第37話 巣立ち
「あれ…、私寝てた…?」
優しい光、静かな水音、幻想的な光景が寝ぼけ眼に映し出される。
そうだ、私は神様と言う名のお母さんに再会して、甘えている最中に眠ってしまったのだった。
流石に寄り掛かり続けるのは負担になるだろうと身体を起こそうとして、自分の視線が眠りに付く前よりも低いことに気が付く。
隣に座っていたはずの身体は柔らかな太腿の上に移動しているし、頭に添えられていた手は胸の前を交差してしっかりと身体に回されている。
辛うじて動く手を動かして掲げてみれば、幼い子供みたいに小さくなってて、最近やっと大きくなりだした胸も壁のように萎んでいる。
「…えっ?私縮んでる!?」
非現実的な状況に驚いてしまい、思わず大きな声を上げてしまう。
すると抱きしめるようにして頭に顔を埋めていたお母さんは、吐息交じりのくぐもった声を出しながら私の肩口から頭を覗かせた。
「……んん、目が覚めたのか。少し体勢が辛かったから、身体を弄らせてもらったぞ」
「身体を弄った!?そんな、勝手に小さくされたら困るよ!」
「そう焦らなくても元に戻せるから安心しろ。だから今だけ、お母さんに小さな姿を見せてくれないか。幼い頃の鏡花の姿は、もう見ることは出来ないからな」
そう自嘲するように笑いを浮かべると、お母さんは再び私の髪に顔を埋めて気持ち良さそうに声を漏らす。楽しそうにすりすりと甘えられては、流石に否とは言葉に出来ない。元に戻せるとも言っているし、彼女が満足するまではこの姿のままでいてあげよう。
それに、私自身も小さな姿で甘えるのは悪い気分ではない。早くにお母様を亡くした私にとっては、大きな母性に包まれるのは恥ずかしながら心地がいいのだ。
お母さんの胸を枕にしながら、他愛の無い話をぽつぽつと口にする。
「鏡花は甘いものが好きだったな。私も料理が出来れば振舞ってあげたいが、食事を必要としないから美味しいものがわからないんだ」
「じゃあ、今度私が作ってあげるよ。作るのは好きだし、皆からも評判なんだ」
「それは楽しみだ。娘の手料理が初めての食事なんて、私は幸せ者だな」
親子なのに食事だってした事が無い。
「そういえば、お母さんは此処に住んでるんだよね。一人で寂しくない?」
「寂しくない、と言えば嘘になるがそもそも誰かと居た事が殆ど無いからな。鏡花が生まれたばかりの時は少しだけ二人で過ごしたけれど、それを除けばずっと一人で此処にいるんだ。正直言えば寂しいという気持ちがわからない」
「それは…、もっと寂しいことだよ。でも、これからは私が居るから寂しくなんかさせないよ」
「…ああ、そうかもしれないな」
親子なのに一緒に過ごした記憶も無い。
「ところで、鏡花は誰か好きな人は出来たか?」
「えっ、急に何?」
「いや、鏡花も年頃だからな、誰か好いた相手の一人や二人ぐらいいるだろう」
「そりゃ、気になる人はいますけど…。でも、お母さんは見てたんじゃないですか?」
「すまない、私には誰かを好きになる感情がいまいちわからなくてな。鏡花の周りの人間を見ていても、誰にどんな感情を抱いているか理解できなかった」
親子なのにお互いのことがわからない。
それでも二人は話をやめたりせず、穏やかな笑みを浮かべて楽しそうに時間を過ごす。
水を掛け合って、濡れた髪の毛を振り回すように駆け回る。追いかけて追いつかれて、優しい腕の中に抱きすくめられると嬉しい気持ちが一杯になる。そして何度も離れては捕まって、水浸しになりながら疲れの中で母の膝に迎えられる。
柔らかな太腿に頭を乗せて綺麗な顔を見上げていると、含んだ水気を飛ばすように優しく頭を撫でられる。
ぽたり、ぽたりと。
身体に残る疲れごと落ちていくような水音に、何度も微睡みに浸かってしまった。
そして遊ぶことに疲れると、今度は二人で静かな時間を過ごす。
二人で噴水の中に腰を下ろして、冷たいのに気持ちいい不思議な水に包まれながら、なんて事の無い言葉を交わす。
大きな胸に顔を埋めて静かに時間を過ごしていると、途端に甘えたい気分になって無意識に胸に口を付けてしまう。母はそんな私を見て愛おしそうに背中を叩いて、乳房を口に咥えさせてくれた。
優しい子守唄を口ずさんで、大きな母性で包んでくれる姿に私は自然と乳房に吸い付いてしまう。
口に伝わる甘く湿った感触に、凄く恥ずかしい気持ちと、抗いがたい切なさを感じて、私は乳飲み子のように瞳を閉じて結局眠りについてしまう。
そんな幸せな時間が過ぎていった後、私は噴水の縁に腰掛けたお母さんの膝に頭を乗せて、緩やかな眠気に意識を薄れさせていた。
