第28話 灰被りの光

 ◇


 この世界を守るには彼女を裏切らないといけない。

 でも私には、もう彼女の笑顔が見られないなんて耐えられない。


 だけど見つけた。

 この世界を永遠にする、彼女の中に永遠に残る方法を。


 私という物語を、終わらせてしまえばいい。


 全てを知ってしまえば、あの子も私を嫌うだろう。

 傷つけられたと知ってしまえば、あの笑顔を見せなくなるだろう。


 だから先に終わらせるのだ。幸せな夢を見ていられるうちに…。


 


 でも、もしかしたら…

 全てを知ってもあの子なら、私を許してくれるかも。

 

 そうだ、いい事を考えた。



 ガラスの靴を、落としましょう。

 掛けた魔法を、解きましょう。

 

 醜い灰被りの姿を教えて、あの子の答えを待ちましょう。


 物語を閉じてしまうのは、その後でも遅くは無いはず。


 ◇








「御陰さん早まっちゃだめぇっ!!!」


 屋上への扉を勢いよく押し開け、私は声の限りに叫んだ。恥かしいとか迷惑とか考えてられない、そうせずに何かが起こるくらいなら恥なんていくらでも掻いてやる。


 羞恥を威勢で押し付けながら屋上に踏み入れば、御陰さんはすぐに見つかった。正面側の手すりに寄りかかりながら風を受け、艶やかな黒髪を揺らしながら沈む夕日を眺めている。


 良かった、まだ無事みたいだ。

 それどころか普段と変わらなくも見えるが、屋上になんか来ている時点でおかしいのは確かだ。彼女を刺激しないように、ゆっくりと近付いていき隣に立ち、その顔を覗き込む。御陰さんはそれは楽しそうに夕日を眺めていて、まるで私なんか目に入らないみたいだ。

 でも、その瞳はあの日と同じく深海の様な冥さを秘めている。


「御陰さん、大丈夫ですか?」


 ゆっくりと静かに声を掛ければ、彼女はそれに応えるように少しずつ首を動かして此方を見るとその穏やかな表情を徐々に変えて、心底愛おしそうな笑顔を浮かべる。けれど向けられる感情には、どこか重たさを感じる。


「やぁっぱり、来てくれた…」


 あんまりにも嬉しそうに笑う姿は、明らかにいつもの様子とは違って見える。だがその姿に気圧されてはいられないと気を引き締め、真意を確かめるためにもしっかりと対話をする。どうしてあんな事をしたのか、本当に飛び降りるつもりなのか。

 貴方は何者なのかと…。


「御陰さん…どうして屋上なんかに?」


 先ずは本当に飛び降りるつもりかを聞き出し、事実ならば死のうなんて思いはやめさせなければいけない。死とは冷たく寂しいものだから、どんな事情があろうとそんな事は許されない。

 もう二度と、死にゆく誰かを行かせたりはしない。


「ここから、飛ぼうと思ってたの…。でも、鏡花さんが来てくれたから…もうそんな気は無くなっちゃった…」


血の気が引くのを感じる。自分の死を示唆しているのに、なんで顔色一つ変わらないのか。彼女はこの後の予定を伝えるみたいに、笑顔のままでいる。

 服が汗で張り付くのがわかる。恐怖しているのだ、彼女が簡単に死を口にするから。


「何でそんな…自殺なんか考えたんですかっ?」


「なんでって…鏡花さんの所為だよ…。貴女が全部壊そうとして、それなのに無邪気に愛を振りまいて…。どうしようかわかんなくなったから、それなら終わりにしようって…ね…」


 私の所為…?

