客人と若女将

なでこ

その一、若女将

「おや……大丈夫ですか」

頭上から、半紙の上に筆で字をしたためていくような声。迷いのない。一度書いたら直さない。落ち着きの中に、深い海を思わせる声だ。


すみません、と謝りつつ、私は差し出された手に力を添えて、ゆっくりと体を起こす。一見細く見えるのが錯覚であるかのように、男の手はなめらかでありながら少しがさついた指を持っていた。


腰のあたりがほんのりひりりと痛んだが、これもぼんやりとしていた自分の招いた、招からざる自業自得。角を曲がってすぐの出来事、それも宿泊客の前でとなると、大女将からの雷も凄まじい威力で落とされるであろう。それを想像してしまい、私は一人愕然と頭を下げた。


「おけがはないようですが。あまり無理なさらず、休まれて下さいね」

本来であれば若女将である自分が掛けるであろう言葉を男がさらりと言ってしまい、これまた肩の力が抜けていくようだった。


この人にだけは、失態を晒したくなかった。後にやってくる大女将の小言など気にならないくらい、私にとってこの男はそれほどまでの……一種の憧れを抱く存在だった。


腰近くまで伸ばされた湿りを含んだ髪が首筋に張り付いて、男が湯あみの後間もないことを窺わせた。

たったそれだけのことが容易く私の心を跳ねさせ、目を焼き付けさせる。


「では、わたしはこれで」

「はい、おやすみなさいませ」

踵を返した男を何とか見送った私だったが、今日もまた、あの疑問が脳裏によぎる。

「何故、あの方のお顔は見えないのだろう……」

黒々とした“もや”がいつも男を包んでいて、未だにその顔を見ることは叶わない。

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