冷たくふんわりとした膝の上で幸せを感じる私に対して、お母さんはこれまでと変わらぬ笑顔で言葉を落とした。
「鏡花、ずっと此処で暮らさないか?私とお前の二人きりで、この小さく美しい箱庭の中で、永遠を共に過ごそう」
優しい笑顔で世間話でもするみたいに、お母さんはそんな提案を口にした。
緩やかな眠気に浸かり始めた私の頭はその言葉に、悪くないかもと思い始めている。こんなに愛してくれるお母さんと、いつまでも一緒に居られるなんてきっと幸せなことだ。
やっと会えた、本当のお母さん。もう一度離れ離れになるなんて、今の私には考えられなくて。
ゆっくりと小さく、承諾の言葉を口に…。
「うん、私も……お母さんと一緒に……」
する瞬間、脳裏に一つの光景が映し出される。
それは舞台の上で輝かんばかりに見せていた、王妃の格好をしたお姉様の満面の笑み。
次いで映るのは屋上で見詰め合った環さんの、幸せそうな泣き笑い。それだけじゃない、幼い睡ちゃんの笑顔も、赤穂の呆れた微笑みも、与羽先輩の朗らかな笑みも、あの日最後に見せてくれたお母様の笑顔だって。
靄のかかった思考は晴れ渡り、了承しかけた口を閉ざしてお母さんの膝から頭を上げる。
幸せに浸った頭では恐らく提案を受け入れていただろうが、皆の記憶が私の意識をしっかりと目覚めさせてくれた。
ちゃんと考えなければいけない。このまま此処に残るにしろ、違う答えを出すにしろ、空気に流されるのではなく言葉を交わさなければならない。
訝しげな視線を向けるお母さんに対して、小さな背丈を一杯に伸ばして見詰め合う。
「もしも此処に残らなければ、私はどうなるの?」
「……一つは、このまま現世に残った身体に戻ることだ。記憶を失ったお前の体に戻って、今まで通りに人生を歩んでいく」
「そうしたら、お母さんとは会えなくなるの?」
「生きている内はな。死を迎えてこの世界に還るまでは、会うことは難しくなる」
やはり、死後の世界に存在するお母さんとは、離れ離れになってしまうようだ。そもそも今回だって偶然の事故の末に前世の彼が私を呼ばなければ会うことは出来なかったのだから、少し考えればわかる事ではある。
けれども何時かは再会できるのも事実だ。永遠を生きるお母さんとは確実にまた会えるが、現世の皆とは今生の別れになってしまう。いや、厳密に言えば記憶の無い私がいるのだけれど、お姉様達と絆を育んだ私は二度と出会えなくなるのだ。
皆と会えない、そう考えるだけで寂しさで胸が一杯になる。大好きなお姉様を笑顔にさせてあげたい、彼の言葉を環さんに伝えてあげたい、心配している皆に向かって大丈夫だよと言ってあげたい。
皆との再会に心が傾きかけていた私が口を開こうとした時、お母さんは予想外の言葉を口にした。
「それともう一つ、お前の精神を過去に送って今までの人生をやり直すことだ。怪我をした日に戻ってもいい、白清水の母親が死んだ日をやり直してもいい。これまでの出来事は全て消え去りはするが、お前の記憶は消えたりはしない。全てを覚えたまま過去に戻って、より良い未来を目指すのも悪くないだろう」
「過去に…戻る…?」
鼓動がうるさく動き出す。口の中が乾いていく。
もしも本当にこれまでをやり直せるのならば、幸せなお屋敷の日々を取り戻せるということだ。お父様とお姉様を悲しませた事故を食い止めて、もう一度みんなで笑い合えるのだ。
しかし、代わりに失うのはこれまで皆と育んできた絆と愛、そして悲しみを乗り越え強く結びついた家族の心だ。それを無くしてしまうのは決して許される事ではない、無かった事にするのは、私なんかが決めていい事ではない。
けれどどうしても脳裏に浮かんでしまうのだ。あの蜂蜜色の光の中で笑いあった、私とお姉様とお母様の、どこまでも甘く幸せな光景が。
心を癒し暖めてくれた、お母様の紅茶の味が。
『おはよう、鏡花』
微笑んで私を呼ぶ愛しい声が、幻聴の様に聞こえた気がした。
苦しい。
私の選択は必ず誰かを捨てなければいけない。皆が幸せなハッピーエンドを願ったはずなのに、誰かの幸せは何かを捨てなければ手に入れられない。
苦しくて涙が出てくる。
お母さんを一人にしたくない、けれど皆と離れるのも辛いのに、それに加えてお母様を救えるかもしれないなんて。私に選べる筈が無い、全部選びたいくらいなのだから。
苦しくて涙が出て、言葉が口から出てこない。
どうしてこんな事をお母さんは教えたのだろう。知らなければ、選択肢なんて聞かなければ悩みもしなかったのに。頭では分かってるのだ、お母さんも善意で教えてくれたのだと、ただ我が子と過ごしたい愛ゆえの提案だったのだと。
