その十六、若女将
ある朝の、湯屋の裏門の前。珍しく、大女将が誰かと対峙しているのが見えた。遠目で見る限りでもわかる、穏やかではない空気。状況は、一対一の極めて静かな対面だ。
湯屋を束ねる大女将――母が、それほどまでに張りつめた空気で迎え入れる相手。私はまっすぐ射す朝日に目を細めながら、確かに見た。
「どうなさいました」
「……いつまでも“あれ”を野放しにしておくつもりか」
大女将が声音ひとつ変えずに問えば、想像よりも低い――獣の唸りのような男の声が聞こえた。
雪積もる平原を、くっきりと足跡を残しながら進む獣。けれども、気配がない。――ひとたび吹雪が視界を覆えば、周囲は簡単に行き先を見失うだろう。更に言えば、こうして目にかかること自体が、稀な存在。そう思えてならない。
五宗家の最上位にして、国を束ねる帝。その懐刀として、古くから影に控える男の当主だ。
「――わたくしの役目は、湯屋を守ること。いかなる理由であろうと、湯屋の客人が血を流すのであれば、許すことはできません」
姿勢ひとつ崩すことなく、まっすぐに告げる大女将――母の姿。常に冷静で、物事の一手・二手先まで思慮深く見透かしているような女性。湯屋を守る母が狼狽えるところを、私は一度も見たことがない。
あの客人を殺すのですか、と母は更に男へ視線の矢を突き刺した。段々と渦を巻きながら周囲を飲み込み、獣に押し寄せていく波のようだった。
対峙する当主や母の言う“客人”が誰を指すのか、私はまだわからなかった。野放しに、と言われているから、少なくとも湯屋へ頻繁に出入りしている人物なのだろう。湯屋を訪れる客人たちの素性を詮索する――それを良しとしない母からすれば、実に険悪な状況だ。
今ここで、私が出たところで足手まといだとわかる分、動くことができない。
私がしんみりと壁の影に身を潜めたとき、聞き慣れた老婆の声がした。
「二人ともお止め。話は終いだ」
「……!」
「ばばさま」
もうお行き、と老婆が場を制し、大女将は一礼して裏門から消えた。
忍衆の医師でもあるばばさまが、裏門に来るとき――それは、湯屋に怪我人・とりわけ重傷者が運ばれているときだ。
けれども今日、私はそういった報せを受けていない。先ほどの母の様子からしても、湯屋で何かが起きているとは思えない。
外から――他の宗家から見れば、湯屋に何か異常を感じる。それも、今度は結界ではなく、湯屋に出入りする客人の存在に。……胸につっかえる疑問・恐怖。そして――ざわつき。私の身体の内側が、静かに熱を帯び始めた。
「穢れをかばえば、その身が朽ちる――言われずともわかっているさ。女将らも苦しいんだ」
「……」
「やさしくて残酷な呪いだよ。……あのこを守ろうとした、ただそれだけだったのに」
老婆は、沈黙する獣にやわらかく語りかけていた。誰かの通ってきた歩みの歴史を、大切になぞって聞かせるように。
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