 口の中が乾いていき頭が真っ白になる。私が何をしたというのか、何が彼女を追い詰めてしまったのか。言葉の真意が全く読めず固まる私とは裏腹に、彼女は何処までも穏やかな表情だ。


 言うべき言葉がわからず冷たい汗が頬を伝う中、少しの間があってから彼女の声が静かに聞こえてきた。


「灰被り姫が魔法使いと出会わなければ、どうなってたと思う…?」


 突然の言葉に脳の理解が追いつかないながら、彼女の死を考えずに済むならと動きの鈍い頭で必死に考える。

 灰被りが魔法使いと出会わないなら、王子と出会うこともガラスの靴を落とすこともない。意地悪な義母達に酷い扱いを受けながら、不幸な小間使いとして生きていく筈だ。


「…わかりませんけど、小間使いとして生きていくのでは?」


「ふふ…正解はね…、壊れてしまうの…」


「壊れる…ですか…?」


「そう…誰にも愛されず、何処にいても虐げられて…終には最後の希望も失って、壊れたみすぼらしい灰被り…。だから彼女は飛び降りる…自分を虐げた奴等の目の前で、憎悪の花を咲かせてやるの…。私を忘れないように、犯した罰を忘れないように…」


まるで自分の事の様に話すその姿に、胸の内の不安をが大きくなっていく。この話が事実だとするならば、再度死を選ばせた私は彼女に対して絶望を与えてしまったのか。そこまでの憎悪の感情を、私に対しても抱いているのだろうか。


 彼女は美しい笑顔に冥い悪意を滲ませながら話し終えると、寂しげな色を一瞬浮かべてくるりと私に背を向ける。腕を広げて綺麗な弧を描けば長い髪が美しく舞い、緩やかに後ろ手を組むとまた優しい声音を響かせる。


「安心して、鏡花さん…。今の私が死を選んだのは、幸せを見つけたからこそ…。迷って混乱しちゃった所為で、貴女のことも恐がらせちゃったね…。お詫びに、全部教えてあげるから…」


