第35話 籠の中の少女

 

 △


 天使が舞い降りる光景のようだ。


 偶然か、不幸の予兆か。髪紐が千切れて広がった銀髪が、背にした夕日を透かすように光り輝く羽となり、幻想的な一枚の絵画に見える。


 歪に笑う下手人の生徒も、隣で悲鳴をあげる友人達も目に入らなくて、私の視界と意識は愛しい彼女の浮かぶ姿に満たされていく。頭の奥が警鐘を響かせているのに、ほんの一瞬だけ見とれてしまう。


(なんて美しい光景だろう…)


 私は何を考えているのだろう。妹が目の前で危機に直面してるのに、その光景を美しいだって。馬鹿を言ってる場合か、意識を戻してあの子を救え!


 精一杯手を伸ばして走り出し、どうにか彼女を受け止めようとする。どうせ間に合わないと言う心を無視して、どうかどうかと願いを込めて。


 なのにあの子はとても穏やかな顔で私を見るのだ。何かを言うが私には把握できなくて、諦めた表情が認められなくて気付かない振りで腕を伸ばす。お願いだから黙って欲しいと、現実を否定するように。

 それでも、彼女の音にならない最後の言葉が理解できてしまった。小さく口が動くだけの、見逃してしまいそうなそれは……


(あ、い、し、て、い、ま、す…)




「行かないで鏡花ぁっ!!!」


 妹は呆気なく倒れこみ、鈍い音を鳴らしながら階段を転がり落ちてくる。

 足元に倒れこむ妹の頭からは血が流れていて、白過ぎるその顔は眉一つ動かさない。今にも目を覚ましてお姉様と呼んでくれそうなのに、いつまで経ってもその目は開かない。


 誰かが叫んでいる。階段の上でも私の横でも後ろでも、誰かが大声を上げているのに私には聞こえない。鏡花の側に座り込んで、その手を優しく握るだけ。


「ねぇ、もう起きる時間でしょう…?メイドの貴方がお寝坊なんて、格好がつかないわよ…」


 返事は当然、聞こえてこない。

 二度と流さないと誓った涙が、ハラリと頬を伝って鏡花の手に落ちていく。菫の瞳が生み出したその雫には真実の愛が込められている筈なのに、終ぞ想い人の眠りは覚めなかった。


「願いは、叶わないのかしらね」


 美しい姉妹の穏やかな姿は、喧騒に紛れて見えなくなっていく。

 悲劇の衝撃は大きな波となり、少女の無残な姿に悲鳴が鳴り響いて助けを求める声と共鳴していく。誰かの手が肩を掴むのも、妹の頭をタオルで抑えるのも現実味が無い光景に見える。

 大丈夫かと声が掛かっても姉は反応を示さないまま、その手を優しく握っていた。


 天使は羽を無くし、どこまで落ちていくのだろう。


 ▽









 私の名前は「白清水 鏡花」。

 恐い顔の父がいる。綺麗で優しい姉がいる。沢山の使用人が働く、広大な屋敷に住んでいる。

 今は怪我を治すために休んでいるから、学校には行ってない。愛する姉と優しいメイドにお世話されながら、この屋敷の中で過ごしている。


 それが、私が目覚めてからの全てだ。


 私には記憶が無い。聞いた話では怪我で頭を打ったのが原因らしくて、それが真実なのは足の怪我が証明してくれている。不自由な身体に見知らぬ場所、見知らぬ誰かと暮らすのは楽しいものではない。


 だから私は外を眺め続けている。目覚めてから一度も出られていない外の景色を、届かぬ空に手を伸ばすように。胸に穴が開いたような空しさを抱きながら、何を観察するでも無く。


 時間を忘れて外を眺めていると、屋敷のどこかから時間を告げるチャイムの音が響いてくる。

 そろそろ朝食の時間だろうか。チラリと部屋に置かれた時計を確認すると、予想通りの時間を示している。

 すると、部屋にノックの音が響いて静かに扉が開かれる。


 初めに目に飛び込んでくるのは、燃えるように波打つ赤髪。その人物は私を目にして笑顔を浮かべると、豊かな長髪を揺らしながらベッドの側に。何がそこまで嬉しいのか理解できない笑顔のまま、覗き込むように目を合わせた。


