第38話 この度、目覚めを迎えまして!
□
娘が選んだのは都合のいい過去ではない。
私と過ごす永久に続く微睡みでもない。
彼女自身が歩んだ末の今までと変わらぬ現実へと、
悲しみに歪んだ姉の元へと帰っていった。
なんとも娘らしい、可愛らしく真面目な答えだ。
娘が去っていった鏡の先には、現実の彼女が目覚めを迎えたのが見える。
きっとこの後、愛する人との幸せな再会が待っているのだろう。
だから、この場所で過ごした記憶等必要ない。
私を気にして心を痛めたりしないよう、この小さな空間での記憶は消しておいた。
さぁ、私の愛しい娘よ。思うままに結末を迎えるといい。
母は片時も目を離さず、お前の事を見守っているよ。
いってらっしゃい、鏡花。
□
目覚めは突然訪れた。
不思議な平原の鏡を潜ったと思った瞬間、瞬く間に見慣れた景色が視界に映し出される。
幼い頃に買ったぬいぐるみ、長年使っている本棚、一人で寝るには大きすぎるくらいの清潔で年季を感じさせるベッド。間違いなく、此処は現実の世界だ。
ここが鏡の中で見た虚ろな自分がいた場所だと気付き、あの平原で見た光景は嘘ではないのだと確信する。ならばあのお姉様の異常な様子も真実だ。狂気染みた表情も行き過ぎた独占欲も、首の傷跡も現実に起こったのだ。
無意識に首に触れると、そこには小さな引っかき傷が存在している。お姉様が刻み込んだ、執着と偏愛の証。
とても、悲しい。こんなものを残してしまうほどの、お姉様の寂しさが。私が眠り続けた時間がこんなにもお姉様を追い詰めてしまったなんて、どうしようもなく悔しい。
感極まって涙目になりながら、それでもお姉様の下に行こうとした途端、不意に右手を掴まれる。
「鏡花さん…おはよう…!」
掴んだ相手は、傍らにいた環さんのようだ。
嬉しそうにいつもの静かな笑顔を浮かべて、待ちわびていたとばかりに瞳を輝かせている。ゆっくりと手を引いてベッドから立たせてくれると、私を抱き寄せる。
彼女にも心配を掛けてしまったようで、回した腕に伝わる彼女の細い体は少しばかり痩せているようだ。痛いくらいに強く硬く抱きしめられるも、心配の裏返しだと思うとやめて欲しいとは言えない。
ゆっくりと少しの時間を確かめるように抱き合えば、満足したのか照れくさそうに身体を離す。
「元の、鏡花さんに戻ったんだね…。私も、お姉さんも、貴女が帰ってくるのを心の底から待ってたよ…」
環さんは笑顔を真剣な表情に変えると、私の目を見て話を続ける。きっと、お姉様の変貌を私に伝えるためだ。今のお姉様の変貌は大き過ぎて、笑顔のままでは話せないのだろう。
「特に、お姉さんは酷い様子…。貴女が傷つくのを目の前で見てしまったから…」
「知ってます。記憶が無かった時の出来事も、しっかり覚えていますから」
「…じゃあ、その首の意味も、お姉さんに何をされたかも知ってるんだね…。それでも、鏡花さんの想いは変わらない…?」
彼女の言葉にしっかりと目を見て頷く。
哀れみとも羨望とも取れぬ複雑な表情を浮かべた彼女は、暫くして困ったような笑顔を浮かべる。この子なら仕方ない、こうでなければこの子じゃないとでも言いたげに。
くるりと身体を反転させて、彼女は扉を開いてくれる。そのまま私の手を優しく引いて扉まで近付くと、始めて見るような明るい笑みを浮かべて背中を押した。
「頑張れ鏡花さん、お姉さんを救ってあげて…!」
暖かなその笑顔には優しさが溢れていて、心に勇気が灯ってくる。
悲しくても、悔しくても、私がお姉様を救うんだ。私が一番、お姉様を愛しているんだ。さっきまで弱気になっていた私は彼女の言葉に頷くと、勢いよく部屋を飛び出そうとして…、
反転、環さんの首に抱きついた。
「…………………んぅっ!?」
突然の行為に頭が追いつかないのか、一瞬驚きに固まる彼女を気にせず、お互いの舌を絡ませる。
熱く濡れたお互いの舌を絡ませて、彼女の口内を滅茶苦茶に味わい啜る。身長差故に自然と唾液が口に入って、恥かしい水音が鳴ってしまう。
ちゅぱっ。離れる際の音がやけに響く。
潤んだ瞳の彼女を見詰めながら、濡れ光る下唇をもう一度吸って言葉を伝える。彼と交わした約束、最初で最後の伝言だ。
