第16話 荒れた庭
外に出ると、あれほど降っていた雨が止んでいた。空に暗い帳を下ろしていた雲に切れ間ができ、星々のささやかな瞬きを拝むことができる。やっと予報通りの天候になってきたようだ。
雨上がりの独特なにおいとともに、ほのかに土の香りがした。それらは玄関と門扉の間にひっそりと広がる前庭から漂っているようだ。
「この花壇いっぱいに花を植えたら、素敵だろうね」
かつて陽向の母親が園芸を楽しんでいたという庭は、荒れ果てていた。特に煉瓦で縁取られた花壇の周りはひどい荒れようで、雑草だらけになっている。茂った青草の中に、どこからか種を飛ばしてきたらしいタンポポがいくらか咲いている他は、花など見る影もなかった。
およそ十年は人の手が入っていないだろうと、大樹は推定した。
だが、ちゃんと除草をして土を新しいものにすれば、植物が育ちやすい環境にできるだろうとも思う。庭には遮るものがないので、日当たりも良さそうだ。
元より、園芸をしやすいように設計されているような。
「この家は、父が建てたものなんです。庭を作らせたのも父です。母さんが、花に囲まれて暮らしたいって言ったからだって、前に聞きました」
「いい話だね……。なおさら、庭を綺麗にしたくなるよ」
「これから、ちょっとずつ手入れをしていこうと思います。まずは、ここと裏庭の雑草をぜんぶ抜くところから始めなきゃ……」
庭を埋め尽くすように生い茂った草をすべて取り除くのは、気が遠くなる作業だ。一人では膨大な時間がかかるだろう。陽向の苦笑いも、この時ばかりはどこか憂うつそうだった。
「手伝っても、いい?」
そこで、見兼ねたように大樹が問いかける。さもたった今思いついたかのように振る舞ったが、実は何分も前から用意していた台詞で、口にするタイミングを見計らっていたのだ。
力になれることがあれば何でもすると言ったのは自分だから。
もちろん、それは大樹の本心だ。手伝えそうなことがある上、専門分野なのだから、むしろ口を出したくならない方がおかしい。
「草刈りなら、うちに専用の機械があるし……二人でやった方が早いでしょ?」
「……」
「あっ。もちろん、お金はもらわないよ! 俺が個人でやりたいってだけだし、あわよくばまた店に来てもらえるかも、とか思った訳じゃなくて」
後からあわてて付け加えるが、却って言い訳がましくなってしまった。自分の首を絞めているも同然だ。
おかしな誤解を与えてしまっただろうか。
不安と動揺から、さらに余計なことを口走ってしまいそうになるのを、大樹は必死にこらえた。
「嬉しいです」
「……え?」
「僕も今、あなたに言おうと思ってたんです。よかったら手伝ってもらえませんか、って」
同じことを考えていたなんて嬉しい、と陽向が言う。どこか弾んだ声音で、笑みを浮かべながら。
彼は、清らかな水のように純粋な心を持っていた。若さ故、巷に溢れる余分な情報に振りまわされる前だからこそ、穢れがない。
陽向というまだ高校生の少年は、ただ静かにそこに佇んでいるように見えて、その実、大人でさえ目を背けてしまいたくなる真実や、やり場のない感情を胸に抱えている。
自分は今日、その一片を知ったに過ぎない。未だ把握できていないことの方がはるかに多い。
理解しているつもりだった。想いを告げられたものの、自分たちの間にはまだいくつもの障壁があるのだと。
陽向がこれまでに負った心の傷は、大樹が想像しているより深く、おそらく簡単に癒せるものではない。先ほど吐露された話や父親との関係を目の当たりにした後となっては、直接、言葉にせずとも、伝わってきた。
その心の中を覗いて、抱えている痛みを一つ残らず引き受けたい――。
腕が自然と伸び、黒髪の色が最も濃い部分に触れていた。
頭を撫でることしか出来ない自分が、大樹はひどくもどかしかった。
「……じゃあ都合がいい日に、またお店に顔を出してよ。ひまな時とか、誰かと話したい気分の時だけでもいいからさ。もちろん、手伝って欲しい時は遠慮なく声をかけてね。俺はいつでも、大歓迎だから」
「いつでも……って、お仕事があるのに?」
「……うん、いつでもは言い過ぎかな。でも気持ちとしては、いつ来てくれても嬉しいからさ」
「僕がお店に行くと嬉しい、ですか……?」
「うん」
陽向は念のためといったように問いかけ、目の前で大樹がうなずくのを見ると満足そうに口元をほころばせた。まるで、好きなお菓子を頬張って目を輝かせる子供のようだ。大樹は微笑ましい気持ちになった。
湿った土の香り。草のにおい。雨の残り香。
自然の微かな気配が二人を静かに見守り、夜の空気はまだ少し距離のある彼らを平等に包んでいた。
少し前までは気まずいばかりだった沈黙でさえも、今は心地いい。
「じゃあ、陽向くん。またね」
家に入る前とその後。自分たちの間に広がる雰囲気の違いをしばし楽しんでから、大樹は別れの言葉をかけた。陽向は何も言わず、わずかながらうなずいただけだった。
名残惜しさを感じながら門をくぐる。
家の敷地から一歩、足を踏み出した時だった。
「……陽向くん?」
何か、背中にやわらかいものがぶつかってくる感触があり、大樹は動きを止めた。首だけをひねって振り向いた先には、陽向の姿がある。背中に抱きつくようにして、大樹のことを引き止めていた。
「母の日が、こんなに楽しかったのは初めてです」
エプロンの紐が引っ張られるのを感じた。腰に触れた陽向の指先が引っかかっているようだ。
名残惜しい気持ちが一層、強くなる。
このまま、ずっと引き止めていて欲しい。そんな、淡い願望が込み上げてきそうになる。けれど「ずっと」は存在しないのだと大樹は知っている。幸せは長くは続かない。楽しい時間はあっという間に終わり、淋しい夜がやって来て、それこそ永遠かと思われるくらいに長く、重苦しく続く。そして、いずれまた明るい朝が幸福を連れてやって来る。そんな調子で人生は続いていく。
この温もりも、長く留まってはくれない。知っていても、少しでも長く陽向の温もりを背中に感じていたかった。だから、身動き一つせずに次を待った。
「あなたの、大樹さんのおかげです。本当に……ありがとうございました」
「……うん」
「また、お店に行きます。大樹さんに逢いたくなった時に」
「うん。楽しみに待ってる」
別れを惜しむように、陽向の手の平が背中を撫でた。
その感触がなくなるまで少し待ってから、大樹は春日井邸を後にした。
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