その八、客人

もう、毎日の日課――儀式のようだ。

朝の起床。身仕度を整えるなか、わたしの体を反転させて現す鏡を前に、指一本で紅をひく。目尻にかけて、濃く深く。


「そう、上手ね。……もう、ワタシがいなくても大丈夫」

わたしと同じように、色数の少ない清楚な着物をまとっていた母の、手だ。ふわりと肩に触れる感触は、すぐに風に解けて消える。そうだ、これは仮面だ。人目を避け、不要に目立たず、内と外の崩れを隠すための。


昨日の自分を塗り替えて、生きる。

それだけで、迷いが晴れる。


それを終えた後。わたしと同じく主人(マスター)の店に身を寄せる、二人の少女の長い髪をとかしてやり、結う。色味の違う髪――ひとりは桜、もうひとりは若葉を思わせる。ちょうど、二人の身の丈と同じぐらいだろうか。


「……にいさま?」

「――いえ、何でも」

桜の少女に声を掛けられたところでようやく、わたしは何か考え事をしていたのだと気付いた。そうして、それとなく誤魔化したとして。何故だか少女ら――わたしの周囲の女性たちは、いとも容易く破ってくる。


「……貴方は、わたしの代わりではないのだから。都合よく使われることも、無理に虐げられることもあってはならなかった」

「――もういいの」

数年前の、最後。久しぶりに顔を合わせた“あの子”は、疲れていた。


「殿、馬鹿だから。あたしに怪我人を置いて、一人で敵陣に突っ込んで行っちゃって……助けようがなかった」

猛火、と呼ばれた父の指導に耐えてなお、家督を継ぐだけの技量が見出だせなかった“あの子”は、嫁に出された。戦の絶えなかった時世、残された領地・領民・家臣らを抱える若い男性――新たな、領主の元へ。


結納の知らせは、“あの子”から受けた。どうやってわたしの居どころを掴んだのかはわからない。

生まれた土地をはるかに離れ、ひとり床に伏せていたわたしは、文を書いた。直接赴くことができないかわりに、手元に遺していた母の着物を数着、共に贈った。


やわらかい栗色の髪、わたしよりも背の低い“あの子”には、赤が似合う。紅も贈ろうかと考えたが、“それは兄上のだから”と昔頑なに断られたことを思い出して、やめた。


少し長い船旅の途中、“あの子”の口から飛び出してくるのは、旦那の愚痴ばかりだった。亡くして間もないだろうに、思い出し涙があふれるどころか、呆れたように笑っていた。


“あの子”の内に、あたたかな喜びをもたらした男だったのだろう。“あの子”にふりかかる災難を自分のことのように怒り、悲しみ、喜んでくれた。限りなく愛し、慕い、頼ってくれたようだ。“あの子”の幸せが続くことを、わたしは願っていた。

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