そのニ、若女将
私は、小さいころから……それこそ生まれてすぐ最初に認識したのは、この世の黒い“もや”だった。
きっと“それ”は世に確かに存在するものであり、決して無くならないものだろう。実際のところ、薄れるところは見かけても、完全に抹消されたところは見たことがない。
私には見目で人を判断するつもりなど毛頭ないのだが、やはりそこは女。他者、一人の男を好く者として、気にはなる。
昨日、宿の廊下で出くわした客人の男……私の憧れの人は、舞踊をやっていると小耳に挟んだ。
昨夜僅かに交わした言葉や救われた手だけでも、男の洗練された所作は現れていた。
「“もや”は祓えても、“きり”は祓えないんだよ」
今は亡き父の言葉が、気の抜けた笑みと真っ直ぐな吐息を交えて蘇る。
けれども、“もや”も集えば“きり”になると若女将は知っていた。もやもやと、開けぬ視界に。わからぬ気配に。行き場のない思いに。手を伸ばした途端、ぷつりと切れる、消える。向こうに行ったきり、戻ってこない声。目を向けた途端、見えなくなる光。広げた瞬間、止まらなくなる想い。
私の気持ちはすでに引き返せないほど重い霧に包まれているのだと、この時悟った。
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