その五、若女将

「これより三日、潔斎場に行きなさい」

あの方とお話してから数日後、私は大女将――私から見れば母でもある――からそう告げられた。宿の結界が乱れて不安定な状態が続いており、このまま季節の変わり目を迎えるのは不味いと率直に言われたのだ。私が宿を空ける間は、必然的に大女将が宿を仕切ることになる。


「あなたのこころが何に移ろいでいるかまでは言及致しませんが、己の立場を間違えぬように」

私は若女将として未熟すぎると、重々承知しているつもりだ。けれどこのとき。母のこの言葉が今の悲劇を予想していたものだとしたら、私は本当に、怖くて怖くてたまらない。


宿の別宅にある潔斎場にこもり、朝夕に結界を張り直す――これは、季節の変わり目の前に私の一族が必ず行う儀式でもあった。湯屋として、水を冠する宗家として。濁りは許されない。たった一滴のことが、底深くまで落ち溜まり、到底取り返せない泥沼を生み出してしまうからだ。


そんなことはわかっていたはずだったのに、私の結界は魔物の前にはあまりにももろく、人を護るには薄すぎた。


山竜の咆哮が潔斎場の襖を結界ごと打ち破り、竜は丸みのない爪と尾をざしりざしりと床に突き刺すと、体と目をぐるりとこちらに回転させた。そうして、重々しい口を小さく開けると、私を目に映したままこう語りかけた。


「水の子どもか。――ちと小さいが、旨そうだ……」

幸いとも言うべきか、潔斎場には私一人しかいない。来るとしても、食事を運んできてくれる料理長ぐらいだ。実体のない“もや”ばかり目にしてきたせいか、私の頭は目の前におわす竜を恐れ、まともに目を合わせることすらできない。


私は無我夢中で、壁に立て掛けていた弓を手に取り矢を構えた。竜はもう一度、前触れもなく口を開ける。

瞬間、業……!!と火煙を吐くと、たちまち視界は火の気にあふれ、目が焼けるような錯覚――感覚に襲われた。そう長くは戦えない。


“目を狙いなさい”と私の脳裏で誰かが訴えている気がした。私は焦点の定まらない弓を今一度構え、ひゅんっ、と一本だけ、竜の目目掛けて解き放った。

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