第36話 還り道

 

 △


「あの、お姉様の様子がおかしいのって、やっぱり私が怪我をした所為ですか?」


 窓の中に映るお姉様の変わり様に唖然としながら隣の彼に尋ねれば、彼は愉快そうに答えてくれる。


「そうだね。君が怪我をした時の光景が母を亡くした時のトラウマを刺激して、異常なほどの執着と束縛を見せているようだ。最後の様子なんて特に危うい。恐らく現実の君が無意識に愛情を見せてしまったから、感情が爆発してしまったようだ。いつか大好きな人を失うなら、自分の手で終わりを迎えよう…なんてね」


「今の不安定なお姉様にとって、元の私を髣髴とさせる行為が地雷だったんですね。でも現実の私は記憶が無いのに、どうしてあんな事をしたんでしょう?」


「恐らくは君の意識がここにいるのが原因だね。この平原は君の心の外側だから、現実の鏡花に影響が出たんだろう。君が僕に影響されたみたいにね」


 つまり私がお姉様の涙に強く反応したから、現実の私にも似たような感情が表れたという事か。確かにあの瞬間どうにか慰めたくて鏡の中に飛び込もうとした位だが、その感情が形となって見えるというのは少し羞恥心がくすぐられる。


「これが、貴方が私に見せたかった光景ですか?」


 始めて見るようなお姉様の激情は確かに驚愕だった。大きくなってから初めて見る悲しみの涙、独占欲と束縛欲に染まった歓喜の表情、手段を選ばず縛りつけようとする偏愛的な行動。

 面影を残しながらも別人のような姿は今も飲み込むのが難しいが、それでも幻滅するほどじゃない。この程度の変化ならきっと納得できただろうから、他に理由があるはずなんだ。


「お姉さんの事も理由の一つだけど、本題は別。今日一日は姿を見られなかったけれどいずれは…っと、噂をすればなんとやらだね。もう一人君を心底好きな人が見えてきたよ」


 部屋の中には二人の女性が並んで立っている。一人は当然お姉様でどこか不機嫌そうにもう一人に話しかけると、現実の私に手を振り部屋を後にする。残った一人の黒髪のメイドはその姿を確認すると、ベッドの縁に腰掛けて現実の私に話しかけているようだ。


 真面目そうな表情をして話し続けるそのメイドは、私もよく知る意外な人物。


「あれ、どうして環さんがメイド服を…?」


 この世界で唯一の同じ転生者、御陰 環がメイド服に身を包んでいる。

 元が美しくも地味な印象だったからか、古めかしく硬い雰囲気のメイド服によく合っている。禁欲的で静謐なそのメイドは、学院の頃の情熱的な面影が薄れている。


「僕の我侭はね、彼女についてなんだ。彼女は一人で生きていけない。未来はどうなるかわからなくても今の彼女は君がいなければ壊れてしまう。本当は僕がいつまでも見守っていてあげたいけど、僕は消えてしまうからね…」


 そう言って真剣に目を合わせる彼を見ていると、文字通り時間が来ているのがわかる。彼の手は解けていくみたいに端から光の糸へと変わっていき、少しずつ輪郭を失っていく。

 魂だけの彼が消えた先には、何が待っているのだろうか。そんな疑問が浮かんだ気がした。


「貴方、手が…」


「ん?……ああ、思ったよりも案外早くタイムリミットが来たみたいだね。もう少し話していたかったけど、もうお別れだ」


 既に存在しない手をひらひらと振って、朗らかに笑う目の前の青年。自分が消えるというのに恐ろしくないのだろうか。彼は死の恐怖を一番理解しているはずなのに。

 私の不可解だという表情を見た彼は、感慨深そうに語り始める。


「元々僕等は一つだったんだ。けれど君がゲームの記憶を求める度に僕の意識は形を持って、誰かと心を通わせる度に混じった部分が分かれていって、とある出来事が切欠で僕はお役御免になった」


「とある出来事?」


「そう、君の憂いが全て無くなり前世なんか必要なくなったあの時さ」


 憂いが無くなる…。

 記憶の中で結びついたのは、お姉様の劇を見終わった後の不思議な開放感。肩の荷が下りて不安が無くなり、これから始まる未知の未来に心が躍った瞬間。ゲームのシナリオが終わった今、確かに前世の記憶は必要なくなった。


「でも、何も消えることなんて…」


 環さんのことも皆との未来も、彼だって見て行きたいはずだ。これから始まる平穏な日々も大好きな人達との生活も、彼がいてくれたから迎えられたのに、こんなのはあんまりじゃないか。


