その二十六、客人
あれから数回、わたしは下町に下りて宿を訪れた。先日は強い結界に弾かれて、立ち入ることのできなかった場所だった。
正確に言えば、入ること自体は可能だった。結界をすり抜けて、という手段もある。けれども、穢れを抱えるわたしが、その時の宿の内側に入るのは好ましくない……そう感じて避けた。
その後わたしが床の間に伏せている間に、ばば様からも、“今は待つしかない”と短い文が届いていた。わたしの体に直接作用する薬がほとんどない以上、宿の薬湯にはかかさず入るように……とばば様に言われているが、今回ばかりは致し方なかった。
今も結界の力は強いままだったが、今度は弾かれることもなかった。
結界に弾かれる理由。考えられるとすれば、二つ。自分よりも力の強い術者の結界・とりわけ、祓いの力が強い場合。
そして、結界に“穢れ”として判別され、排除されている。わたしの場合は、恐らく後者だろう。
――わたしは、結界に許されたのだろうか。思いながら湯浴みを済ませ、帰り支度をする。
「お加減は、よろしいのですか」
「……今日も、良い湯でした」
向かいから歩いてきた、宿の大女将。わたしを見かけると軽く会釈をして、やわらかに話し掛けた。
静かな滝を思わせる佇まいは、自然と周囲を落ち着かせることだろう。
「……もう、ここには来られないかと思っていました」
「またここに来られる日を、ずっと待っていましたから。……いつも迷惑を掛けているのは、わたしの方です」
「貴方は、大切な客人ですから。
そのためにわたくし共が汗水流すのは、本望かと」
開かれた安らかな滝壺――大女将を前に、わたしの口からも自然と本音がこぼれる。
大女将は、丸くぼんやりと周囲を照らす、闇の中で浮かぶ行灯にも似ている。宿のスタッフは、ここにただひとつ灯る道標のもとに集い・総力を挙げて日々働いているのだろう。生まれながらの才能や格式に捕らわれずとも、胸の内にある確かな情熱を、絶えず灯し続ける芯の強いにんげんに心惹かれる……多方面から目を向けられる大女将もまた、今の宿の要だ。
「……わたくしは、霊的な力が弱いぶん、他よりも分かることがあります」
「……」
「その方が纏っている空気……体調や心の揺らぎ。あらゆる状態が現れます」
大女将が一度言葉を切り、まっすぐにわたしの目を見据えた。
――確信を持った目だ。
「貴方の計らいで、湯屋に置かれた水晶。その強い水晶が溜め込んだ穢れを浄化しているのは、貴方なのですね」
「ええ。わたしは、そのことを隠すつもりはありません。――大切なもののために身を粉にするのは、わたしも同じです」
「……ならば尚更のこと、御体を大切になさってくださいね」
段々と、宿を守る柱の眼差しが、歯がゆそうに我が子を見るような、母の眼差しに変わった……ように感じた。
宿と我が子を必死に抱え、絶え間なく続き・生きてきた水源は、ゆっくりと泉を形作っていた。
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