第11話 聞こえぬ雷鳴


 「歩いて一分の近場なのに、赤信号に引っかかるなんて」


 ため息混じりの声がする。大樹はルームミラー越しに友花の呆れ顔を見た。後部座席は主に荷物を載せるのに利用するため、座席はすべて取り除かれている。なので、今の友花は中腰で運転席へしがみつきながら立っている状態だ。態勢がつらいから、一刻も早く自宅へ辿り着きたいのだろう。


 「お前の日頃の行いが悪いからなんじゃないか、友花」


 「運転手のアンタの行いが悪いせいね。きっとそうよ」


 信号の色が赤から青へ変わるまでの間、いとこ同士で軽口を叩き合う。


 雨足は、大樹が最後の配達をしてまわっていた時よりも激しくなっていた。風も強くなり、今や路上を歩く歩行者の姿も見当たらない。傘を差して歩こうものなら、道中であっけなく壊れてしまうだろう。


 強引にでも送っていくことにして、よかった。助手席で大人しくしている陽向の方を一瞥して思う。


 信号を通過すると、ほどなくして、通い慣れた道の先に目的地が見えた。


 夜に友花の家を訪れると大抵は窓に明かりが灯っているのだが、今夜は玄関の外灯しかついていない。


 「今日、親二人とも留守にしてるから送ってもらえて助かったわ」


 車を停車させた大樹に「じゃ、ありがとね」と笑顔で言い、友花はスライドドアを開けた。途端に、冷たい雨が強風にのって車内まで流れ込んでくる。


 「その子のこと、ちゃんと送ってあげるのよ。ファンは大切にしないと、ね」


 「分かったから、早くドア閉めろよ!」


 大樹が文句を言うと勢いよくドアが閉まり、車内に元の平穏と静寂が戻ってきた。小走りで駆けて行く友花の後ろ姿が玄関扉の向こうへ見えなくなるまで何気なく見守ったあと、大樹は沈黙を破った。


 「騒々しいやつで、ごめんね。えっと、家は三丁目の方でいいんだよね?」


 問いかけに、陽向は一度だけ首を縦に振って応えた。店を出る前に教えてもらった住所を思い返しながら、大樹は再び車を発進させる。


 陽向から聞いた家の住所は、隣りの地区にある住宅街だった。何度か配達にも訪れている大樹の頭には、閑静で生活に余裕がある者たちが暮らしている地域、という印象が強く残っていた。個人商店と住宅が分け隔てなく軒を連ねる、大樹が幼い頃から慣れ親しんだ街並みとは違い、大きくて真新しい家が立ち並ぶような、言うならば一等地とも呼ぶことのできる場所だ。


 お金持ちの家の息子。陽向に抱くイメージがまた一つ増えたが、大樹にとってはあまり好ましいものではなかった。


 陽向の身分のことについては考えないようにしようとハンドルを握る手に力を込める。最も、とうに芽生えてしまった想いに目をつむることなど出来ないのだから、恋というものは厄介だ。例えば、相手の素性を詳しく知らないのに好きになって、あとでその相手が悪人だと判明しても、想いが冷めない限りは心が離れることもない。離れようとすれば、自分の気持ちにふたをするしかない。


 相手や周囲の言動に傷つけられ時に傷つけながら生きるのと、報われない恋心をひっそりと胸の内に秘め続け、見て見ぬふりをして生きるのと、果たしてどちらの方がましなのか。


 「仲いいんですね。彼女さんと」


 陽向が思いがけないことを口にしたのは、そんな二択を考えていた時だ。


 「彼女……って」


 誰のことだ、と混乱するのと、前方の赤色に気がついてあわててブレーキを踏むのと、ほぼ同時だった。停止線からはみ出なかったものの路面が濡れているせいでタイヤがスリップし、車は車道をふさぐように横向きに停止した。即座に確認したが、幸い、後続車は一台もなかった。