「気にしなくても大丈夫。君を通して幸せを沢山知れた、誰かを好きになる喜びも知れた。僕の人生は既に終わった事だから、これからの君の人生に僕は必要ない。

 それにこれは終わりじゃない。唯の記憶にすぎない僕が君に還って、不可思議な僕達の魂を本来の形に戻すだけだ」


 彼は情けない笑みを浮かべて立ち上がると、握り拳を胸に当てて私を見下ろす。


「そもそも、僕には他人に寄り添う事も立ち向かう事も出来ない、出来る筈がない。勇気も優しさも君自身が持つものなんだ。

 君が抱いた愛情も、誰かと育んだ絆も、全部君自身のもの。僕はその手助けをしただけで、役目を終えれば消えるのは当然なんだ。

 だからどうか、笑顔で見送ってくれ。僕なんかに心を割く必要は無いから、その分愛する人から目を離さないで。


 鏡花、幸せに生きるんだよ。最高のハッピーエンドを、必ず迎えるんだ」


 そう言って彼は綺麗に笑うと、私の手を取って何かを握らせてきた。

 触れても感触の無いそれは、仄かに暗い光の玉。一体何かと眺めていると、どこか暖かく優しいそれは徐々に私の手の中に消えていく。


 途端、彼の愛する人への想いの結晶が、確かに私の中に宿った。鼓動の様に熱く激しく熱を持つ想いは、彼の言ってた最後のわがままだ。


「良いんですか?」


 この愛を私に預けても…。

 そう続くように尋ねてみれば、彼は既に朧気になりだした髪を揺らして静かに頷く。色を失いだした黒髪は、どこか私の銀髪に似ているようだ。


「本当は我侭なんて言いたくないけど、たった一つだけお願いを聞いてくれ。

 今も寄り添い方を知らない孤独な彼女を、僕の変わりに愛してあげて欲しい。彼女が一人で立ち上がり、魔法のとけた世界で歩き出せるまで見守って欲しい。

 そして出来るなら、彼女にこう伝えてくれないかな…」


「どんな、言葉ですか?」


『こう伝えて欲しい、――――――――――――――――――』


 既に顔の輪郭すらも朧気になった彼の言葉は、終には音を失ってしまうけれど、彼から受け継いだ想いを通してその言葉は確かに伝わってくる。


「…はい、確かに伝えます」


 優しくて暗い愛の言葉に頷くと、彼は満足そうに微笑を浮かべながら、最後の一欠片も風に流れていってしまう。

 穏やかな風を一筋だけ輝かせるように、平原の空に何処までも流れ続けていく。彼の最後を静かに眺めていると、聞こえないはずの声が耳に届いた気がした。




『祝福をありがとう』




 家族が、友達が、愛する人が、私の経験してきた全てが彼の心を動かして、不幸な青年を救ったのだろう。そして彼の知識と魂が、私にも幸せを運んでくれたのだ。小さな私では此処まで来れなかったから、お礼を言うのはお互い様だ。


「こちらこそありがとう。名前も知らない誰かさん」


 結局名前も教えてくれなかった。記憶の中にも何処にも無くて、きっと彼が必要ないと思ったのだろう。過去は過ぎ去ったものだから、気にするなとでも言うように。


 一際強く吹いた風はどういたしましてと言う様に、温かな風を運んでくれた。







 暫く穏やかな風に揺られた後、思い立って目の前の鏡に手を触れれば、パキンと音を立てて割れてしまう。自分の名前の物体が割れるなんて縁起が悪いと思いながら、枠だけになった鏡に触れると水面に沈む様な感触が伝わってくる。


 この中に飛び込めば外に出られるのだろうか。答えをくれる人は誰もいない、案内なんて書かれてもいない。けれど鏡に入れた手を掴むような水面の感触が、此方に来いと言っているみたいだ。

 ならば行くしかないのだろう。どうせ他の出口もわからないし、この場に留まるのも出来ないのだから。進む先があるのならば、今は取り合えず突き進もう。


 一度振り向いて景色を目に刻みこむ。彼へのお礼と別れを想って、静かに頭を下げてからもう一度鏡に向きあう。


 そして深呼吸を一つして、ゆっくりと足を掛けてその中に飛び込むのだった。


 ▽











 ぴちゃり。


 さらさらと何かが緩やかに流れている音の中で、跳ねるような水音が一つ。


 白くぼやけた視界の中で辛うじてわかるのは、そんな音と足元が濡れているということ。それにいつの間にか裸足になっていたようで、冷たい水に濡れる感覚が直接足に伝わってくる。