「おはよう、鏡花」


「…おはよう、お姉様」


 チュッ。

 挨拶と共に、彼女の唇に自分のそれを重ねる。これが我が家の朝の挨拶、生まれてからずっとこうしてきたらしい。そうして口を離すと姉は嬉しそうに頷いてこう聞くのだ。


「お姉様のこと、好き?」


 そして私は決まってこう返事をする。


「大好きだよ、お姉様」


 傍から見てると不気味なものだろう。心底嬉しそうに笑う姉と、感情を示さぬまま真顔で愛を語る妹。まるで人形遊びのようなやり取りに見える。

 しかし大好きだと答えなければ、姉はとても悲しそうに笑うのだ。その笑顔だけは心が苦しくなる。無感情な筈の心が痛んで、どうにか喜んで欲しいと思うのだ。


 だから、目の前で嬉しそうな顔をしていると安心する。

 今日もちゃんと出来たと安心していると、彼女は上機嫌で運んできた器を手に取った。


「朝ごはんにしましょうか。はい口を開けて」


 今日の朝食はヨーグルトらしい。姉の持つ器に顔を寄せて小さく口を開くと、ゆっくりとスプーンを口に運んでくれる。摩り下ろした林檎の含まれたヨーグルトは、優しい味と微かな食感が口に広がる。

 大きな器に入ったヨーグルトは二人で食べる分らしく量が多い。私が咀嚼していると、お姉様も同じように口に運んで口元を綻ばせている。


 自分の手を使わずに食事をするのは少し不便だが、姉が許してくれないのだから仕方ない。勿論最初はなんとか断ろうとしたのだが、何度お願いしてもやんわりと断られた。

 曰く、「鏡花は何もしなくていいの。お姉様が何でもしてあげる」ということらしい。

 暗い瞳で見詰める姉は恐ろしかった。本能的な恐怖に頷くしかなかった私は、今もこうして赤ん坊の様にお世話をされている。


「鏡花…?」


 思考に集中しすぎた所為か、差し出された食事に気が付かなかった。

 返事をしようと姉に視線を向けるが、そこに映る光の灯らない菫の瞳に反射的に口を噤んでしまう。


「何を考えていたのかしら?お姉様と食事をするより夢中になるなんてさぞかし楽しいことなんでしょうけど、人を無視してまで考え事とは褒められたものではないわ」


「ご、ごめんなさい」


 まずい、完全に不機嫌にさせてしまった。姉は不機嫌になったからって折檻したりはしないが、その代わりにとても恥かしいことを要求してくる。それも直接的に恥かしい事ではない、相手が思わず照れてしまうような事だ。

 今回はどんな罰かと恐々としていると、彼女は掌にヨーグルトを落とすと顔の前に翳した。


「悪いと思ってるなら、食べなさい」


 冷たく暗い瞳とは裏腹に、優しい声音での指示。

 どうせ逆らう事等できないしする気も無いと、彼女の掌に向かって口を開いて舌を伸ばす。気分は主人の手から餌を貰う小動物のようだ。


「は…………ふ……れろ………」


 舌で掬うように口に運びこむ度に声が漏れて、掌に舌が触れるとしょっぱさを微かに感じる。粗方を掬い上げれば口の中に溜まった分を咀嚼して一飲み。残りを丁寧に舐め取りながら彼女の様子を目だけで確認する。


「ん……ふ、ちゅ……じゅる………はぁ、これでいい…?」


「…ええ、良い子ね」


 姉は掌を確認すると私の素直な対応に満足したのか、再び食事を再開させてスプーンを動かしていく。

 自分の行為に頬が熱くなるのを感じながら大人しく口を開いて、集中して食事を進めていく。器が空になる頃には羞恥も完全に薄れて姉の機嫌も完全に元通りだ。


 去り際にキスを一つ落として、姉は片付けに向かうため部屋を出て行く。

 嵐が過ぎ去った後のような静けさに包まれながら再度外を眺めれば、屋敷の外を使用人達が歩いているのがわかる。そろそろ屋敷の中を色んな音がひしめき出して、一日の始まりを感じるのだろう。


