第32話 物語のエピローグ


「…今までありがとう、お疲れ様。そして、これからもよろしくね」


 今日の役目を終えたメイド服に慈しみを込めて優しく触れ、そっとケースの蓋を閉める。

 思えば、メイド服を着始めたのはお姉様を思ってのことだ。私なりに何かしたくてこの服を着始め、憂いの消えた今偶然にも目の前にあるなんて、まるで私を見守ってくれたように感じる。


 辛い時も楽しいときも、お屋敷での生活ではこの服が一緒だった。メイド服は私にとっての勇気の象徴でもあるし、お姉様への親愛の結晶でもある。笑うときも泣く時も共に過ごした、長年の相棒なのだ。

 私がお姉様のメイドである限り、いつまでもこの服とは一緒だ。


 だから今は、しばしのお休み。唯の少女に戻った私と同じく、唯の可愛いお洋服に戻るのだ。この学院を卒業するその日にまた、新しい気持ちで身に纏うために。 

 次に私が手に取る時は、普通のメイドとして身に纏う時だ。


 薄暗い空間に取り残されたケースは、どこか暖かく見えるようだった。








 クラスの出し物は大盛況だったようで、片付け中の皆は盛り上がっていた。明日は一層忙しくなると思うと、憂鬱なような喜ばしいような複雑な気分だ。

 きっと明日も沢山恥かしい思いをして、大勢の笑顔に充足を感じて、仲間達と一日を過ごすのだろう。

 何も特別な事なんて無い、平穏な一日になる筈だ。


 感慨深さを感じながら教室を後にする。どこか寂しげに暗い影を落とす教室は、今の私にとっては少しだけ変わって見えた。今まで特別に見えていたのに、どこか平凡で地味な姿に。

 きっと、私の中の憂いが消えたからかもしれない。


 教室を出た私は、待っていてくれた睡ちゃんと赤穂に合流する。

 二人はあそこのクラスの出し物が良かったとか、あのクラスの料理は微妙だった等他愛ない話をしているようだ。私に気付いて軽く挨拶をした後も、話し足りないのか話題を再開している。

 楽しそうに話す二人の後姿はとても楽しそうだ。この学院祭の準備が始まってからというもの、二人の仲が縮まった気がする。


 いや、もっと前には変化が起きていたのかもしれない。思えば夏休みのあの日からだろうか。

 二人にそう言っても仲が良いことを認めないだろうけど、まるで姉妹喧嘩のように接する姿は気安い間柄にも見える。

 なんせあの睡ちゃんが歯向かう位だ。私にはわからない絆が、二人の間にはあるのだろう。


 赤穂の肩をギュッと抓る睡ちゃんの姿に、そう邪推してしまう私だった。

 穏やかな時間の中で、三人は校舎の中を歩いていくのだ。




 階段をゆっくり下りていくと、喧騒が大きくなってきた。

 今日の成果を話している生徒や、明日の準備に奔走する生徒。放課後が訪れたからといって、祭りはまだ一日残っているのだ。

 ざわざわと騒がしい様子を眺めていると、生徒達の表情は輝いて見える。


 みんな、一生懸命だ。モブなんて誰一人居なくて、誰もが生命力に溢れている。今までの私は自分と家族の事でいっぱいで、そんな事にも気付いてなかった。

 私が孤独だったのも当然だったのかもしれない。この世界はゲームとは違うと信じながらも、自分自身がそれに囚われていたのだから。


 それも今日までだ。今の私の視界には彼女達の笑顔が鮮明に見えるのだから。


 まるで初めて殻から出た小鳥みたいに、周りを見ながら階段を下りていく。一つ一つ確実に、小さな何かも見逃さないように。

 遅い足取りはいつしか私を一人にしていて、赤穂と睡ちゃんの姿は見当たらない。それでもゆっくりと進み続ける。待っててくれると信じているから。




 不意に、声が耳に届く。

 優雅なその声は私の大好きなあの人で、降りる速度が少し速まる。早く会いたくて、言葉を聞いて欲しくて、想いを伝えたくて心が急かす。

 そして見えた燃えるような赤髪に、私は思わず声を出す。


「お姉様っ!」


 彼女の真上から声を掛ければ、見上げるように笑顔を見せてくれる。

 感情が弾けるみたいに華やいで、涙が浮かんできてしまう。その涙にお姉様は仕方無さそうに微笑むと、私に向けて言葉をくれる。


「おいで、鏡花」


 ああ、大好きなお姉様が呼んでいる。


 涙を拭うのも忘れてしまうほど、今すぐに彼女の元へと飛び込みたい。逸る気持ちを辛うじて抑えて、少しずつ彼女の場所へと降りていく。

 フィナーレが近付く。脳裏には私とお姉様の思い出が次々と湧いてきて、一つの光景に辿り着く。もっとも古い思い出で、お姉様を初めて見たあの記憶。

 二人の親子が私を優しく見下ろして、家族になると言ってくれた幸せの原点。


 今度は私から伝えるんだ。

 沢山のキスと共に、大好きだと伝えるんだ。




 不思議な世界に生まれた天使は、唯の少女に生まれ変わった。

 愛する赤の女王の下へと、飛び込むように舞い降りる。








 世界に掛けられた魔法は解けて、ここからゲームも知らない本当の未来が始まる。

 結末の先はどうなるかなんてわからなくて、不安と苦難しかないのかもしれない。


 でもそれが未来と言うものだ。予測できる明日なんて、止まっているのと同じことだ。


 さぁ、ここから始めよう。天使は一人の少女になって、愛する人と歩いていくのだ。




 私とお姉様の「めでたし、めでたし」は、始まりの証なのだから。


 小さな少女の足取りは、どこまでも軽いものだった。



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