 少しずつ視界が開けていくと、目の前に広がるのは見覚えのある厳かな噴水。生徒達の憩いの場であると同時に私の記憶に強く刻み込まれていた場所、学院の中庭にあった噴水が何故かここにある。


 足元を浸している水はそこから流れているようで、静かに流れる水はこの空間を余す所なく濡らしている。

 周りは滝に囲まれるようにして閉じられており、出入り口は見当たらない。優しい陽光に似た光に包まれたこの空間には、水と、噴水と、私と、そして一人の見知らぬ女性しか存在していない。


「あの、貴女は誰ですか・・・?」


 服が濡れるのも気にせずに噴水の縁に腰掛けた、穏やかな微笑を浮かべた女性。艶やかな黒髪は先端に行くにしたがって徐々に灰色にくすんでおり、透明感のある服に包まれた身体は魅力的な曲線を描いている。

 彼女は私の言葉を静かに聞き終えると、閉じていた瞳の奥から空色の光を覗かせて、酷く心地のいい声音を響かせる。


「私に名前は無い。だが、多くは神だの、女神だの、上位者だの呼ばれている」


「神、様・・・?」


 そう言われると、確かに女性からは神々しさが溢れているようだ。陽光に似た光も彼女を一際強く照らしているし、足元の水は彼女が触れている部分だけがキラキラと輝いて見える。

 驚きにみるみる目を丸くする私を、神様は愉快そうに見詰めている。そしてゆっくりと足を組み始めると、側に近寄れと手招きをする。


「おいで鏡花。立ち話は好きじゃない、隣に座って話をしよう」


「わ、わかりました」


 彼女の声は抗いがたくて、無意識に隣へと腰を下ろす。お尻が濡れて冷たい感触が広がっていくが、不思議と不快な気分ではないのはこの水も特別だからなのだろうか。

 おっかなびっくり、されど落ち着きを感じて隣に座った私に対して、神様は優しく頭を撫でてくれる。まるで子供を慈しむように、その手の感触からは暖かな想いが伝わるようだ。


「私が見込んだ通りだったよ。鏡花は見事あの子の魂を救ってくれたようだ」


「あの子を、救う?」


「そう、前世の君自身。君の優しさと愛が傷ついた心を癒した。魔法のような、奇跡のような、御伽噺みたいな結末だ。本当に、よくやったものだ」


 そう言って感慨深そうに頷く神様は、撫でるのをやめるとしっとりとした胸の中に私を抱きこんだ。優しくひんやりとした柔らかな胸元に頭を寄せると何処か懐かしい感覚がして、不思議と涙が流れてくる。

 知らない筈の香り、冷たい筈の温もり、けれど確かな心地よさに目を瞑りながら、神様の話に耳を傾ける。


「偶然見つけたあの魂はボロボロでね、転生に耐えられるかわからないほどだった。だから別の人間の魂と共存させる形をとって、その中で傷が癒えればと考えた。あの子が愛した世界を探して、あの子が愛した人間の側に置いて、幸せな生活を送らせるつもりだったんだが…」


 言葉を区切った神様は一つ小さな溜め息をつく。見上げると後悔を滲ませた視線を私に向けながら、言いにくそうに口を開く。


「まさか、母親が亡くなるとは知らなかった。そして既に転生者がいて、姉が問題に巻き込まれるともね。私は現世に干渉できないから、本当にひやひやしたものだ」


「神様は、サンブレの内容を知らなかったんですか?」


「そういう事だ。知っていたら鏡花に悲しい思いなんかさせなかったのに、物事は中々上手くいかないものだ」


 自嘲気味に鼻で笑った神様はまた一つ溜め息を吐き出すと、「けれど」と小さく囁きながら私の頭をギュッと抱き寄せる。胸元から離れて摺り寄せた頬は瑞々しさに雫が零れるようで、ずっとこうしていたくなるほど気持ちがいい。

 その感触に浸るように味わっていると、神様は優しく囁いた。


「でも、鏡花は乗り越えてくれた。多くの出会いと救いの果てに、彼を救ってこの場所へと辿り着いてくれた。流石は…」





「私の愛娘だ」





 …私が、娘?この私が神様の子供だとでも言うのだろうか?

