのやり取りを話し始めた。
「大樹さんの後を追いかけようとした時、坂下先生に引き留められたんです」
坂下は、何故そこまで大樹の心配をするのか陽向に問いかけたという。陽向にとっての大樹は、アルバイト先の知人であり親交が深いわけでもないと、坂下は決めつけた。その上で、個人的な問題にまで首を突っ込むべきじゃないと陽向を諭した。
「先生はきっと、大樹さんとの関係に深入りされたくなかったんだと思います。僕が構わず駆け出そうとしたら、店をまかされているのだから勝手に離れるのはよくないと言ってきました。理屈は通っていたけれど、ちょっと強引だったのが気になったので、それなら先生が僕の代わりに追いかけて連れ戻してくれませんかって、冗談で言ってみたんです。そうしたら先生は、」
「できないよ、僕には。前にも森村くんを追いかけようとしたことがあったけど、動けなかった。追いかけるべきだった。その手をつかんで、謝って、抱きしめたかったのに、どうしてもできなかった。大切な人を傷つけてしまった時も、僕は……教師という役を演じ続ける方を選んでしまったんだ」
表情を歪めて言う坂下が、陽向には苦しんでいるように見えたという。
にわかには信じがたい話だった。坂下は常に大樹との関係をひた隠しにしていた。陽向の話が真実ならば、彼は生徒と関係を持った事実を他人へ口外したことになる。
「それ、本当に……あの人が言ったの?」
「嘘や演技だとは、思えませんでした」
戸惑っている最中、人混みの中に梢たちの姿を認め、陽向は坂下に説明を求めるよりも大樹を追いかけることを優先した。
「二人で生きていきたかったのに」
別れ際、陽向は小さな呟きを耳にしていた。
これからは、ずっと二人で生きていこうか――。二人きりの部室で、よく坂下が
「大樹さんが、僕を抱こうとしない本当の理由が分かりました」
「……」
「坂下先生とのこと、後悔してるんですか」
してる、と即答できずにうなだれる。
大樹は坂下との秘め事を汚点として扱い、深く悔いていた。すべてを初めからやり直したいと望んだわけではない。すべてを初めからなかったことにしてしまいたかった。教師と生徒の境界線を踏み越えてきた坂下を恨み、やすやすと彼を享受した自分自身を憎んだ。
好きになるべきではなかった。ましてや、交わるべきではなかった。
心から嘆き、悔いていたはずだった。なのに、坂下の本心に触れた途端、彼に対する悔恨の念は揺らいだ。
「僕と出逢ったことも、後悔してますか」
だが陽向は何も答えない大樹を見て、それが一種の肯定であると判じたようだ。冬の夜のような静けさをまとった声で、問いを重ねる。
「好きになって、告白したことを後悔してますか」
たった一歩、気配が離れただけで大樹は激しい不安に駆られた。
「してない」
けれど。と、視線が陽向を捉えきれずに頼りなく揺れる。
「きみは、いつか後悔するかもしれない。俺に恋したこと、身体を触らせるのを許したこと、そのぜんぶを」
「……」
「だって俺は、きみが思うような人間じゃない。意気地なしで、汚れてて、いつまでも過去を引きずってる。きみのことが好きなのに、まだ頭のどこかで昔好きだった人のことを考えてる。最低な男なんだ、俺は」
愛しい頬に触れ、口づける時も、身体の奥底に渦巻く闇が冷めた眼差しで大樹を見ていた。陽向の指に、舌に、遠い過去の残影を見た。
かつて犯した罪が、どこまでもついてまわる。立ち場を変え、相手を変えても罪の意識は変わらなかった。陽向と過ごす日々に安らぎをおぼえ、彼の温もりを求める気持ちがふくらむほどに、罪悪感が押し寄せた。
「陽向くんには、昔の俺みたいに苦しんで欲しくないんだ。だから……もう、これ以上は触れない」
「それでも触って欲しいって言ったら、どうしますか。あなたは」
気配がまた一歩、遠退く。
「別れますか」
汗で湿ったシャツが、冷たく不快な感触で背筋を凍らせた。
どんな表情で陽向がそれを言ったのか。彼と目を合わせる勇気を未だ失ったままの大樹には分からない。
問いかけを力強く否定する自分の意思は、もう一人の臆病な自分の手によって封じられる。大樹はうなずいた。無意識に噛みしめていた唇の皮が破け、舌の上に血の味が広がる。
それが彼のためになるならば、俺は自分の気持ちにだって背いてみせる。
陽向くんが好きだから。
「優しいを通り越して馬鹿ですね。あなたは」
声に静かな、だが確固たる怒りを感じ、大樹は顔を上げた。
彼の目は、陽向の足が地面を蹴り、跳ぶ瞬間を捉えた。跳躍は小さかったが、華奢な身体は重力に負けて徐々にバランスを崩していく。大樹はとっさに陽向を受け止め、その身体を腕の中へ収めた。
