その四、客人

「ありがとうございます」

客間のちゃぶ台、若女将の前にわたしが湯呑みを置くと、ようやく緊張も解れてきたのか安心を含んだ笑みがこぼれた。

「すみません、こんな時間に。ご迷惑でしたよね……」

いいえ、とだけわたしは短く答え、彼女がそれ以上しょんぼりと下を向くことがないようにお茶を口に含んだ。彼女もそれに倣うように一口、すると強ばった頬が和らぎ、この場もすぅっと華やいだ。


そうして一度席を立つと、“よろしければ、こちらもご一緒に”と切り分けられた羊羹を持って戻ってきた。薄く色付く桃色の羊羹――確かこの宿の名物だ。土産売り場でもこの包みを見かけたことがある。


じぃっと手元のそれを見つめたままのわたしに“お嫌いでしたか”と女将の声が掛けられ、我に返った。やはり、“わたしにはできない”と思った。誰かの前で――いや、甘味を口にすることなどまだ到底できない。それが好きだった“あの子”のことが脳裏にこびりついて、わたしの気持ちもまだきちんと整理できていないから。


「持ち帰ってもよろしいですか。きっと、わたしだけ頂いたと知ると怒るので」

「はい、構いません。ご一緒に住んでいらっしゃる方が?」

彼女はうつむき、羊羹を紙でくるみながら言うが、突然はっと口元を手で押さえ、“申し訳ありません”と詫びた。きっと、“お客様のプライベートに首をつっこむなどと言語道断”と母でもある大女将からきつくきつく言われているに違いない。


しかし人と交わり言葉を交わすならば、自らのことを明かすのは自然でいて必然的なこと。相手のことを知りたいと願うのならば尚更だ。

わたしには、他に隠しておきたいことなど言葉で明かすまでもない。このからだそのものが、わたしの最も忌むべきものであり恐れるものだから。


「ええ。主人(マスター)と、あと女の子が二人。特に甘味には目がないもので」

わたしはそっと、着物の袖で口元を隠した。今これ以上、彼女に綻びを悟られないように。


継ぎはぎのこころと、張りぼてのからだを。

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