 「ごめんね、大丈夫?!」


 自分の心臓が激しく脈打つのを感じながら、大樹は助手席へ目をやった。


 陽向は花束を抱きしめ、面食らった様子で「だ、大丈夫です」と答えた。声が震えていたことを気にしながらも、後続車が来ない今のうちにと車を正しい向きへ戻す。


 「どこか、ぶつけたりしてない? 花束は?」


 車内灯をつけると、陽向の目がまぶしそうに細められた。


 「僕は何ともありませんし、花束も……無事みたいです」


 「よ、よかったぁ」


 大樹は足で力いっぱいブレーキを踏みながら頭を垂れた。花束はともかく、陽向に怪我でもさせてしまったら一大事だ。


 「信号、もう青ですけど」


 「え。あ、はいっ」


 安堵してばかりで、今度は前方不注意になっていた大樹を、静かな声が助ける。


 しばらく、雨がフロントガラスを叩く音を聞き、ワイパーが上下に動くのを見ながら走った。


 雨が降り止む気配は、微塵も感じられない。予報では夜には晴れて星空が見られるはずだったが、空を見上げても星はおろか夜空すら拝めず、視界に入るのは真っ黒な雲ばかりだった。行く先の上空、遠くの方で雷が光っている。光が消えても音は鳴らず、車内の沈黙が一層、濃くなるだけだった。


 「あのさ、さっき……きみが言ったことについて、なんだけど」


 踏切の前で一時停止をしている隙に話を持ち出す。


 陽向は何も言わず、ただ黙って言葉の続きを待っているようだった。


 「もしかして友花――さっきまでこの車に乗ってた人のこと、俺の彼女だと思ってる?」


 「違うんですか?」


 「あいつは俺のいとこだよ」


 「いとこさん、ですか……?」


 踏切を通る騒々しい音に混じって聞こえた陽向の声は、あっけらかんとしていた。どういうわけか、彼は友花のことを大樹の彼女だと勘違いしていたようだ。


 「すみません。仲が良さそうで、その……息もピッタリだから、てっきり」


 「まあ、子供の頃からしょっちゅう顔を合わせてるから、嫌でも息が合うようになるんだよね。でも妹ならまだしも、彼女に間違われたのは初めてだな。そもそも俺にはそんなのいた試しないけど」


 珍しい勘違いに苦笑が零れる。彼氏の家業を彼女が手伝っているように、陽向には見受けられたらしい。


 何にせよ、誤解を解いておくに越したことはない。


 この際、親戚関係であるのを証明するために、幼い頃に何度もした友花との口喧嘩エピソードでも話して聞かせようかと話題を選んでいると、


 「そうなんだ。……よかった」


 助手席の陽向が、小さな声で呟いた。


 後半の、安堵したような、もしくは嬉々として発せられたようにも思えた「よかった」の意味が、大樹には分からない。問い返そうとするが、いつの間にか目当ての住宅街へ入りかけていることに気がつき、別の問いかけをしなければいけなくなった。


 「この辺だよね、きみの家。どの辺り?」


 「次の角を右に曲がって、その五軒先の――」


 言われた通りに道を右折すると、陽向が前方を指さして「あそこの白い門がある家です」と大樹に知らせた。


 住宅の前に車を停め、ハザードランプをつける。


 「この家で間違いない?」


 「はい」


 大樹がガラス越しに見上げたのは、立派な一軒家だった。大きなガレージつきで、ヨーロッパの建物を彷彿とさせる洒落た造りの門の先には前庭まである。


 しかし、街灯の心許ない明かりに浮かび上がった家は暗く、闇に飲まれかけていた。部屋の窓には明かりが一つもついていない。友花の家のように外灯が灯されているわけでもないことから、家内には誰もいないのだと大樹は推察した。


 ところが、陽向が発したためらいがちな一言で、大樹は混乱する。


 「あの、森村さん。よかったら……母に会って行ってもらえませんか」


 「え。でも、迷惑じゃ……」


 「母も花が好き、なんです。だから花束を見せて、『この花束を作ってくれた人だ』って森村さんのこと紹介したら、きっと喜んでくれるんじゃないかなって、そう思って……」


 協力してもらえませんか、と上目に請われてしまえば、彼にほのかな想いを抱く大樹には成す術がない。断るという選択肢が思い浮かぶはずもなかった。


 代わりとばかりに、「恋は盲目」という言葉が脳裏に浮かぶ。恋愛の本質を見抜いたようなその言葉は、とめどなくガラスを伝っていく雨粒に流されてゆっくりと消えた。

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