第29話 線香花火
夕飯を済ませると、梢はどこからともなく花火のセットを持ってきた。様々な種類の手持ち花火を詰め合わせたもので、大樹にも見おぼえがあった。何年も、押し入れにしまい込んだままになっていたものだ。
「これね、前に商店街の福引で当てたんだけど、使い切れずに残っちゃってたのよ。だから二人とも、腹ごなしに遊んできて」
「いいんですか、使っちゃっても」
「うちの子たちは花火ではしゃぐ歳でもないし、他に使い道もないもの。夏祭りの夜を花火で締めくくるのも、素敵かなと思って」
後片づけはやっておくからと言う梢に見送られ、大樹と陽向は、もらった花火と水を入れたバケツを手に外へ出た。時刻は九時。田舎の住宅街は人影もなく、闇に覆われて静まり返っていた。
仏壇から拝借した
派手にパッケージングされた袋から手持ち花火を一本取り出し、蠟燭の火に先端をかざす。
「湿気てないといいけど……」
火に炙られても沈黙している花火を見守りながら、大樹が呟く。彼の記憶では、家族で最後に花火をしたのは高校二年生の夏だ。湿気を吸い込んで、使いものにならなくなっていてもおかしくはない。
諦めかけ、燃えている先端を水に浸そうとした時、マッチを擦るような音がした。暗闇の中で炎の花が咲き、陽向が「あっ」と短く歓声を上げる。
「よかった。まだ使えるみたい」
「きれいですね」
「陽向くんも、どんどん使って。こうなったら、一つ残らず使い切っちゃおう」
二人は次々に、花火へ点火した。
陽向は、パチパチと音を立てて火花が弾ける手持ちスパークという種類を気に入ったようだ。大樹は手持ちすすきと呼ばれる花火で空中に文字を書いた。形として残ることはない文字を、何と書いたのか、陽向は器用に当ててみせた。クイズ大会は、手持ちすすきが使い果たされるまで続けられた。
最後に残ったのは、手持ち花火の中では最も地味な線香花火だった。
陽向の手が、紐のように細長い花火の先端を慎重に火へかざす。大樹も隣りにしゃがみ込み、彼の真似をした。
先に蕾をつけたのは、陽向の花火だった。震える小さな火球は徐々にふくらみ、とろみのある牡丹の花を咲かせる。大樹は自分の花火の先端を、陽向の牡丹へくっつけた。すると灯火は大きく分裂し、大樹の花火をも色づけた。
まるで分け与えられた命を無駄にしないようにとばかりに、蕾は力強く燃え、弾けた。激しく飛び散る火花を前に、二人は童心へ返ったように瞳を輝かせた。
「懐かしいなぁ。小さい頃、どっちの花火が長くもつかって、よく弟と競い合ったんだよね。じっとしていられなくて、俺はいつも負けてばかりだった」
「じゃあ、今度は僕と勝負しましょうか」
「うん。受けて立つよ」
花屋の店先で、平和な勝負が繰り広げられた。一つ勝敗がつくまでの間、場は静寂に包まれ、どちらかの灯火が尽きた途端に声量を抑えた歓声が上がる。一対一の勝負は意外な盛り上がりを見せた。
笑い合う顔を、線香花火が放つ淡い光が照らし出す。大樹は花火に夢中になっている陽向を横目で盗み見た。まぶたが瞬きを繰り返し、雪の結晶のような火花が飛び散るごとに、黒い瞳に映り込んだ景色は移ろいゆく。儚げに揺らめく光は美しい模様を描き、瞬時に色を変え形を変える。同じ花は、二度と咲かない。
万華鏡のようだ。見入る大樹の脳裏に、ある情景が浮かんだ。それはいつの日か、二人きりの狭い部室で思い描いた、切ない幻。
「線香花火って、人の一生にも例えられるんだって」
少しずつ弱くなっていく輝きを眺めながら呟く。思い出すのは、ひんやりとした黒板の冷たさと、物知りな教師の顔。
「何も持たない蕾から始まって、若い頃にたくさんの出来事を経験して、いずれ鮮やかな花を咲かせる。でも、老いとともに華々しさを失って、やがて……花が散るように静かに消えていく」
火の勢いが衰え、ただの球体へ戻り始める。飾りを失った花は、大樹の手のうちで最後の足搔きを見せた後、力尽きて落ちた。
