花残り月、きみと出逢い恋をして。

一章 花残り月とカーネーション

第1話 フラワーショップ小林


 あまり濡れたくないからと急いだのが裏目に出た。


 「うわっ」


 車から降りた直後、ぬかるんだ地面に足を取られてもんどり打つ。しかし体制を整えることに失敗し、森村もりむら大樹だいきはそのまま転んだ。尻もちをつくことすら叶わず、前のめりに。ズシャァ、という音を耳で聞きながら、しまったと思う。


 雑草の上に手をついて起き上がる。冷たい。特に下腹部あたりが。見下ろさなくとも、着衣がどうなっているのかは察しがついた。


 「あー……。ツイてないな、今日は」


 憂うつな気持ちをため息とともに吐き出し、起立する。そのまま足早に立ち去りかけ、車の鍵を閉めていないことを思い出してすぐに引き返した。エプロンのポケットに入れていた鍵を取り出し、しっかりと施錠する。転んだ拍子にどこかへなくしたりしなかったのは、幸いだった。


 四月も半ばに差しかかったというのに、頬をなでる風は冷たく冬の名残を感じさせた。昼過ぎから降り出した雨も、風と同様にひんやりとしている。早いところ建物の中に入りたいという願望が、大樹を走らせた。


 駐車場から十歩ほど行けば、大樹の自宅がある。


 自宅前に立ってまず目につくのが緋色のオーニングテント、そしてそこに白色で書かれた「フラワーショップ小林」の文字。店名に名字が入っているところが、いかにも個人経営の花屋らしい。


 子供の頃から飽きるほどに見上げてきた看板。ほんの少し前までは大きく見えたものだが、成人した大樹には店内が手狭に感じられる。花が活けてあるバケツと鉢の数は、昔とそう変わっていないはずなのだが。


 「ただいまー」


 「おかえり、ダイ。配達ご苦労様……って!」


 母親の森村こずえは、作業台で花の剪定せんていをしている最中だった。息子をいつもの愛称で呼び、ねぎらいの言葉をかけている途中、異変に気がついた。


 「……車から降りた時、足がすべった」


 短く事情を説明しながら確認した身なりは、想像以上にひどい有様だった。店の看板と同色のエプロンは泥で黒く染まり、履いているズボンもスニーカーもぐっしょりと濡れて汚れている。


 同情を求めて母親へ視線を向けると、返ってきたのは息子を心配する言葉、などではなく、高らかな笑い声だった。


 「もう、何よその恰好……! 顔まで泥だらけじゃないの。何をどうしたらそうなるの?」


 「だから! 駐車場でこけたんだって!」


 「二十三にもなった男がこけるだなんてねぇ。あー、おっかしい」


 笑い転げる母親を目の当たりにし、大樹は腹を立てるのを通り越して呆れた。着替えてくる、とその場から離れようとすれば「あ、待って」と呼び止められ、仕方なく振り返る。気持ちが悪いから、一刻も早く着替えたいのだが……。


 「友花ゆうかちゃん、ちょっとこっち来て! 今、大樹がすごく面白いことになってるから!」


 店の奥に向かって姪の名を呼び始める梢。その嬉々とした様子に呆れて物を言う気力を失った大樹は、さっさと場を後にした。


 大樹の家は二階建てだ。一階を店舗、二階を住居として使っている。両親と弟の四人で住むには快適とは言えない広さの家に、数年前まで祖父母も同居していた。今では祖父が亡くなり、祖母は高齢者施設、弟は大学の寮に入り大樹と両親の三人暮らしだ。六人家族の半分が家を出たことになるが、できた空きスペースは、そう多くはない。これでも改築して住みやすくなった方なのだと、住み心地の悪さを感じた時は、そんなふうに自分へ言い聞かせて納得させている。


 泥だらけの着衣をすべて脱ぎ、顔を洗うついでに軽くシャワーを浴びる。


 身なりを整え終えて一息つく間もなく、あの泥汚れはどう洗濯すれば落ちるだろうかという問題に直面する。が、結論を出すのはよそにまかせようと早々に諦め、汚れた服を手に再び階段へ向かった。


