その二十、若女将
「老師さま。食事をお持ちしました」
三脚の一番上に腰掛け、細かく手指を動かしているのは、湯屋専属の絵師だ。私は下から呼び鈴を鳴らして、声を掛ける。
「おや、若女将。時が経つのは早いのぉ」
よく伸びた竹のように、しなやかで洗練された――天上からまっすぐと届いてくる声。すまんすまん、と扇状に広げていた道具類を簡単にまとめると、かたん、かたん、と一足ずつ……老人はゆっくりと三脚から降りてきた。
霧の中から風景があらわになるように。老人が絵から離れると、ふっ……と息を吹きかけるような風が、顔の横を通り抜けた。
白に混じる……朧朝日。
ひとのいない森。
静かな音を守る、やわらかな湧き水。
そこかしこに隠れている鳥。
消えずにずっと、存在していてほしい--そう願わずにはいられない。尊く、いとも容易く壊れる日常を。ひとの目に触れる・触れないにかかわらず、姿や有り様を“美しい”と呼ばれる者たちを。手や目からこぼさずに、末永く世に留めたいと望むのは、浅はかだろうか。
老師の描いた景色は、必ず枝分かれする。姿形・色を与えられたものには魂が宿る、と謂れがあるように、老師の絵は時と共に見目が変化するのだ。
色褪せ・衰退とはまた違う。絵が段々と“動き、見える”。あるとき老師は、“持ち主に応えるように、ふさわしい姿になる”と言っていた。
私は今、途切れたレールにまた行き着いた。湯屋のために、若女将としてできること--強い力を扱えるようにと、修行し学んできた。けれど、結果は残酷だった。まだ通過点に過ぎないことは重々承知だが、ただ、強い結界を使えるだけでは足りない。
水の始まりは、ほんのひとしずく。だとしても、行き過ぎる水は木を腐らせ、地をえぐり……器を求めてさ迷い続ける。何故そちらに枝分かれするのか--理由を知ろうと、見ようとしなければ現状はきっと変わらない。
何故、この国で海と森が特別な禁域とされているか--
……どちらも滅ぶからだ。
ひとの手と、足によって。
「大女将も言っておった。“そなたは強くなった”。力を得たならば、それを正しく信じて使い・振るう。全て心の感ずるままに」
この湯屋では長らく――馴染みの客や個々に準ずる薬湯を、木札の絵柄で見分けている。--私の木札は、千本鳥居の桃。
最初、鳥居は一本しかなかった。--けれどいつからか、増えていった。何故無数の鳥居が奥に連なるのか、と私が尋ねると、“そなたの幸せを願う者が、数えきれぬほどおる”と。老師の声がぽん、と私の頭を撫でたのを覚えている。
「他の……周囲の邪を祓うために、己の全てを尽くす。そんなそなたらを、誰が守るのか--儂は心配じゃよ」
老師の手には、使い古された木札。先々代から湯屋に仕える手が、絵に刻まれた夕暮れを……包むようになぞった。
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