 言葉を止めた彼女と目が合う。

 肩越しに、目だけが、私を見ている。


「私は転生者、私はサンドリヨンの祝福の原作者……、私が…あの物語を作ったの…」


 笑っている。歓喜の光をその目に湛えながら。



 ◇


「その娘はとても美しい少女でした。

 灰色の瞳が幻想的な、美しい少女。


 けれど孤独でした。

 生まれたときから母を無くし、父はその姿に母の面影を思い出すと近寄らない。

 物心ついた時には、もう一人ぼっち。彼女の唯一の友達は物語の中にしかいませんでした。


 そんな彼女を更に孤独にさせたのが、血の繋がらない義理の家族。

 美しい娘に嫉妬した彼女達は幼い頃から娘を虐げました。

 決して傷は残らないように、言葉の刃で心を抉り、関心を示さない事で孤独を助長し。


 美しい娘の心はひび割れていきました。

 長い時間、誰にも気付かれる事も無く。

 それでも娘には物語が側に居ました。苦しい現実を忘れさせて、幸せな世界に浸れるのです。


 自然と、娘は自ら物語を紡ぎ始めました。

 誰かが見つけ出してくれるように、誰かが認めてくれるように、誰かが愛してくれるように…

 叶わぬ夢を閉じ込めるように、次第に物語は増えていくのです。


 そうして時が経ち、娘はより美しく成長していきました。

 誰もが目を惹かれるような、絶世の美少女に。


 きっと、それがいけなかったのでしょう。

 娘の美しさはあまりにも目立ちすぎて、他人にすら妬まれてしまいます。

 学校でも孤独になり、家でも孤独になり、娘の心は既に壊れる寸前。


 けれど物語だけは書き続けます。その時だけは、苦しい現実を忘れられるから。




 ある日、娘の魂が篭もった物語が人々の目に留まりました。

 娘は自分と同じように現実から逃れたい人のために、物語を公開していたのです。


 その物語は娘の願いどおり多くの人々の心を癒しました。

 しかし、誰かの目に留まるという事は、知られたくない人にも見られるということ。

 込められた純粋な想いは、誰かの利益を生むために利用されたのです。


 娘の物語は一つのゲームを生み出す事になりました。


 それが「サンドリヨンの祝福」。


 娘が描いた小さな物語は、そのゲームの存在で大きく広まります。

 そしてとうとう、娘の物語は彼女の周りにも知られてしまいました。


 反応は、賞賛でも嫉妬でもない…拒絶。


 美しい世界も優しい物語も関係ない。

 同性の恋を描いたことが、娘を更に追い込みました。


 謂れの無い中傷、目に見える形での被害。

 異物として認識された娘は、心も身体も酷く傷つけられました。

 まるで異常者の様な扱いは最後まで続き、誰の救いももたらされぬまま時が過ぎて。


 壊れてしまった娘は、学校を卒業するその日に終わりを迎えました。


 別れと未来に湧き上がる少女達の下へと、飛び降りたのです。



 娘の怒りと憎しみを刻み付ける、真っ赤な花を咲かせる為に。

 その時の娘はとても安らかでした。やっと、救いの無い世界から解放されるのだから。




 それが、御陰 環の物語。

灰掛 環はいかけ たまき」が死ぬまでの物語…」


 ◇








 正直、御影さんの話は辛く悲しくて泣いてしまいたくなる。彼女が飛び降りる事に躊躇が無いのは、既に二度目だからだ。それに一度決心するほどに壊れているのだ。だから死への価値観が薄く、簡単に選べてしまう。

 私も前世では恵まれてない人生だったから気持ちは理解できる。それでも死を選べはしなかったし、最後の瞬間は思い出したくも無いほど嫌な記憶だ。


 それに灰掛 環とはどういうことだろう。彼女は物語の登場人物に自分の名前をつけたというのだろうか?だとすれば、何故サブキャラクターなんて立場に…?

 その疑問の答えは、彼女の言葉が教えてくれた。


「御陰 環というキャラは私自身、哀れな娘がモデルなの…。あのゲームは、私が救われるためのお話なの…。心優しいヒロインが、孤独な娘を見つけるまでの物語…」




 見つける話…?まるで本来は隠しているみたいな……。


 唐突に、情報が結びつく。原作者、隠しキャラ、あの日追加される筈だった没ヒロイン、出番の少なさに見合わない立絵を持つ彼女。御陰 環というキャラが、あの世界の情報を把握していたわけ。


 出せなかったのだ。死んだ人間をモデルにしたキャラを出すのは、あまりにも不謹慎すぎる。

 恐らく御陰さんの死は大きな話題となっただろう。なんせ卒業式の直後、大勢の前でその死を見せ付けたのだから。その張本人を出すような真似は出来なかったのだ。

 そして生まれたのが私がよく知るゲームの姿。ヒロインが誰かを愛するだけの、美しく平凡な物語。


 本来のゲームの姿は、御陰 環という隠された少女を見つけ出すための大きな舞台装置なのだ。

 だとするならば、私をお姫様と言うならば。


「そんな孤独な娘を、貴方が見つけたの……。鏡花さん…」


 私が彼女のヒロインなのだろうか。




 がらんどうの瞳に熱が宿る。けれどもその熱には光が無くて、暗く煮立つような底の見えない何かがある。恐ろしいようで、何故か嫌悪感は抱けない。何処までも透き通るようなそれは、彼女の話を信じるならばきっと。

 

 純粋な愛情だからだ。孤独な娘が大切にしてきた、やっと誰かに向けられた愛だ。それを拒絶できる筈が無い。愛するのが幸せなように、愛されるのもとても幸せな事だから。


 でも、これで事情がわかってきた。

 彼女にとってこの学院で起こる物語は全てなのだ。それを私が壊したから、彼女は修正しようと暗躍した。睡ちゃんの変化はもう戻せないから、お姉様を本来の姿に戻そうと動き、噂を流した。姫大路さんに被害を与える事で、二人を対立させようとした。


「最初は、貴方を監視するつもりだったの…。茨沢さんを救った事も、白清水 凛后を変えたのも貴方だと知ったから…。それに、設定では白清水に妹はいないから、転生者だとすぐに気が付いた…」


 そうやって裏で動く一方で、私に出会った。

 あの部室で出会って、運命が動いてしまった。


「でも、貴方は私を一人にしなかった…。知ってる…?この世界の力なのか、誰も私に興味を抱かないの…。誰も部室に寄り付かないのは、私の所為…。確かにここに居るのに、まるで透明人間みたいに存在を無視される…。そうでもなきゃ、あんな嫌がらせはすぐにバレてしまう…」


 だから犯人が見つからなかったのだ。犯行を見ても気にならないし、話しかけられても印象に残らない。だから結果だけが残っていく。世界に隠された彼女は、そうやって今日まで過ごしてきた。