 扉の開く音を聞きながら、私はぼんやりとそんな事を考えていた。


「鏡花、少し移動しましょうか」


 車椅子を押す姉を視界に入れながら。








「また外を見ているのね。一体何がそんなに楽しいのか、お姉様に教えてくれるかしら?」


 真横になった外の風景に視線を向けていると、頭上から楽しげな声が聞こえてくる。

 時間は昼を過ぎた頃、私は居間のソファーに横向きに寝転がり、姉の膝の上に頭を乗せている。所謂膝枕の格好だ。


「…特には、何も。でも、屋敷の外を少し歩いてみたいとは思ってるよ」


 柔らかく暖かな膝を頭に感じながら返事を返せば、肩に置かれていた手がゆっくりと頭に伸びてきて髪を梳くように撫でられる。暖かな昼の日差しも相まって眠気がふつふつと湧きあがる中、無感動な瞳は庭師の仕事をぼんやりと追ったままだ。


「鏡花が元気になったら、二人で外を歩きましょうね」


 元気になったらとは、何処までのことを言ってるのだろうか。私の怪我が完治したら?それとも心が元気になれば?もしかして、記憶が戻ったらだろうか?

 真意の見えない答えが気に食わなくて、頭を動かして仰向けになり姉の表情を確認しても、そこに浮かべているのは笑顔だけ。

 どうしたの?と聞くように顔を向ける姉に対して、問い詰めるように疑問をぶつける。


「私はいつまで此処にいるの?」


 言外にどうしたら一人になれるのかと質問を込めて。

 目が覚めてからというもの一人で過ごすのは眠りに付いた後位のもので、食事も入浴もトイレも着替えも生活の殆どを姉かメイドと共にしている。

 隠れて何かするなんて不可能だし、外部との連絡手段も誰かを通さなければならない。なまじ怪我や記憶喪失をしている分周りも過保護を注意出来ない。


 まるで私は、籠の中の鳥だ。


「………はぁ」


 私の言葉に何かを思案した姉はズイっと顔を近づけると、掌と手の甲で頬を挟むようにして目を合わせてくる。垂れ下がる髪が二人の顔を外界から遮断して、囲まれたように薄暗い空間を作り出す。

 彼女の甘く湿る吐息と、花の様な香りが私を包んで重苦しい空気を作り出す。しばしお互いを見詰め合った後、姉は更に距離を詰めると耳をくすぐる様に囁いた。


「…出ようとなんてしちゃダメよ…。もう、離さないって決めたんだから、鏡花はずぅっとお姉様と一緒に…、誰にも邪魔されず此処で幸せに暮らすのよ…」


 姉の答えは簡潔だ。つまりは、私はここから出られない。

 満足そうに離れていく姉を見ていると、さっきの言葉が冗談ではないのだとわかる。話は終わりだと視線すら寄越さない姉を尻目に、再び外へと顔を向ける。窓の外で揺れる草木が楽しそうで、仲間に囲まれた花々が私を哀れんでいるようだ。


 私にとって外に出られないのは辛くは無い。良い感情も悪い感情も記憶の無い私には朧気だから。

 でも一つだけ思うのは、姉のあんな無理をする姿は見たくないということだけ。自ら悪を演じるような姿は、無くした記憶が怒りを覚えるように心の何処かが反応を示す。


 それを伝える事は、終ぞしなかったけれど。








 夕食後の入浴の時間も姉と私は一緒に過ごす。

 身体を洗うのも姉の仕事らしくタオルを片手に腕の中に誘われ、背中に柔らかな感触がピッタリとくっ付いてくる。お互いその感触には反応を示さず体を洗い始めれば、優しい手さばきで体中を撫でる様に泡立てられていくのがわかる。


 腕も足も、言葉にするのが恥かしい所も隅々まで綺麗にされて、最後は時間を掛けて銀色の髪を洗われていく。一本一本を慈しむように丁寧に手を通され、気持ちよさに自然と口角があがってしまう。