苦しくて、苦しくて、結局私は答えを出せずに泣き続けるだけ。
誰かの笑顔を思い浮かべれば、誰かの涙が頭をよぎる。今の私には何かを決めるなんて出来そうに無くて、只管に嗚咽を我慢しながら涙を流し続ける。
お母さんは何も言わない。心配そうに瞳の光を少しだけ翳らせるけれど、決して道を示してはくれない。
『お前が決めろ』と、親子であることを示す空色の瞳からは、そんな言葉が聞こえるようだ。
考え続けても、やっぱり答えは出てくれない。そうして涙と水が静かに流れる空間の中で、ただ時間だけが過ぎていく。沈まぬ陽光に包まれたこの場所では、どれだけの時間が過ぎたか把握できない。
不意に、お母さんは私の頭を軽く撫でると、立ち上がって背を向ける。
「よく、考えるといい。どんな答えを出したとしても、私は喜んで受け入れる。だから心ゆくまで悩んで悩んで、自分の未来を決めるんだ。そのためにも、私は少し席を外そう」
お母さんは一度も振り返らずに滝の側へと歩いて行くと、その中へと吸い込まれるように消えていった。
後に残るのは優しい噴水の流れる音と、私が泣き続ける耳障りな雑音。
暫くうずくまる様に涙を流した私は、服が濡れるのも気にせずに噴水の中へと仰向けに浮かぶ。
冷たい優しさに包まれるように目を瞑って、両手を投げ出すように左右に広げる。銀色の髪が絨毯のように浮かんでいき、その真ん中で私は静かに涙を流す。
お姉様の最後を真似してみても、何も答えは出てこない。
一つだけ気が付いたのは、こんなに苦しいのならば終わりにしてしまいたくなるということ。
環さんも、お姉様も、苦しさから逃げる為に終わりを考えていたのだろうか。
どれだけの時間が掛かるのか、答えは出す事が出来るのか。
水面に漂う私は、とても長い時間そのまま浮かび続けるのだった。
□
「答えは決まったか?」
長く艶やかな髪を揺らしながら、滝の向こうからお母さんが顔を見せる。
外に出た所為か、滝を越えた所為か、身に纏うローブのような服を水浸しにしながら、ゆったりとした歩みで私の目の前に近付いてくる。
未だに小さな子供の姿の私はお母さんの半分ほどしか背丈が無くて、側に寄ったお母さんは目線を合わせるためにしゃがみ込む。そして私の表情を確認すると安堵した様な笑顔を浮かべ、ひんやりとした透き通る両手で私の頬を包み込んでくれる。
そして愛おしそうに眉を下げて、私の目尻を指で拭いながら口を開いた。
「大丈夫。鏡花の答えを、母に教えてくれ」
私はその綺麗な瞳を見詰め返しながら、同じようにお母さんの頬に手を当てて、親愛を込めて静かに唇を触れさせる。
お母さんへの大好きを込めた、初めての親子のキス。沢山の愛情を込めたキスをゆっくりと離して、再度しっかりと視線を交わす。
きっとお母さんはキスだって初めてだ。その証拠に嬉しそうに、悲しそうに瞳の端から涙を流している。行かないで欲しいと想いの滲んだ涙が流れて、芸術品のような完成された美貌を濡らしていく。
「ありがとうお母さん。私を生んでくれて、素敵な世界を見せてくれて。大好きだよお母さん」
「ああ。母もお前の事が大好きだ…。」
「聞いて、お母さん。私の答え、私が決めた未来、それはね……」
そして母の耳元に口を近づけ、囁くように答えを告げる。
聞き終えたお母さんは静かに頷いた後、ゆっくりと立ち上がり私を腹部に押し付けるように抱きしめる。そして何事かを呟いた後に頭を撫でると、私の身体は強く輝きだす。
時間にして数秒、光が収まり瞼を開くと先程まで低かった世界が元の高さに戻っているのがわかる。原理は一切不明だが、身体を元に戻してくれたようだ。
そして再びきつく私を抱きしめながら、耳元に触れるように囁いた。
「それで、本当に良いんだな?」
心配、悲しみ、安堵、複雑な感情の入り混じった言葉に、私はしっかりと頷き言葉を返す。
「はい。もう決めたことだから」
私の返事にお母さんはそうかと呟くように言葉を返すと、頬を摺り寄せながらまた強く腕に力を入れる。ちょっとだけ苦しいけれど、とても幸せな痛みの感触。私も応えるように強く抱きしめ返しながら、何度も大好きを伝え続ける。
それは悲劇の別れの様にも、感動の再会の様にも見える光景なのだろう。
私は答えを出した、出してしまった。
きっと私の我侭の所為で涙する人もいるだろう、変わる筈の未来を潰えさせてしまったのだろう。
それでも私は結末を選んだ。
その先にいる誰かの笑顔を、もう一度見ることを望んで。
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