 でも、一人だけ例外がいた。この世界の存在では無い、本物の異物が紛れ込んだから。


「そこに貴方は現れた…!孤独な私の城に、いつの間にかもう一人の人影がいたの…。笑顔が、話し声が、孤独な心を温かくしてくれる…。なんて、甘美な時間…。愛しい貴方といると、自分がどうしたいのかわからなくなる…。私は物語しか幸せを知らなかったのに、愛する喜びを知ってしまった…。心が痛むの、お姉さんを悪く言う度に貴方の顔がチラついて…、それでも物語は私の全てだったから…」


 私は転生者だから、御陰 環の影響を受けなかったのだろう。今までの人生を振り返れば、ゲームで起きた事は現実になるとわかる。お母様の死、睡ちゃんのトラウマ、姫大路さんの編入。御影さんも同じで、他の生徒に対して存在が希薄なのだろう。本来彼女に気付くのは、ヒロイン唯一人。


 でも私は関係ない。私にシナリオは無いから、御影さんから離れなかった。

 彼女の心に居座ってしまい、彼女の決意を鈍らせたのだ。初対面で何故か気に入ったのは、お互いの魂が惹かれあったのか、魅力的な彼女をそのまま捉えられたからだろうか。


 ともかく、お互いに好ましかった。時間を過ごすのが心地よかった。そうして共にした時間が御影さんの心を揺れ動かして、きっとあの日に限界を迎えたのだ。


「どうしようも無くなった時に、貴方は教えてくれたの…。人を好きになることは幸せな事だと…。それでね、閃いたの…、幸せなまま終わりを迎えれば良いって…。だからお姉さんに証拠を残して、鏡花さんが安心できるようにした…。事件が解決すれば、貴方もきっと幸せになれる…。私もこのまま飛べば、幸せなまま死ねる…。まさに、めでたしめでたし…」




「でも、御陰さんは飛ばなかった。それはどうしてですか?」


 最後に残った謎、そこまで決心した彼女が今もここで笑っている事。

 なんとなくは感ずいている。彼女の想いと望みを考え、私の性格を省みれば。きっと彼女は諦めつつも信じていたのだ。

 私が、もう一度見つけ出すと。


「もしかしたら、鏡花さんが私を見つけに来て…全てを許してくれるんじゃないかって…。醜い灰被りの私を、まだ好きだと言ってくれる気がしたの……」


 振り向いた彼女の表情はとても不安げで、それでいて幸せそうに見える。

 まるで小さな子供が悪さをして叱られるのを恐がるように、でも気にしてもらって喜ぶように。彼女の冥い愛情の果てに芽生えた、純粋で愛らしい小さな願い。


 愛しさが胸に灯って、手をいっぱいに伸ばして頬を包み込む。逸らされていた瞳を合わせて、ゆっくりと距離を縮める。二人の距離が零になり、お互いの鼓動が感じられるようになって、私は話し始めた。


「勝手です、御陰さんは。皆を傷つけて、私も取り残そうとして、自分は満足して死のうとしたのに。その癖今更になって許してだなんて、普通は最低だと嫌われます」


 強い言葉に彼女は悲痛そうに笑う。涙が滲み出して鼓動が早くなるのも感じるが、私は言葉を止めない。


「あのノートを見て凄く心配しました。犯人が御陰さんだと聞いて凄く腹が立ちました。今まで騙されてたんだって、悲しくもなりました。正直今だって怒ってます。顔を引っ叩いて泣かせてやりたい、そのままお姉様の前に引きずって行きたいとも考えました。でも……」


「ッ……ぐす」


 溢れ出した涙が手に掛かる。それを止める事も拭う事もせずに、頬をゆっくりと撫でてあげる。

 大丈夫、泣いても良いのだと教えるように。


「許してあげます」


「………ッは……うぅ…!」


 ぽろぽろと涙が零れてきて、嗚咽が漏れ出してくる。気付けば両手を私の背後に回して、先程よりも密着したいたようだ。嬉しいね、寂しかったね、そんな気持ちを込めて笑顔を浮かべる。