 鏡に映るその姿を幼子のようだと眺めていると、不意に姉の手が止まってしまう。何か髪に異変でも合ったのかと思い、鏡越しでは様子の見えない彼女に声を掛ける。


「お姉様、どこか変な所でもあった?」


「………ううん、なんでもないわ。貴方の綺麗な髪に何かあったら、黙ってなんかいられないもの。…少し昔の事を思い出していただけ」


「昔のことっていうと、私との思い出?」


「いいえ、貴方は関係の無い、お母様と私の思い出を少しね」


 髪を洗う手を動かし始めながら、姉はその思い出について話を続ける。その言葉には懐かしむような優しさと、微かな罪悪感が痛いほどに込められているように聞こえる。


「お母様がいた頃は、私もこんな風によく髪を洗ってもらったの。楽しそうに人の髪を弄くりながら鼻歌なんか歌っててね、子供の頃の私にはそれが不思議で仕方なかったんだけど、こうして貴方の髪を触っているとお母様の気持ちがよくわかる。愛しくて、ずっと触っていたくて、心を許してくれるこの時間が心地よくてたまらない」


 毛先に馴染ませるようにじっくりと掌で撫でながら、姉は上機嫌で鼻歌を奏でる。そして暫くして手を止めると、シャワーの温度を確認しながら鏡に映る私を見てぼそりと呟く。


「…鏡花は、お姉様が好き?」


 いつもの質問。毎日繰り返す決まりごとにも似た質問に、私も決められたように返事をする。


「私も大好きだよ」


「……………嘘よ」


 ザァーという音と共にシャワーを頭から掛けられ途端に視界を開けてられなくなる。暗い中で髪を流されながら脳裏に浮かべるのは、最後に聞こえた不可解な言葉。

 嘘とはどういうことだろうか。私は姉が嫌いでは無いし、記憶がある頃の私も同じ筈だ。使用人達の視線にも強い困惑は見られなかったし、姉妹が揃っている写真も多く飾ってある。お互いの絆が嘘とは思えない以上、何処に嘘を見出したというのか。


(お姉様、貴方は何を考えているの…?)


 全てが洗い流される中で、私の疑心はこびりついたまま。

 開いた視線に入り込む姉の様子は特段変わって見えはしない。さっきの言葉は幻聴だろうかと疑ってしまうほどに、自然体で人の髪を整えている。


 音だけが反響する。自然と身体を流れる水の音と、触れられた髪から滴り落ちる水の音。

 ぴちゃり、ぴちゃりと時間の進みを引き延ばそうとするみたいに、もしくは二人の少女を急かすみたいに。

 湿った音が斑になって少し経つと、背後から抱えるように腕を回され静かな声が鼓膜を震わせる。


「湯船に入りましょうか。触れ合っていてもこのままでは冷めてしまうわ」


 それは体温か、心の温度か。

 聞き分けの良い子供みたいにこくりと頷いて、肩を借りながら浴槽の縁へ向かえば、まるでお姫様のように白く濁った湯船の中に誘われる。

 とろりとしたお湯に肩まで浸かれば、体の力が溜め息に混じって溶け出していく。陽光やベッドとは違う強めの熱が気持ちよくて、欠伸が漏れ出すのも仕方の無い事か。


「ふぁ………ぁ?」


 肩越しに吸い付くような感触が訪れ、横を見れば姉が肩を抱くように寄り添っている。撫でる様な肩に触れる手が艶かしくて、引っ付いた部分が柔らかくて、ほんの少しだけ顔が熱いのは上せ始めたからだろうか。


 ゆったりと寄りかかるように時間を過ごす。時間と共に徐々に私の手はお姉様の空いた方の手と繋がれて、肩に回された手は頭を抱えられるように彼女の方へ。頬を寄せ合うようにして目を瞑っていると、優しい声がすぐ側で聞こえる。


「貴方が私を愛してるなんて嘘よ。虚ろな瞳で心の篭もらない愛を口にしてるのはわかってる。

 でもそんな事は関係ないの、私の側から鏡花が離れるなんて我慢なら無い。だからもう外に行きたいなんて、私から離れるような言葉も行動も止めて頂戴。その代わりに、お姉様が全部やってあげるし、欲しいものはなんでも用意してあげる。私が永遠に守ってあげる…。

 だからお願い、私を置いていかないで頂戴…」


 唐突な心境の吐露に驚いて、顔を離してその表情を確認してしまい後悔する。

 泣いているのだ。辛そうに涙を流しながら、縋るように此方を伺って。泣き止ませたいと動悸が激しくなるのに、何が出来るのかと自問しても答えは一向に出ない。空虚な私の心では、誰かを慰める方法なんかわからないのか。


