その十五、若女将
時折、夜の常闇に紛れるように広がる、“黒”を見ることがある。
煤のようでいて、はっきりと尾を引きながら視界を泳いでいく黒。端に消えたかと思えば、またするりと身を翻して戻ってくる。――それを繰り返しながら、行き先を探すように漂い続けている。
――次の宿主を探しているのか、はたまた宿主の体を抜け出して遊んでいるのか。
私はそう心の中で考えながら、何も言葉にはしない。私は、黒――もやの姿形を目に見るだけで、声までは聞こえないから。
返事のわからない問いかけをして、もやが暴れだしてはたまらない。“何も見なかったことにする”つもりで私は口をつぐむ。必要であれば、大女将や他の宗家の方々に報告する程度に留まる。
けれども、今夜はどこか、何かが違っていた。
「……!」
じぃっ……と私を捉えていた穴開きの虚ろ目が、私の眼中に吸い寄せられるように迫ってきたのだ。
一見すると、小魚のような影。よく見ると、骨の浮き出た骸の脱け殻。――表情はよくわからない。執拗に顔を近付けてくる人懐っこい様子や、ふよふよと私の目の届く範囲で動く姿から。どことなく、遊び相手を求める幼子のようだと思った。
「おかえり」
拒絶とも、迎えともとれる言葉を、私は黒に示した。最初こそ、“嫌々”と体をじたばたさせて場に留まっていた黒も。私がそれ以上何も言わないことに飽きた頃、ふと姿を消していってしまった。
そうして、私はひとりになる。
昔、まだ黒いもやとの向き合い方がわからず、人混みの中を歩いていたときだった。望まずとも目に写った無数の影に気分が悪くなり、うずくまっていた私の元に。人だかりをさっとかき分けて、一人の青年が駆けつけた。
湯屋にも着物を卸しに来ている、呉服屋の跡継ぎ――私と同じ、宗家の一人だ。身の丈程にまっすぐ伸ばされたむばたまの黒髪が、小さな私を隠すようになびいていた。
ようやく落ち着ける場所でふと、私がもやを見ることをこぼしてしまったのだから、青年が驚くのも無理はなかった。突然すみません、と頭を下げ、“気持ち悪いですよね”と付け加えた私に、彼は不思議と微笑んだ。
「あなたは、“それ”を気持ち悪いと思ってるの?」
追求、というよりも興味。道端で泣いている幼子を見かけて、“どうして泣いてるの?”と理由を聞くのと同じようだった。
「まだよくわからなくて。でも、私にだけ見えるのならば、意味のあることだろうから……避けて通りたい、と言うよりも、正面から知りたい、です」
「――そう。何か手伝えることがあったら、あたしにも言ってね」
あの頃よりも、私は黒と上手く向き合えているだろうか。行灯を片手に吹き抜けの廊下を歩きながら、ぼんやりと考えていた。
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