その十九、若女将

「――強くなりましたね」

休憩の合間を縫って、親子で向かい合い……お茶を飲んでいるときに。ふいに母が、ぽつりと小さくこぼした。


ちょうど湯飲みに口を付けようとしていた私は、驚いて――一瞬、今自分が何をしようとしていたのか忘れてしまうほどだった。


母――湯屋を支える大女将の口から出ることは、滅多にない。自己以外の他に、実力と才を認められる。若女将――見習いとして学ぶ身としても、喜ばしいこと。そのはずなのに。


素直に喜べないのは、何故だろうか。


「……」

「どうしました」

急に沈黙する私を、いつもと変わらない清流のような声が包む。ただ流れのままに……整然と流れていく水郡は、じっと待っている。向こう岸から……私から、波が返ってくるのを。


「……よくないことが起きますか?」

絞り出すように。私の口から出てきたのは、心の内側に浮かんできた“嫌な予感”だった。ぽたぽたと、地面に染み込んだ雫の跡を辿って歩くような冷たさを感じて、身体が震えた。うまく声を発することができない。


曇りから生まれた雨は、次々と落ちてくる。魚や風や、色々なものを内に抱えながらも何とか平穏に保たれていたはずの溜め池に、ぷつぷつと無数の穴が空いていくようだった。


湯屋の外から音が混ざり、視線を庭木に移しても――意識がさらわれていく。

「――雨が降るのは、穢れを清め・助けるためです。過ぎれば災厄にもなりますが、それ以上に……生きとし生けるもの全てが、雨を必要としています」

袖から伸びた大女将の手が、ひやり、と私の頬に添えられる。指先にかけてまだ冷たさの残る、仕事の手。


……そうだ。冷えた手を温めようと、二人で一緒にお茶を飲んでいたのだ。傍らに置いた湯飲みの湯気も、心なしか小さく・薄くなっている。


「あなたは竜と対峙した後、この湯屋に強い結界を張った。それまで通用しなかった、手練れの曲者・濃い邪気でさえも寄せ付けぬほどの、強い結界を」

本当によくやった、とまっすぐな目が語っていた。やさしく弧を描く小舟のように、細められた目。けれどもそれも、たちまち変わってしまった。私の“予感”は的を射ていたようだ。


「しかし、それ故に……重い穢れを抱えるもの――本来湯屋を救いとし、支えにしている客人を。拒絶し遠ざけてしまっている」

穢れを清め、祓う場である湯屋。目に見えない重厚なもやを抱える――湯屋を必要としている客人が、結界に弾かれて立ち入れなくなっている、と言う。


……そういえば一月以上、あの方に会っていない。



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