第10話 甘いココア


 「今日は来てくれてありがとう。指名までしてもらえて、嬉しかったよ」


 会計を済ませ、ラッピングペーパーに包まれた花束を手渡しながら、大樹は陽向へ正直な気持ちを伝えた。繊細そうな白い手に抱えられると、桃色のリボンがふわりと優雅に揺れた。


 「こちらこそ、素敵な花束を作ってくれてありがとうございます」


 「きみのお母さんにも、気に入ってもらえるといいなぁ」


 「……ええ」


 「また次、店に来た時はお母さんに花束を渡した時の様子、ぜひ聞かせてね」


 カウンター越しに、陽向が黙り込む。ちょうど梢も友花も店の奥に引っ込んでいる時だったため、店内は静まり返った。雨が路上を叩く音と遠雷が妙に際立って聞こえた。


 この日、陽向は傘を持って来店していた。学校から直接、歩いて立ち寄ったらしく、先月見かけたものと同じ通学カバンが華奢な背中に背負われている。


 雨宿りの時ほど会話をする時間がなかったことを、大樹は残念に思った。


 「もう少し」


 「ん?」


 「もう少しだけ、お店にいてもいいですか」


 胸に抱えた花束の香りを嗅ぐように顔をうつむかせて陽向が言った。


 大樹はガラス戸のガタガタと鳴る音に気がつき、次いで透明の奥に外の様子を確認して、ああとうなずいた。雨足も風も強く、今外へ出るのは気が引ける天候だ。大樹にとっては天気の心配より、まだ陽向と時間を共有できることが嬉しかった。つい笑顔で「もちろん」と言ってしまい、あわてて天気の話題を持ち出す。


 「ひどい雨だもんね。好きなだけ雨宿りしていって。あっ、濡れちゃってるし、あったかい飲みものでも飲んでいきなよ」


 「いえ、お構いなく」


 店の奥にいる女性陣へ声をかけると、間もなくして友花がお盆にマグカップを二つのせてカウンターまでやって来た。色違いの花柄をあしらったマグカップの中には、茶色い飲みものが入っている。甘いにおいが大樹の鼻先をくすぐった。


 「どうぞ。あったかいココアです」


 「あ、ありがとうございます……」


 「大樹のココアは、ひょっとしたら甘くないかもね。ムフフ」


 「なっ、ココアに何入れたんだよ、お前っ」


 友花は可笑しそうに笑いながら「冗談よ、冗談」と言って、再び店の奥へ姿を消した。からかわれたのだと気づき、大樹はいとこの背中を見えなくなる瞬間まで睨み続けた。


 「お客さんの前で、よくあんな口から出任せ言えるよな……」


 「……あの」


 「あ、大丈夫だよ。あの様子じゃ、本当に何も変なものは入れてないみたいだから、安心して冷めないうちに飲んで」


 「じゃあ、……いただきます」


 両手で包み込むように持ったカップを、陽向はゆっくりと口元まで運んだ。何度か息を吹きかけて表面を冷ましてから、一口。


 「美味しい」


 「よかった。――うん、俺のも普通に美味い」


 陽向の瞳が輝く様を正面で目の当たりにし、飲みものの温かさと相まって大樹の心を癒していく。一日の疲労が、じんわりとした余韻を残して身体の奥の方へと溶けていくのを感じた。


 「ココアって甘くて、でもちょっと苦くて美味しいよね。いちばん気に入ってる飲みものなんだ」


 「森村さんは、お酒とか飲まないんですか?」


 「お正月なんかは少し飲むけど、あまり好きじゃないから普段は飲まないよ」


 「好きじゃない。大人なのに」


 「そう、大人なのに。きみくらいの年齢の頃はさ、大人になったらお酒が美味しく感じられて好きになるんだろうなって勝手に思ってたけど、俺の場合は全然そんなことなくて。初めてビール飲んだ時は、あまりの不味さにしばらく顔しかめてたっけ」


 「ああ。苦いですよね」


 「えっ、飲んだことあるの!?」


 「中学の時、父のを少しだけもらって飲んだことがあります。苦くて、何度も口の中を水ですすぎました」


 「あはは。想像すると、ちょっと可愛いな」


 大樹が笑うと、陽向は口元をカップで隠して「……しないで下さい、想像」と呟いた。恥ずかしそうに目を伏せ、眉尻を下げている。想像の中の陽向より、目の前にいる陽向の方が何倍も可愛いなと思いながら、大樹は笑みを深くした。