 私も釣られるように涙が出てくる。思い出すのはお姉様と抱き合った記憶。誰かに心から抱きしめられるのは、とても安らぐのだと教えてもらった記憶だ。


 目の前の少女も、同じ安らぎを感じてくれているだろうか。


「私も、前世は幸福ではありませんでした。そんな私の唯一の楽しみが「サンブレ」でした。だからこの世界を、シナリオを守りたい気持ちは十分わかります。もしもお姉様の妹じゃなければ私もそうしたでしょうから。だから私は許します、お姉様にも姫大路さんにもちゃんと謝りましょう。私も口添えしますから」


 御陰さんはコクコク頷く。涙で声を出すのが難しいのか、それでも気持ちは伝わってくる。


「だから死のうなんて考えないでください。どんなに辛くても希望を捨てないでください。あの作品のお陰で私は幸せになれた、悲しい人生に楽しみが出来た。御陰さんは私の恩人なんですっ」


 お互いに涙を流しながら、少しずつ顔を近づけていく。愛しさと感謝が止められなくて、一時の昂ぶりでしてはいけないとわかってても止まらない。

 綺麗な瞳だ。灰色の宝石を雫が包んでいて、光が様々な色を映し出す。吐息が聞こえるほどに近付いて、本に囲まれた彼女の優しい匂いが鼻をくすぐる。

 あぁ、もう手遅れだ。まるで自分が自分じゃないような熱情が燃え上がり、溢れる想いが自然と口をついた。



「好きです……環さん…」

「…私も好き…鏡花さん…」



 二人の唇が重なった。

 お互いに求めるように、けれど初々しくぎこちなく。時が止まったように周りの音が聞こえなくなり、耳に入るのは息遣いとシンクロするようにうるさい二人の鼓動。

 回された腕が一段と強くなって、どこまでも一つになったような、体の境がわからない。


「ふ……ちう………」


「ん………ひょうかちゃ………っん…」


 やけに体が熱くて、環さんの唇が欲しくて欲しくてたまらない。

 味なんてわからないのに、どこか甘く感じる。漏れる彼女の吐息がいじらしくて、ついつい吸い付いてしまう。その度にキュッと腕に力が入るのが可愛らしいと、より興奮してしまう。


 そして、息苦しさを感じる頃に顔が離れる。

 名残惜しそうに繋がる糸が夕日をチラリと反射して、二人の行為を知らしめるようだ。思わず頬に当てた手をずらして、糸引く唇を撫でてしまう。艶やかなその感触に再度気分が高揚するが、なんとか抑えて彼女の満たされたような瞳を見詰める。


 どうしてこんなに体が熱いのか、まるで誰かの情熱に引っ張られているような…。

 そんな不思議な感覚を覚える私に、環さんは聞くものを魅了するような甘く蕩けた声を送ってきた。


「はぁ……ずっと、私から目を離さないで…鏡花さん……」


 そして抱きしめあう二人。

 温もりに目を瞑り、彼女の鼓動を全身で感じる。とくん…とくん…と伝わる振動が彼女が生きているのを伝えてきて、今度は間に合ったのだと実感する。大切な人を失わずに済んで、本当に良かった。


 多分、大変なのはこの後だ。お姉様と姫大路さんに謝らなければいけないし、髪永井さんの怒りも計り知れない。学院に残る噂もどうなるかわからないし、そんな事を考えている間にも学院祭がやってきてしまう。

 でも、なんとかなる気もする。環さんはきっと変わるだろうし、もうシナリオに縛られずに生きれるのだから。誰かを愛する事を知り、誰かの幸せを願える彼女なら未来は明るい筈。


 私もきっと変わる。環さんとのキスが、少し私を大人にしてくれた気がするから。

 でも今は、この温もりに少し浸るとしよう…。




 こうして、お姉様を陥れようとする計画は潰えた。

 勿論まだ完全に安心は出来ないが、賑やかな毎日が戻ってくるのは確実だ。物心ついてから今この瞬間まで抱えていた不安は無くなり、シナリオなんて関係ない平穏で刺激的な未来が始まるのだ。


 予感は合っていた。白清水 鏡花の悲願、お姉様の幸福はすぐそこまで迫っている。

 今日は良いことが、起こると思ったんだ。




 運命の二人の姿を、沈む夕日だけが静かに見守っていた。



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