「『君が何処にいても見つけてあげる。ずっと愛してるよ、環さん』
前世の私からの想いと言葉、しっかりと伝えましたから!」
頬が赤く熱を持つのを感じながら、今度こそ部屋を後にする。
最後に見えた環さんの表情は、澄んだ涙の笑顔だった。
心は…熱く高鳴っている。
お姉様の元へと痛む足を動かしながら、廊下を必死で走り続ける。
あの日言えなかった言葉を漸く伝えられる。この不思議な世界で見つけたハッピーエンドを、彼女と共に迎えられる。
暗闇で流した涙を拭って、彼女の心を奪いに行こう。
使用人達の驚く視線を感じながら、私は屋敷の中を駆けて只管にお姉様の部屋へと向かう。
怪我をした右足の痛みも気にせずに、縺れて転んでも止まらない。履きなれたスリッパが飛んでいっても進み続ける。
止まらない、止まりたくない。走れば走るほど想いがどんどん大きくなって、痛みと興奮が巡り巡って涙が出てくる。
「伝えるんだ、私の想いを…!」
気付けば笑いと涙が一緒に漏れてくる。高まりすぎた感情が体の機能をバグらせたみたいで、頭はもう真っ白だ。
どうしようもなく好きなんだ。絡み合った様々な想いが、「好き」って言葉に次から次へと変わっていく。
会いたい、胸に飛び込みたい。匂いと体温に包まれて二人の境を無くし、一つへと融けてしまいたい。
何も知らなかった子供の頃の、陽だまりに沈むあの日の様に。
一緒にお風呂に入ろう。甘いお菓子を食べよう。大好きだって何度も言って、数え切れない程キスをしよう。
「お姉様……」
この扉の先に、あの人がいる。
乱暴にドアノブを回して、運命の扉を力いっぱい開いた。
「おねえさまっ!」
開いた扉の先には、涙を流して呆然と立つお姉様の姿。
声が、聞こえたのだろうか。信じられないと丸くする菫の瞳が愛しい。軽く開いた鮮やかな口が可愛らしい。
「きょうか…?」
驚愕に開かれた瞳の下には、薄らと隈が出来ているのがわかる。こうして実際にお姉様が苦しんだ証を目にすると、夢の中で見た時よりも強く胸が痛む。
今すぐにでもその胸に飛び込んで、私の愛を伝えたくて。お姉様の元へと駆け出そうとした瞬間、大きな叫びが部屋に響いた。
「来ないでっ!!」
「…っ!」
悲痛な叫びに驚いて身体を硬直させてしまう。その音の発信源を見詰めると、苦しげな表情で涙を流すお姉様が自分の身体を抱きしめるようにして震えているのが見える。
それは恐ろしい何かから自分の事を守るようにも、恐ろしさに震えているようにも、何かを抑えているようにも見て取れる。
どうすれば良いかわからない私は黙ってお姉様を見詰めているのだが、終には視線すらも逸らされてしまう。何が彼女をそこまで怯えさせているのか、何を抑えようと震えているのか。
答えの見えない状況に動けずにいると、血を吐くような言葉が耳に届く。
「ねぇ鏡花、もしかして記憶が戻ったの…?」
「はい、全部思い出しました。小さな時の事も、学院での生活も、記憶が無かった時のことも」
「なら見ていたんでしょう?貴方を傷つけて、縛り付けて笑う私の姿を…」
弱々しい言葉を口にして、膝から崩れ落ちていくお姉様。顔を俯かせた所為で赤い髪が顔に落ち、その影が邪魔をして表情は伺うことが出来ない。
何を言えば彼女は自分を責める事をやめてくれるのか。頭を必死に働かせながらお姉様の様子を見ていると、彼女は肩を震わせながら辛そうに言葉を続けていく。
「もう、貴女が好きだと言ってくれた優しい姉は、此処にはいないのよ…。動けない貴女を束縛して、食事もトイレも管理して、まるで貴女を人形の様に扱って…。辛そうな貴女の顔を見て喜ぶような、そんなどうしようもない女に変わったの…」
「私を傷つけて、喜ぶ?」
確かに束縛している姿は可笑しく見えてはいたが、それでも楽しんでいるようには見えなかったし、誰かを虐めるのが好きな人でもない筈。なのにどうして喜んでいたと言うのか、その答えが一向に見えてこない。
困惑に言葉を失っている私の視界に移るのは、少し顔を上げて此方を眺めるお姉様の姿。影の落ちるその表情から微かに見える瞳には、自虐的な笑いが浮かんでいる。