 こんな時、記憶があればと悔しくなる。でも願ったって記憶は戻らないし、姉の表情は曇ったまま。

 だから私に出来る事なんて、涙を素直に拭う事だけ。


 姉の目尻に唇を這わせて、その雫を吸い取るように拭ってあげる。


「ちゅ………、泣かないでお姉様。よくわかんないけど、お姉様が泣くのは嫌だよ」


 右の雫を丁寧に拭って次は左の目尻に口付け。泣かないでと、笑って欲しいと想いを込めても後から後から続いてきて、どうしても涙が止まってくれない。

 何度も、何度も。どれだけ拭っても意味が無いのかと胸が苦しく締め付けられて、焦りと熱で頭がぼうっと白くなっていく中、不意に強く抱きしめられた。ぎゅうっと痛いくらいに胸に包まれ、嗚咽の音が頭の上で鳴り続ける。


 華やかな匂いに包まれながら、上せ始める頭で考えるのは先の言葉。

 置いていかないで、なんて寂しい言葉がどうして出てくるのだろう。私の無くした記憶の中に、その答えがあるのだろうか?


 じんわりと汗ばんだ身体が、私を姉から離してくれそうにない。








 ベッドに入る時にも隣には姉の姿。

 私が眠りに付くのを確認しなければ、安心して部屋に帰れないのだろうか。姉の執着ぶりを見続けていれば、自然と理由もわかってくる。


 姉はベッドに横たわると、一定の間隔で肩を叩いてくれる。その安らかな振動に集中すれば、段々と意識が遠のいていくのがわかる。普段は少しだけ怖い人だけど、この瞬間は何処までも穏やかな優しい姉でいてくれる。


「もう、眠ったかしら…?」


 耳元に聞こえる小さな呟きは、誰に対してでもない独り言のようだ。


「お母様…私は鏡花守ると誓ったのに、傷つけてしまったわ…」


 振動を伝えていた手はいつの間にか場所を変えて、顔に掛かる髪をどかしてくれている。撫でられるようなその感触はゆっくりと頬に触れ顎に触れ、首元まで迫っている。

 どこか不穏な感触だ。背筋を冷たい電気がピリリと走り、沈みかけた意識が浮上し始める。ひんやりとした指先が喉を撫でると、無意識に喉が鳴り鼓動が少し跳ねてしまう。


 行ったり来たりする指は、時折チクリと爪を立てながら終には這わせるように首を覆う。

 偽りの寝息が震えかけて喉を鳴らしかける直前、幸運にも指は離れていく。




「貴方はお母様みたいに、私を置いていかないでね」




 扉が閉じた部屋の中には冷たい空気が立ち込めていて、ベッドの中に潜り込んでも寒気がどうにも消えてくれない。首に残る痛みの記憶も、最後に残した姉の言葉も、恐ろしくて理解できない。


 何よりもその言葉を嬉しがる自分が、奇妙な化け物みたいで恐ろしい。

 この生活は何時まで続くのか、記憶が早く戻れば良いのにと願わずにはいられない。


 空が白んでくる頃まで、少女は震えて目を瞑っていた。




 ▲


 大切な物は仕舞っておきましょう。


 飛び方を忘れたあの子が空の青さを見つけぬように、この籠の中に入れておきましょう。


 あの日の悲劇を繰り返さないよう、この手は二度と離さずに。


 愛しい愛しい私の天使。

 羽を無くして、愛を忘れて、可哀想な私の天使。


 真っ白な心をもう一度染めましょう。

 林檎のように真っ赤な色に染めましょう。


 ちっとも悲しむ必要は無いの。

 愛するお姉様は永遠に一緒。


 広くて優しいこの城の中で、私が何時までも守ってあげる。


 だから安心して眠りなさい。

 愛情の中に沈みなさい。


 私の胸に全てを委ねて、ずぅっと眠り続けなさい。


 愛しい愛しい私の天使。


 もしも目が覚めた時は、この籠はきっと壊れてしまうから。


 今だけは私の腕で眠りなさい。


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