その二十三、若女将
場に漂う、白梅の香。この店の女主人が早朝に一つ、水差しに入れた枝からだ。
「いらっしゃい。上まで来るのは初めて?」
「……はい」
「この間、お土産に宿のようかんを頂いたわ。とっても美味しかった」
「ありがとうございます。……あの」
「ひょっとして、店には入れてもらえないと思ってた?」
少しだけ、と言葉を濁しながら私が視線を落とせば、女主人はふっ……と目を細めて。それから、かすかな通り風が吹き抜けていくように、ふわりと笑った。
「……あなたは、入れた。それが事実で、それが答え」
明確で、けれどもやわらかな言葉に。彼女の存在に、私は安心した。許された、とも感じた。
私は、生まれつき世の中の“もや”を目に視るかわり、他に拒絶されることが心のどこかにひっかかり続けている。何もないところで困惑する私の姿を、奇妙に・いぶかしげに・煙たい表情で見るひとは今までごまんといた。
ひとやものがまとっている“もや”……汚れや穢れ、ある種の呪いの類いを指摘したところで、否定される。狂言や世迷い言として、隅に捨て置かれることも珍しくなかった。
いつからか、“もや”を口にしないことで自分を守り、他者を傷付けないようにふるまうようになった。石を投げなければ、余計な波紋は立たない。私は、それでいいと思っていた。……“あの方”に出会うまでは。
あの方の顔を覆う“もや”は、日に日に濃くなるばかりで。時折、にやりと――口角を上げるように、影がつり上がって見えるときもあった。
“これ”は、憑き物として居座っているのではない。“これ”は、あの方から何かを奪い続けて生き永らえているのだ、と私は確信していた。そうでなければ、説明できない。“どうして、黒塗りのもやが、いつも笑顔をたたえて・私を射抜くように見つめるのか”――
まるで、言われているようなのだ。
『この男は、大事な住み処だ』
『救えまい』
『それ以上何かしようものなら、おまえの目をつぶしてやる』
声のない、けれども強い意思に。私は押し潰されそうになる。びり、と頬の皮膚が痺れて弾け、血が噴き出そうな圧迫感。……場にいるだけで、対峙しているだけで、容易く押し負けてしまいそうなぐらい。
「……ずっと笑っているんです」
「それは――誰?」
「あの方を包む、黒いもやが」
「……」
塗り固められて、仮面のように張り付いている黒い顔。けれども、それを剥ぎ取ろうと――剥がそうと思えば思うほど、手が止まる。剥がしてしまったが最後、その下の“本当”さえも、崩れて跡形もなく消えてしまいそうだから。
「……ずっと見るのは辛いでしょうに」
「いいえ、“これ”は生まれつきなので、今に始まったことでは……」
咄嗟に返した・口から出た自分の言葉に、“嘘だ”と思った。もうとっくの昔に自分でそう決めていることならば、戸惑いも、迷いも薄れていくはずだ。けれども、揺らいで弱々しくなってしまうのは、私の中で“あの方”の存在が大きくて特別だからだ。
“あの方”に出会うまでの私は、もやを視ることを避けてきた。黒い眼差し・音のない足・空っぽの器……その中に引き込まれてしまうような恐怖が、強かったから。
一見、狭く見える水面――囲いの中から、ひとりをすくい取るのは。受け皿になる充分な手や、やわらかで丈夫な紙・よく汚れを吸うことのできる布が要る。
しかし、モノがあるだけでは駄目だ。
触れ合う体温が違えば、火傷するかもしれない。重みに耐えられず、受け手が倒れるかもしれない。……もとより、囲いたる水槽が息苦しければ、生き残るのはもっと難しくなるだろう。
「世の中は、いつだって取りかえっこ。何かと何かを交換して、形のあるもの・ないもの問わず何かしらのモノを支払って、初めて成り立つ。今目の前にあるものが、過去のどんなモノの上に成り立っているかなんて。ひとつひとつ考えるひとはほとんどいないわ」
女主人の目の前で、やわらかな煙が漂っていた。
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