大樹は残骸をバケツの水へ放り投げると、新しい花火を手に取った。火をつけると、先端に小さな蕾が宿る。消えかけの花火を持ったまま、陽向も開花の瞬間を見守った。
「夏の部室でこの話をされた。あまりにも淋しい話だから、それ以来……何となく花火を避けてた」
一人の男に縛られ、また彼を縛りつけていた大樹には、花火が自分たちの行く末を暗示しているように思えてならなかった。
とろけた二つの花は激しく燃え上がり、互いが散らす火花すら受け入れて生き生きと咲く。だが輝きは刹那に留まり、二つの炎は同時に勢いを失くして、墜落する。
危うい関係を続けていれば、破滅の瞬間は必ず訪れる。悟っていた。それでもいいとさえ思っていた。たとえ何もかもを失っても、愛する存在があるならば何度でもやり直せる。幸せに浸りながら、そんな都合のいい夢を見ていた。炎が消えるその時を恐れながら策を講ずることもなく、甘い幻想ばかり抱き続けた。
緊張感と享楽に満ちた日々が終幕を迎え、数年が過ぎた。とっくに終わったことだと言い聞かせながら生きる一方で、心は囚われたままだった。色褪せた思い出に手を伸ばし、かつての想い人と部室に閉じこもる夢を見続けた。
陽向が通りすがり、扉を開け放ってくれなければ、いつまでも抜け出せなかっただろう。
「だけど……久し振りにやってみると、やっぱり楽しいね。花火は」
「ええ。僕も、楽しいです」
「俺が楽しめてるのは、きみのおかげだよ」
「僕の……?」
大樹は大きくうなずいた。最後の一本を陽向にゆずり、道端に座って終わりを見届けようと決める。
白煙をまき散らしながら、火が線香花火を伝って上へのぼっていく。
「ただ何となく眺めるだけだった祭りも、仕方なくやってた出店も、陽向くんがいてくれたから楽しめた。ハプニングが起きた時も、きみは助けてくれた。俺の話を聞いて、くすぶってた気持ちを受け止めて、認めて、抱きしめてくれた。逃げてばかりの俺にまっすぐ向き合ってくれた。今も、こんな俺を愛そうとしてくれてる」
「愛そうと……ではなく、愛して、です」
飛び散る火花から目をそらし、どこか憮然とした口調で陽向が訂正する。恥ずかし気にすぼめられた唇へ口づけたい。衝動をこらえ、大樹は線香花火のきらめきとにおいを堪能することに徹した。
きっと、これが最後だ。
花火を淋しいものだと言った、あの人の顔を思い出すのは。
「愛してくれて、ありがとう」
火が消えた花火を淋しそうに見つめていた少年は、感謝の言葉に小首をかしげた。彼にとっては、礼を言われるまでもないことなのだろう。
ひたむきに他人を愛せる陽向を大樹は尊敬した。小柄な体躯に、誰にも劣らないほど大きくて深い愛情を宿し、自分以外の者に惜しみなく注ぐことができる。それは一種の才能だ。
見返りなど求めていないとしても、想いに応えることが陽向にとっての喜びになるのだとすれば、いくらでも応えたいと大樹は思った。
「大好きだよ」
照れ臭くて、別の言葉で愛情を表現し、星空を眺めるふりをする。天を流れる星の川の脇を、流れ星がかすめていった。思わず漏らした感嘆の声に反応したのか、突然、陽向が立ち上がった。彼は何も言わずに大樹の隣りへ腰を下ろすと、乱暴に腕を絡めた。
怒っているのか。不安で強張る肩へ、艶やかな黒髪がこすりつけられる。
「……嬉しい」
その一言で、全身の無駄な力が抜けた。心配性な自分が、つくづく滑稽に思え大樹はこっそり苦笑した。
寄り添う二つの人影を闇は平等に包む。涼しい夜風が肌を撫で、ついでとばかりに蠟燭の火を消していった。街灯の光も届かない場所で、彼らはどちらからともなく唇を重ね合った。
線香花火の残り香が、短い夏の終わりを告げた。
花残り月、きみと出逢い恋をして。 怜 @leo0615
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