 「あらあら、二人とも楽しそうね。何の話?」


 店と奥を仕切る暖簾から梢が顔をのぞかせた。興味津々といった具合で、大樹たちの会話へ首を突っ込んでくる。


 梢の手には小振りな紙袋が握られていた。大樹が中身をたずねると、朗らかな笑みとともに「お漬物」という答えが返ってくる。陽向へのおみやげとして用意したものらしい。


 「陽向くん、お漬物は好きかしら。うちで作ったものなんだけど、よかったら持って帰って食べて」


 「もらっても、いいんですか……?」


 「もちろんよ。たくさん作ってあるから遠慮しなくていいわ。このお漬物はね、大樹のおばあちゃんがお店で働いていた頃からずっと作り続けてるものなのよ。我が家の秘伝の味ね」


 お口に合えばいいけど、と差し出された袋を陽向はおずおずと受け取った。


 「ありがとうございます」


 「うちの漬物……よそのに比べたら、ちょっとしょっぱいかもしれない。だから食べる時は注意して」


 「美味しいから、お漬物だけでご飯が何杯も食べられちゃうわよ」


 ご飯が進むのは、美味しいからというより、しょっぱいからだと思うけど。大樹は心の中で母へ突っ込みを入れた。


 いきなり食べものをおみやげに手渡されて、迷惑ではないだろうか。


 こっそり陽向の様子を横目で窺うと、意外にも嬉しそうに口元をほころばせていた。紙袋を見つめるまなざしは、花へ向けられるものと同様に穏やかだ。


 少し人見知りをするだけで、本来は感情表現が豊かな子なのかもしれない。


 先ほど交わした会話を思い返しても、陽向が大樹へ心を許し始めているのは明らかだった。初めて顔を合わせた時より、浮かべる表情もやわらかい。


 もっと色々な表情を見てみたい。花が好きなこと以外にも、もっと陽向のことを知りたい。穏やかな微笑につられて頬を緩ませながら、大樹は新たな願望を胸に抱いた。まるで道端の小さな花が蕾を開かせるように、それはとても些細で、けれど他の何物にも代えがたい特別な気持ちだった。


 「ねえ大樹ー。もう閉店だから、家まで車で送ってくれない?」


 梢の後ろから顔を出し、友花が言う。よくされる頼み事だ。嫌だよ、と断りかけ、大樹は外が悪天候であることを思い出す。


 「しょうがないな。いいよ」


 「ありがと」


 「あ、ダイ。せっかくだし、陽向くんも一緒に送ってあげたらどうかしら」


 「え……。いや、僕は、」


 何気ない口調で、梢が提案した。大樹が返答に窮していると、断りの言葉を言いかけた陽向と目が合った。黒い真珠のような二つの瞳が忙しなく瞬きを繰り返す。


 どう答えるべきかと考える。こういう場合は、陽向の意見を尊重すべきだろう。


 が、本当に陽向のことを思うならば、きっとこう答えるべきで。


 「家、近所なんでしょ? 送るよ」


 「近所……ですけど、大丈夫です。傘もあるし、歩いて帰ります」


 「もう外は真っ暗だし、風も強くなってきたから、あぶないよ。遠慮しないで乗っていきなよ」


 「ほんとに、平気です。暗いって言っても僕、男だし。あぶない目になんか遭いませんよ」


 「それでも心配なんだよ。きみに何かあったら俺、」


 思ったことが考えなしに口をついて出た。


 まただ。二度とするまいという誓いを、こんなにも容易く破ることになるとは。


 頬が熱くなるのを感じ、大樹はとっさに身体を半回転させて壁の方を向いた。陽向に見られていないことを心の中で強く願う。が、彼の切実な思いは聞き馴染みのある声たちによって打ち砕かれた。


 「へぇ。大樹が照れたとこ、久し振りに見たわ」


 「まあまあ。二十三の男にも、まだ可愛げは残ってるものねぇ」


 いとこと母の、含み笑いを忍ばせた声が背後から聞こえる。


 思わず顔を両手で覆った大樹は、指の隙間から屈辱感を滲ませたうめき声を漏らすことしかできなかった。

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