陽向は、大樹の行動を予想していたようだった。怪我の有無を気にする男の腕の中で、微かに笑った。
「嘘つき」
「う、嘘なんて……ついてない」
「それも嘘でしょう。本当に分かりやすいなぁ、大樹さんは」
射的の的を外して残念がるように首を振る。自らの唇を使い大樹へラムネを分け与えた時の無邪気さを顔に残して。だが怒りも健在らしく、陽向は大樹の二の腕に爪を立てることでそれを訴えた。
「本心を伝えないまま、あなたは僕の目の前から消えようとしている。いつかの坂下先生と同じように」
素直になれず、自らの意思に背いてまで建前を口にする大樹を、坂下と同じだと陽向は言う。
音楽室の前で鉢合わせした時の、坂下の表情がよみがえる。彼は笑っていた。そのように大樹には見えた。けれど記憶の中の彼は今、泣きたいのを必死にこらえて無理やり表情を作っている。今の大樹が、そうしているように。
「相手を傷つけまいと嘘をついて、優しさを言い訳にして逃げる。そんなの卑怯ですよ。嘘をつかれた方は、もっと傷つくのに。大樹さんは僕の気持ちまで無視して、逃げるんですか」
「陽向くんの、気持ち」
思いつきもしなかった。
それほどまでに、大樹は必死だった。陽向ではなく、自分を守ることに。
聞かせて。と、か細い声で乞う。腕の中で、陽向が大きく息を吸った。
「僕は、大樹さんが好きです」
告白は、一度目よりも迷いがなく堂々としていた。
「あなたにどんな過去があろうとも構いません。汚れててもいい。僕は、あなたのすべてを愛したい」
まっすぐな言葉が、想いが、二つの心身を隔てるものすべてを貫き、縫い合わせ、一つにしていく。
大樹は、自分が臆病者だということも忘れ、陽向の目を覗き込んだ。何もかもを見透かしてしまいそうなほどに澄んだ瞳は、いくつもの光をたたえ柔和に細められていた。
「大樹さん。僕のことを想ってくれているなら、もう自分に嘘をつかないでください。触りたいなら、ためらわないで触ってください。僕に、たくさん笑顔を見せてください。できる限り、そばにいてください。僕がいちばん安心できる場所は、あなたの隣りだから」
「……それが、陽向くんの望み?」
大樹の胸に額をこすりつけるようにして、陽向はうなずいた。
「あなたと別れたいだなんて、これっぽっちも思っていませんよ。見当外れもいいところです」
「ご、ごめん……」
無意識にこぼれた謝罪の言葉に、陽向が苦笑した。
薄く日に焼けた腕が、しっかりと腰にまわされる。その手の平が、背中にまとわりついた冷気を追い払い、凍えた身体を包み込む。温もりに満たされ、それでもまだ足りなくて、大樹は陽向を強く抱きしめた。
「それに……後悔する日なんて、来るわけない。今が過去になって、高校生の僕が大人になっても、大樹さんと過ごした時間が幸せだったことに変わりはありませんから」
「幸せ……」
「あなたに出逢えて、今こうして一緒にいられるだけで、僕は幸せです」
似たようなことを、坂下も言っていた。
演技だったと決めつけていた。だが少なくとも彼の腕に抱かれてそれを聞いていた時は、偽りなど微塵も感じなかった。彼は大樹と過ごす時間に幸せを感じていた。大樹もまた、坂下のそばにいられて幸せだった。
悔いる必要なんて、なかったのかもしれない。
俺も、あの人も――。
「あなたの気持ちも聞かせて下さい」
「俺の……?」
「大樹さんは今、幸せですか」
一旦、口を閉ざして考える。
熟考するまでもなかった。
「幸せだよ」
震える声で告げ、陽向を抱きしめ直す。
嘘をつく瞬間に抑え込んだ想いを、熱を帯びた風に乗せて伝える。
「俺も、陽向くんが好き。他の誰にも負けないくらい、好きだよ」
落ちたはずの羽虫が、地面の上で身じろぎをした。焼かれた羽はかろうじて動き、空へ羽ばたこうともがき始める。傷ついた羽を必死にばたつかせる中、一頭の美しい蝶がやって来た。奮闘の末、手負いの羽虫は地面から飛び立った。弱々しく羽ばたきを繰り返し、ぎこちなくよろめいても飛ぶことを諦めない。様子を見守っていた蝶も舞い上がり、手負いの羽虫について行く。
どこまで行けるのだろう。誰にも解けない疑問を孕んで飛びながら、それでも、願うことは一つだけ。
「一緒にいたい、陽向くんと。これからも……ずっと」
嗚咽をこらえるので精一杯だった。
哀しみとも喜びともとれない感情が溢れ、こぼれていく。それは過去を溶かし、祭りの夜を滲ませると、音も立てずに土へ還っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます