その十、若女将

黒。それはどこまでも形を塗りつぶし、ただそこにぽつんとある色だった。

今ではもう、すっかり見慣れた。黒い頭の、目も鼻も口も見えない生き物が、衣服を着て歩いている。灯りを求めてさ迷うかのように、あっちに行きこっちに行き、ふらふらと動いているのだ。


「一概には言えないだろうけど――きみにしか見えない“かれら”は、言葉にならない“もや”を抱えているのだろうね」

私が、あらゆる姿の人・ものに黒い“もや”を見ることを打ち明けたとき。朗らかな声音の父は、娘の告白に険しい表情をするでもなく、さらりとそう言ってのけた。


他人から隠れていたい、隠したい、卑しい自分。美しくあろうと力を公使するだけ、現実のどこかでぼろぼろと余波が来る。


時に残酷なほど純粋な、幼い心。当然とされる世の理そのものすら疑い、答えを聞きたがる好奇心。段々とまやかしに翻弄されなくなり、模倣品では満足しなくなっていく自我。

私は、それが人一倍強く、鋭いのだろうと。


だからこそと言うものか、人と対するときのしきたり――俗に言う、“目と目を合わせて話す”という行為に、私はとても気を遣う。知りたい、と思えど相手を探るように見ることはあまり心地よくない。だからといって、目が合わないと相手にされていない、と誤解を招くことも多い。


面と向かって、顔と顔を合わせてやりとりをする――私には充分、恐怖の対象になりえた。


「宿は――人が集い、交じり、洗う場所(ところ)です。今ここに行き着くまでに何を成し得てきたか、どんな人であるか。それらは一切、気にする必要のないことなのです」

宿――私が働く湯屋は、何ものにも縛られず、制約されず、ただ必然と流れていく時間のなかにある場所。生活の一コマであり、それでいて特別な場所である――再三、母がある種理念のように語る言葉だ。


来るもの拒まず、去るもの追わず。行き交う人々が、場の空気が入れ替わりながらも、淡々と、淡々と何かが明日に繋がっていく。


先代に守られたレールの上で、私は自分の歩く道を見つけて、確保していかなければならない。固まらない、はっきりと形になりきらない思いが、私の胸中をちくちくと刺し、綿毛のように転がっている。

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