 「なーんだ、もう着替えちゃったのかぁ」


 階下からこちらを見上げ、の友花がつまらなそうな表情で言った。ちょうどいいところに、と大樹はすれ違いざまに服を彼女へ押しつけた。


 「これ洗うの、まかせた。あ、あとこの靴も頼む」


 「はぁ!? なんであたしが」


 「友花、洗濯は得意だろ」


 「そんな特技、あたしにはありませんけども!」


 「いいじゃん。どうせひまなんだから」


 ひまなのは俺も同じだけど。心の中でつけ加えながら店に出る。文句を言う友花の声が後ろから聞こえたが、無視をした。普段はぶっきらぼうな態度を見せることが多いが、身内には親切な女であることを大樹はよく知っている。現に、今日も大学の授業に出席したあと親戚の店の手伝いに来ているのだ。


 友花は、家が近いこともあり幼い頃から何彼なにかにつけては店へ顔を出していた。彼女が当然のように花屋の手伝いをするようになったきっかけは、繁忙期に梢から声をかけられてアルバイトに駆り出されたことがあったからだ。最初は嫌々だったのが、何度か通う内にやりがいを感じるようになったらしい。今では、息子よりもエプロン姿が板についていると梢からお世辞抜きで褒められるくらい、店になじんでいる。


 いとこの友花の方が、この職業に向いている。大樹は常日頃からそう感じていた。


 花屋が力仕事でさえなければ、大樹は今頃、他の職業に就いていたはずだ。大学卒業を間近に控えた頃に母親が腰を痛め、業務に差し障りがあるかもしれないと心配していたその数か月後には、母と同じエプロンを着て店に立っていた。


 仕方がないとは理解していた。けれど、やりきれなさは今もある。


 決して、花屋の仕事を嫌っている訳ではないのだが、選択肢が豊富な未来を失ったような気がしてならなかった。


 人生の設計図が音を立てて崩れていく。そんなイメージが具現化された夢を、一時期はよく見たものだ。当時のことを思い返すと、未だにため息が出る。


 「大樹、店でため息なんかつかないのっ。お客さんが帰っちゃうでしょ」


 「帰る客もいないじゃん……」


 お客がいない店内は、静かなものだ。聞こえるのは二人が作業する音と、店外から聞こえる雨音、それくらい。


 また足をすべらせてはたまらないと、床のモップがけを行う。普段から汚れやすいが、雨の日は特に汚れる。晴れている日よりも圧倒的に来客数が少ないとはいえ、まさか一人一人に靴底を拭いてもらうわけにもいかない。この時も、いくつもの茶色い靴跡があちこちに散らばっていた。


 今日いちばん床を汚してるのは俺だろうけど、と大樹はまたため息をついた。嫌なことが一度でもあると、災厄が続けてやってきそうな気がしてならない。


 「あっ、そうだ。マヨネーズ切らしてたんだったわ」


 剪定を終えた梢が突然、思い出したように言った。次にかけられるであろう言葉は、息子の大樹には簡単に予想がつくものだった。店番を頼まれるのだろう。


 「ちょっとスーパーまで行ってくるから、お店よろしくね」


 「言ってくれれば、配達の帰りに買ってきたのに」


 「忘れてたのよ、たった今まで。ついでに晩ご飯のおかずも買ってくるわ。車の鍵、貸してちょうだい」


 「雨だから、運転気をつけろよ」


 掃除の手を止め、鍵を放る。着替えた際、新しいエプロンのポケットに突っ込んだものだ。四葉のクローバーのキーホルダーがついたそれを、梢は器用に受け止めると「はいはい」と笑って店の奥に消えた。


 駐車場へは裏口を使った方が近いし、早く行けるのよ。若かりし頃の母の声が聞こえた気がした。幼かった大樹と弟へ豆知識を披露する母の姿は、なぜか自慢げで偉そうだった。雨の日に梢が裏口を使う度、大樹は思い出し笑いをしそうになる。母は憶測で言ったのではなく、ちゃんと距離と時間を比べたというのだから、その頃から勤務中にひまを持て余すような日があったのだろう。


 梢が帰ってくるのは今から三十分後くらいだろうかと、大樹は店内の壁掛け時計を見つめながら考えた。短針が四、長針は八を通り過ぎている。


 近くのスーパーまでは、車で三分ほど。三十分という時間は、移動の時間と買い物をする時間、スーパーに居合わせた近所の人と立ち話をするであろう時間も含めて計算したものだ。知っている顔を見かけたら一言声をかけないと気が済まない母の性質を、息子は心得ている。


 店の主が帰宅するまで何人客が来るか、数えるか。


 ちびちびと雑用をこなしながら、大樹はひまつぶしをすることにした。

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