そのニ十四、若女将

夢だ、と。頭が理解したとき、ようやく――手足や、空気の感覚がはっきりと感じられるようになった。


古びた石の鳥居。かけられたしめ縄。後ろには、傾斜に連なる階段がある。幅は狭く、上へと続くばかりだ。そこだけが、ぽっかりと切り取られているかのように、苔と灰をかぶっていた。


……先の見えない道を前に、若女将の足がすくんだ。辺りの薄暗さや、どこか透き通った風の匂いにではない。


怖い--誰もくぐっていない、気配のない道を歩いていくのが。存在の分からない灯りを探し求めるように、迷いに飲まれていくのが。


――この鳥居の先は、何かが封じてある。壺の蓋や、結びの紐と同じ……誰かしらの手によって閉じられ・守られたものを壊す覚悟、開けた後の未来を負う誠意。道を通るために必要なのは、あらかじめ用意した力などではない。


……穏やかに流れていくばかりに見える小川の行く末。後にたどり着く滝壺に落ちることを恐れていては、先に進めない。そう思いながら、段々と終わりの見え始めた階段を進んでいたときだ。

「――おや、小娘かい」

耳のすぐ真横で、葉が囁くような声がした。


私が気付いてそちらを向いた頃には、声は消えていた。--初めて聞くのに、妙だ。覚えがある……私は、どこかで持ち主を知っているような気すらする。


……目の前に広がる神社の敷地、石畳。中央で、ひとりの女性が私に背を向けている。左右で向かい合う狛犬の、一方の頭が割れて欠け--無惨だ。


淀みのない、重みを含まぬ澄んだ空気とは裏腹に。すらりとした立ち姿、その背が放つ殺気が、私を容赦なく突き刺してくるようだった。


「――そんなに“この子”が欲しいかい」

弧を描く唇を指先でなぞるように、女性の視線がちらり、とこちらへ動いた。同時に、白を帯びていた女の体がたちまち“もや”の煙群に包まれていった。そうして、女が“あの方”の御姿になったものだから、私はあまりの驚きに固まってしまった。


初めて目の当たりにする、顔。


どこまでもたなびいて流れていく雲に似た、青白磁の瞳。

曇りとはまた違う、一見色味のない瞳のふちに、紅の戦化粧。まっすぐと腰あたりまでおろされた、黒髪。こちらから一歩近付くことすらも、躊躇してしまう――幾重にも丁寧に磨き上げられた、曇りのない鏡にも見えた。


「……どうして」

――ふと、彼の持つふたつの水晶に自分が映され、穏やかに見守られていることに気付いてしまったものだから。途端に、視界が滲んだ。耐えきれなかった。


間違いや結末すらも受け入れて伸びる、枝木のような声音。

壊れぬように鈴を鳴らし、低くゆっくりと・重みを抱えて動く手足。


彼の、心に落ち着く声と、繊細でいて力のこもる手に……私はいつも安心していた。だからこそ、いつも重くのしかかってきた。“もや”を視るだけで、今の私には到底彼を救えないのだ、という事実が。


「……この子は、“枝”さ。大切なもののためなら、どこまでも手を伸ばして枝分かれしていく。どんなに途中で自分の心や体が折れて、曲がっても――些細なことだって思ってる。……本当に、やさしいこだ」

口元を衣の袖で覆い隠しながら、“あの方”の姿を取るかつての女性は目を伏せた。


私はもう一度だけ、息継ぎをして言った。ずっとずっと、本当は言いたかったことを。

「……今までも、私は色々な・数多の“もや”を視てきた。けれど、あなたに出会って、私は初めて“魅せられた”。これまで気にすることもなかったのに、霧に覆われた森の実像――“もや”に隠された本当の姿を、知りたいと思ったんです」



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