 意味がわからない、私は確かに白清水の子じゃないけれど、それでも私にはちゃんと親が…。


 いや、私は両親を見たことが無い。記憶も一つとして残っていないし、親の写真どころか思い出だって聞いたことが無い。親がいたという事実はあれど、私は何も知らないのだ。

 まるでこの世界から存在を消されたみたいに誰も両親のことを気にしない。家族はもちろん私だって今この瞬間まで忘れていたくらいだ。


 もしかして両親は死んだのではなく、初めからいなかったのではないか…?

 あの日私が養子だと知った時も、誰一人として親のことを詳しくは言わなかった。事故で無くなった事と私だけが生き残った事、それしか聞かされずに親戚がいるのかも墓が何処にあるのかも知らないのだ。


 困惑で頭を真っ白にしながら考え続ける私に対して、神様は優しく言葉を掛けてくる。


「驚くのも無理は無い。けれど鏡花が私の娘なのは事実だ。腹を痛めたわけでも愛する人との間に出来たわけでもないが、お前は確かに私が作り出した子供。まるで天使とはよく言ったものだ」


「……でも、私の本当の両親は事故で亡くなってる筈です。だからそんな事急に言われても…」


「いや、お前に両親はいない。事故で友人が亡くなったというのも、その中で鏡花だけが生き残ったというのも、全て私が植えつけた偽りの記憶だ。単純に白清水夫妻を呼び出して、鏡花を託したに過ぎない」


 神様は言葉を遮るように答えを教えてくれる。その答えは私の胸にすとんと降りてきて、驚くほど簡単に認めることが出来てしまう。今までの常識が崩されるような、何処か思考が開けたような、そんな複雑な感覚。

 物語にいない筈の私が存在するのは、目の前の女性が生み出してくれたから。だからこそ運命を変えられたのだろう。私だけがこの世界の本来の住人ではないのだから。


 私の胸を満たしていく、不思議な開放感。そして後から湧いてくるのは、本当の親に会えたという純粋な歓喜の感情。


「じゃあ、じゃあ…。本当に、お母さんなんですか…?」


 言葉を紡ぐ声が震えて、情けない自分が恥ずかしくなる。けれど神様、いやお母さんは嬉しそうに目を細めて、とても穏やかな声と手で応えてくれる。

 再び胸元に私を埋めながら、くすぐるように言葉を返してくれる。


「ああ、そうだ。大きくなったな、鏡花」


 頭の中はまだ滅茶苦茶のままで、何処か事実を受け入れられないままだけれど、心の奥底の弱い部分がお母さんに甘えている。

 もうどうしたらいいのかわからない。だけど少しの間だけは、この胸の中で涙の流していたくなって。


「よしよし、大きくなっても赤ん坊の頃と変わらないな。泣き虫で可愛い、小さな天使のままだ」


 優しく叩かれる背中の感触が懐かしくて、甘えるように胸元に口を寄せてしまう。そのままひんやりとしたお母さんの服を感じながら、子供のような文句を口にしてしまう。


「おかあさん……、もっと早く会いたかった…。もっと早く知りたかった…」


「すまない鏡花。私もずっと会いたかったけれど、お前を現世に移した際に力を使いすぎたのか、どうしても干渉するのが難しかった。今だってお前から近付いてくれなければ、こうやって触れ合うことも出来なかった」


「わたしから近付いた…?どういうこと?」


「お前の精神世界は一度死後の世界と繋がったことから、現世の外と近くなっているからだ。現世に干渉が難しくても、精神世界なら干渉できるということだ」


 死後の世界と繋がった。思い当たるのはやはり前世の彼のことだろう。彼の魂を受け入れた事で、今はこうして親子の再会が叶ったということだ。


「彼からの贈り物って事なのかな・・・」


「ふっ、そうかもしれないな」


 そういってまた胸元で瞳を閉じて、柔らかな心地よさに沈み込んでいく。撫でてくれる手が心地いい、静かな鼓動が落ち着く、微かに聞こえてくる鼻歌が、記憶の底を静かに震わせ懐かしい喜びを想起させる。


 そうして長い時間を眠るように過ごしていく。

 さらさらと流れる水の音、優しい母の子守唄、冷たいぬくもりに微睡む私を、水の流れが揺り篭のように包んでくれる。


 何かを忘れている気がするけど、どうにも頭が回らない。ぼんやりとした思考を意識しながらも動く気になれない私は、母の腕に抱かれながら何処までも沈んでいく。


「どうせここには時間なんて無い。少しの間眠るといい」


 言葉が聞こえたと思った時には、意識は既に手放されていた。



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