「記憶を失った貴女は、私を他人のように見ていたわ。二人の愛も、絆も、過ごした日々も嘘だったみたいに、知らない人を見る目だった。それが寂しくて、どうしようもなく苦しくて、貴女が私を見てくれるようにしたかった…。だから、貴女を傷つけて、私以外を見えなくしたかったの…」
言葉を終えたお姉様は、顔を下に向けてさめざめと涙を流し続ける。
成る程、あの記憶の無い私に対しての行き過ぎた愛情表現は、加減がわからなくなったわけでも暴走していたわけでも無く、態と悪感情を引き出していたわけか。
怒りや憎しみは強い感情だから、それを向けられる事に喜びを感じていたのだ。虐めるのが楽しかったのでは無く、記憶を失い向けられなくなった想いの代替を求めたのだ。
ただ、愛する人に見て欲しいという純粋な願い。それがお姉様が私を束縛していた理由で、今も自らを苦しめる鎖だ。
静寂が二人の間を満たしていく中で、私はやっと答えに辿り着いた。言葉で言っても伝わらない感情は、行動で示してあげればいい。
今も膝を付いて涙を流す愛しい人へと、ゆっくりと近付いていく。
一歩、涙が零れて胸を濡らす。
一歩、縺れるように躓いて、同じ様に膝を突く。
一歩、とは到底言えない小さな動きで、彼女に腕を回す。
遠く離れていた二人の距離は、ここに漸く零となった。
お姉様抱きついた私に驚きの視線を向けると、苦しそうに顔を歪める。
「ダメよ鏡花…、こんな私を、許したりしては…」
腕を回してはくれないけれど、決して拒絶もしない。頭では拒絶しようと考えたって、彼女の心がそれを認められないのだろう。けれど自分を許す事も出来ず、愛情と罪悪感に雁字搦めにされている。
それは早くに母を亡くし大人になることを望んでしまった故に、許され方がわからないから。悪いことをしたら怒られなきゃいけない、罪を犯したら償わなきゃいけない、そんな考えが彼女の心に蓋をして、素直になることを邪魔している。
きっとお姉様は、ごめんなさいの言い方がわからないのだ。
妹を守りたい、家族の居場所を守りたい、お母様の代わりになりたい。そうやって強さを求めて成長してきたお姉様にとっては、自分を許すための言葉なんて必要の無いものだったから。
だから、私が教えてあげなきゃいけない。
今までは甘えるだけだった私が、彼女を甘えさせてあげるのだ。包まれるのではなく、包み込むように腕を回して。少しだけ背筋を伸ばして、私の方が目線が高くなるように。
頭を優しく撫でてあげながら、泣き続ける彼女にそっと囁く。
「私を想ってくれて、ありがとう。悲しませて、ごめんなさい」
思い出すのは、お母様の優しい抱擁。安心する温もりに包まれて、誰もが笑顔になれるような、黄昏を髣髴とさせる、そんな懐かしくて幸せな姿。
大丈夫、大丈夫だと繰り返すように髪を撫でて、旋毛に小さく口付ける。愛と、許しと、祝福を込めて、大好きな人へと言葉を送った。
「もう、自分を許しても大丈夫ですよ」
鼓動が聞こえるように、胸元にしっかりと抱き寄せる。
言葉で伝わらない想いを全身でわかってもらえるように、彼女の全てを包み込むように。ゆっくり長い時間を掛けて、ただ只管にお互いを感じあう。
流れる涙を拭いはしない、泣き続けるのは間違いではない。悲しみも苦しさも全部流れてしまうように、その全てを胸に受け止める。
そして何時しか小さな小さな少女の言葉が、暖かな胸に微かに届いた。
「ごめんなさい…きょうか…!」
途端、下げられていた腕が強く私の背に回され、胸元にあった顔が首元に埋められる。泣き声を押さえるように押し付けられた首筋から、暖かい涙と吐息が直接伝わってくる。
やっと、私の想いが伝わった。
さっきまでの悲しい苦痛の涙ではない、優しさと愛に溢れた感情の涙だ。釣られるように私も涙が溢れてきて、愛しさからお姉様に頬ずりをする。
お互いが顔を埋める場所は涙でびっしょりで、決して気持ちの良いものでは無いけれど、体温を感じたくて離れない。鼻を啜る音と嗚咽に合わせて漏れる声だけが聞こえる中で、私達は静かに時間を過ごしていく。
長い時間を抱き合って過ごした。
時折誰かの視線や話し声が聞こえてくるが、私達を止めるものは誰もいない。
