その二十八、若女将
「――姿形のわからないものに、ひとはどう立ち向かうのだろうね」
宿の縁側に腰掛けて、煙管に手をかける父。すでに故人であり、その姿を見ることは私にしかできない。
「“祓う・退ける”という行為は、対象となる“穢れ・
もや”を感じたり、目に視ることができて――それ相応の力を持っていて初めて成立する」
父は、闇夜に向けて離した煙管の煙を、指先でなぞるように見つめていた。隣に座る私はというと、湯呑みに温かいお茶を注いで、スッと父の前に差し出した。
ありがとう、とお茶を受け取った父――宿の大旦那は、
「きみの名前の頭、“桃”の一文字。“桃”は、鬼を祓う・邪気を退ける花。大女将とわたしで授けた名前だよ」
と私――娘の目をまっすぐととらえた。
私や母、宿を守ろうと力を尽くした父の目は、蛍火を称えた森のようにまばゆく・穏やかだ。
死してなお、私の前に時折現れ、他愛もない話をしてくださる。父を前にすると、私も“若女将”という立場を隅に置いて、“ひとりの娘”として笑うことが叶うような気がするのだ。
私が、ささやかな幸せの時を噛みしめながらお茶を口にしているのを横目に、父はかたん、と煙管を置いた。
「だからこそ、辛い。きみは、きみの最も大切なひとに“もや”を視ている。頭では違うと分かっていても、心は簡単には追い付かない」
本当のところはどうなんだい、と静かでいてはっきりと響く声音が語っている。
……先日、“あの方”の居る占いの店で、
主人(マスター)と呼ばれる女性と対面したとき。
私は、言ったのだ。反射的に。
『“もや”を視るのは生まれつき。苦しいのも辛いのも、昔からずっとだから、もう慣れている』と。
あのときは、口にした後すぐ後悔した。嘘を言ってしまった。自分の気持ちから逃げて、また隠そうとしてしまった、と。
“もや”を視ることを――視たものを隠そうとすればするほど、曇らせてしまうことが増えた。何気なく向かい合い、話していたはずの相手の顔を。
「……本当は、辛いです。“もや”を視たくなくて、でも、視えるから。他の皆さんには、“あの方”の御姿が何事もなく見えるのに。私には、私だけには、塗り潰されて見える」
「……」
「でも、本当に辛いのは、他でもない“あの方”。……“もや”を自分に集めて抱え込むことで、たくさんのひとやものを守ってくださっている。あんなにも黒く、消えない“もや”を纏って……“あの方”の体も心も、痛みを忘れてしまっているかのよう」
気付いたときには、私は泣き崩れるように身を縮めて、座ったままうずくまっていた。蛍火は、少し驚いた様子で目を開いた後、ふわりと距離を詰め、私の頭をやさしく撫でた。
「……! ……お父さま」
「きみは、“彼”を心から好いているんだね」
私は思わずうつむいて、小さく頷いた。
すると父はいっとう柔らかに、目を細めて笑った。
「いいこだね。きみも、“彼”も。……本当に、幸せを願わずにはいられない」
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