その二十九、若女将

昨夜、いつ・どうやって寝たのか覚えていない。かすかに残る目元の渇きと、まだ消えない胸の高鳴りに戸惑いながら、私は下町に買い物へ出ていた。露店のように立ち並ぶ店の一角で、馴染みの茶菓子を見つめていたときだ。


「あ!この間、お店に来てたひとだ」

丸く透明な器に納められた、色とりどりの金平糖に手を伸ばしかけていた私の耳に、“湯屋の若女将さんだよね”と言う少女の声が聞こえてきた。声のした方――すぐ隣を見ると、二人のかわいらしい少女が、並んで私を見ていた。


「先日、宿の羊羹を頂きました。若女将の方から受け取ったものだと、にいさまから聞いたので」

「桃色の羊羹、とっても美味しかったの!」


落ち着いた物腰の、若葉の髪の少女。そして、最初に私に声を掛けてきた明るい少女は、桜色の髪。先日訪れた占いの店にいる少女――そのときは不在だった二人だ。


丁寧なお礼と喜びの眼差しに、“それは良かった”と私も自然と笑顔がこぼれた。湯屋や、それに関わるものを好きになってもらえることは、嬉しい。


「“にいさま”、というのは……?」

「身寄りのないわたしたちに、名前をくれたひとです」

「髪が長くて、きれいなの。ねえさまの占いのお店で、一緒に働いてるの」


“自分たちの髪を、いつも結ってくれる”

“家事が得意で、色々教えてもらう”

血の繋がりはない。けれど、大切なひと。少女たちにとっては恩人であり、憧れのひとでもあるのだろう。確かに頷く二人の様子からも、まっすぐと・一身にそう伝わってくる。


「うーん……せっかくなら、にいさまとも羊羹食べたいなぁ」

「お忙しいのでしょうか……?」

桜の少女が、小さく唸るように地面を見つめるのを横目に、私は“あの方”が羊羹を持ち帰ったときのことを思い出していた。けれども、普段食事を共にする時間・機会がないという訳ではないようで、桜の少女は更に唸っていた。


「……にいさま、甘いものは苦手だ、っていつも言ってる。ねえさまと食べなさい、ってくれるんだけど」

「普段は気丈ですが、時々、床に伏せることもあって……」

「……!」

「……あ」

若葉の少女が、ふと口を閉ざした。


「すみません。お話の途中でしたか」

「……にいさま!」

“あの方”――少女たちの“にいさま”だ。少女たちは“あの方”の元へ駆けていくと、背の高い彼を見上げた。


「ちょうど近くだったので、迎えに。……重くありませんか?」

「大丈夫!それに……」

「にいさまの両手が荷物で塞がってしまうよりは――こっちが良いので」


少女たちがそれぞれ空いている手を伸ばすと、“あの方”は自分の両手でそれを受け取る。“あの方”を中心に、左右に少女が歩く形となった。私は何故か、その光景から目が離せなくなり、その場に立ち尽くしたままじっと見つめてしまう。


三人の影が、静かな夕暮れの光を受けて伸びている。

中心にある背の高い木の左右で、それよりも小さい花枝が心地良さそうに風で揺れているようにも見える。


今の私にとっては、“あの方”に近付いて手を取ることさえも難しい。……目に見えて開いた距離が、私の心へ空洞を作るようだった。会いたいと望む相手が近くに、目の前に居るのだとしても……私の身体と心は突然釣り合いを失って、臆病になってしまう。


二人の少女と“あの方”。三人の、家族のような温かい時間に、私が入って水を差してはいけない……と、簡単な言葉を掛けて三人と別れ、私は目を反らした。


その少し後。

背後から、一筋の風が吹き抜けてきた。私の背中からうなじにかけて、すっと撫でるような風だ。思わず後ろを振り向くと、“あの方”の姿がそこにあった。――引き返してきたのだ。


「……!」

「すみません。何処か元気がないように見えたので」

彼の発する声には珍しく、わずかだが不安が滲んでいる。言いたいことを言わないまま場を去った私の気持ちを、見透かしているようだった。


彼の背後――すぐそこの店の角――で、少女たちが座ってお茶を飲んでいるのが見えた。あまり長く待たせるのは悪い、と私は“あの方”の顔の辺りへ目を向ける。今日も、彼の顔には黒い“もや”が張り付いていて、目を合わせて話すことは叶わない。


「……何か、考え事を?」

「……あ、えっと……私には、きょうだいがいないので……微笑ましく思って」


そう咄嗟に出した言葉も、嘘ではない。しかし、彼に直接理由を聞くほど、私は大胆にはなれなかった。少女たちも知らないであろうことを、私が知っていいものなのか……と。


けれど、そんな私の沈黙を、彼は一言で破った。


「……僕には、妹がいました。たったひとり、双子の妹が」

「……!」

「今は、まだ……」


“あの方”の視線が、私が抱えている紙袋――先ほど買った金平糖や饅頭が入っている――に注がれたように感じた。

少女たちや私の目の前で“あの方”が口にしなかったそれは、彼の妹が好んでいたのだと――わかってしまった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

客人と若女将 なでこ @Zzz4sheep

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