ただ二人きりの空間の中で、穏やかに抱きしめあうだけの時間。言葉もキスも必要ない、私達はお互いを感じるだけで十分とばかりに、呼吸と鼓動を重ねていく。
優しいお姉様の豊かな赤髪の匂いを堪能していると、部屋に差し込む光が赤みを増してきているのが見える。
気が付けば、もう夕日が顔を覗かせる時間になっていたようで、そんなにも長い時間が経っていたのかと少しだけ驚くと共に、夢中になり過ぎたことに少しだけ呆れてしまう。
それでもこうして抱き合っているのが心地良くて、もう少しだけ、もう少しだけと離れる事を先延ばしにしていると、顔のすぐ横から声が聞こえてくる。
「ねぇ、少し聞いていい?」
くすぐったい吐息混じりの呟くような小さな声で、お姉様が声を掛けてくる。
「…ん、なんですか?」
話をするならと名残惜しげに髪にキスをして、見詰め合うように身体を離す。するとお姉様は落ち着くために深呼吸を一つして、私の首元を触りながら言葉を続ける。
「あの演劇に込めた私の気持ち、貴女に宛てた想いに気付いてくれたかしら?」
涙で真っ赤になった瞳に不安を乗せて、お姉様は真剣な眼差しを私に向ける。
私が怪我をしてしまったからあの日伝えられなかった言葉を、今此処で教えて欲しいという事だろう。大好きと共に伝えるつもりだった、彼女の願いへの返事。
あの劇でお姉様が伝えたかった事、それは愛する人と何時までも一緒にいたいという願いだ。
王妃が白雪姫と暮らしていくように、私と共に生きたいという純粋な願い。女王なんて恐がられていたお姉様だけど、見た目以外は可愛らしい人なのだ。独占したいのでも束縛したいのでもない、ただ一緒にいたいだけ。
「「私から離れないで」ですよね?」
小さな女の子が袖を掴んで、お願いするみたいな可愛い想い。
けれどそれは、母を亡くした少女が抱いた、最も強い愛情表現。お姉様にとって誰かと一緒に居続けるということは、それだけで心の底から幸せな事なのだから。
「そう、そうよ。なのに私は貴女を傷つけてしまった。全てを縛って閉じ込めて、酷い事も沢山したわ。挙句の果てには…、殺してしまえばずっと私の物だと考えてしまったの…」
痛みを耐えるように自分の肩を抱いて、泣きそうな子供みたいに顔を俯く。
しん…と音が無くなって、鼓動だけが激しく動き続けている。私は何も言わずに、お姉様が口を開くのを信じて静かに待つ。
カチリ…時計の針が動いた頃、小さな言葉が聞こえてきた。
「こんな私でも、好きだと言ってくれるかしら…」
馬鹿なお姉様だ。
私の愛がその程度で無くなると不安になるなんて。
私の好きはそんなことで揺らぐ程小さくない。
きっと誰かの運命を天秤に掛けたとしてもお姉様を選ぶ程の、どうしようも無く大きな想いだ。
何があろうと、誰に好かれようと、私がお姉様へと抱いた愛は死が二人を別つその時まで消えない刻印のようなもの。寧ろお姉様が逃げ出したって、地の果てまでも追い回してやる。
だから答えは決まっている。
戸惑うお姉様に右手を差し出し、ゆっくりと近付いて。精一杯の笑顔を浮かべて、格好つけた台詞を口にする。
けれど選んだ言葉は、格好悪い位に普通の言葉。
「凛后さん。私と、ずっと一緒にいてください」
私はもう天使じゃない。貴女ももう女王じゃない。
これからは至って普通の、愛し合う二人になろうと想いを込めて。
「ふふ、凛后さんだなんて、大人ぶった言い方ね…。勿論、喜んで」
おずおずと伸びる右手を取って、お姉様の胸に静かに収まる。
懐かしくて大好きな胸の中に顔を寄せると、幸せの香りがして嬉し涙が一滴。さらさらと流れる涙を止めたくなくて、柔らかな胸に顔を隠す。お姉様も泣いているのか、小さな雫が髪を伝う。
抱き合う二人は小さな子供頃のようで、けれど確かに愛に溢れていたのだった。
私と彼女の御伽噺は、ハッピーエンドに辿り着いたみたいだ。
いつまでもいつまでも幸せに暮らすような、そんなありきたりなハッピーエンドに。
この先は、平凡な日々が続いていくと嬉しいな……
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