その二十五、客人

「恋は実る、努力は実る、実を結ぶ……よく聞く言い回しかもしれないけれど、とても曖昧で・色に満ちていて、ひとつの形……物語の決まっていない現実そのものでもあるのよ」

ふと目覚めて、次にわたしが布団を出たときだった。部屋の外から、主人(マスター)の声が聞こえた。


店を開ける前、支度の整った朝や休憩の時間に、主人(マスター)はよく少女らに読み書きなどを教えている。それは、何も持たない二人の少女が初めて店に入ったときから、ずっと続いている。


「“種”は逆。不安や悩みの始まりの形として扱われることが多いわね。例えどんなに小さな“形”でも、それがどんなに大きく・重く・未知の姿に変化するかわからないからこそ、抱えることを忌み嫌ってしまう」


何かひとつの文字を習うとき、少女らは、必ずと言っていいほど意味の他にも成り立ちを聞く。物事の本質を知り・見極める力は、店で扱う占いや、結界術にも通ずるものがある。主人(マスター)もそれを重々わかっているからこそ、どんなに難しい事項でも、共に向き合って話すのだろう。


襖の隙間からかすかに聞こえてくる声を耳で拾いながら、わたしは着物の帯を結ぶ。

『もういいのかい』と、脳裏でよく知る女性が囁いていたが、“これ以上寝ていて、夢で何かされたら困るので”と釘を刺した途端、黙ってしまった。


他者の意識――夢に入り込んでくることができるのは、限られた術者だけだ。術者が“見たい”と望めば、入られた側は嘘をつくことができない。

簡潔にすると、記憶が再構築された空間、とも言えるかもしれない。だから夢の中には、入られた側が知り得る人物・存在しか現れない。


術者の性質にもよるが、夢だからこそ、まるで鏡のように――望んでいるものが目の前に具現化されやすい。会いたいもの・ひとに会いやすい。


力が強くなった宿の若女将が、わたしの夢に入ってきたのはわかった。けれども、そこで彼女がわたしの何を見たのかまでは、わからない。

……けれども、静かに泣いていたことだけはわかる。覚えている。


わたしがこの体に“種”を受け取ってしまったとき、言葉もなく泣き崩れていた“あのこ”と同じだ。――ただ、感情を強く出すことのない若女将は、砂が風にさらわれて揺れ消えていくように、立ち尽くして涙を流していた。


何故、こんなにも心のうつくしいひとを、わたしは無下に傷付けてしまったのか。


……目が覚めて、久しぶりに体が思うように動くという安心を、得るまでもなかった。今はただ、不可解で確かな記憶に戸惑いを隠せないでいる。


ゆっくり、呼吸と共に気を落ち着けたところで――くっ、と襖に手をかけた。そうして、わたしが部屋を一歩出ようとしたときだった。


「けれど、生まれるまでわからないのが“種”だから。どんなに素敵な庭だって、初めはまっさらな土壌で、花は後から増えていくもの。“種”が無事に顔を出す日まで、守って・待って・結果を見届け……受け入れるだけの心が、そのひとにあるかどうかで変わるわ」


“だから、恐れずに新しい種を植えましょう”

“あなたはもう、土の上に立っているのだから”

遠くから流れてくる主人(マスター)の声が、わたしの心をやさしくえぐった。わたしの痛みを知らないはずなのに、知られているような気さえした。



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