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「がっ!」


 あっと思った瞬間には、目の前を横切ったスニーカーのつま先が細眉の顎にヒットしていたからだ。僕の胸ぐらを掴んだ手をはたき落としつつの、凄まじいハイキック。マユさんだった。


 ぐらりと揺れた細眉が糸の切れた人形みたいに倒れ込む。砂のお城がない場所にきちんとダウンさせたのも、マユさんのことだから計算通りかもしれない。


「オッケー。ちゃんと脳が揺れたみたいね」


 オウジさんの反対側から僕に並んだマユさんが、なんでもないことのように言う。直後に彼女はなぜか、いわゆる「ジト目」でこちらを見つめてきた。


「マサキ」

「はい?」

「今、あたしのパンツ見た?」

「!? みみみ、見てません! 見えてません!」


 マユさんのつま先が視界を通り過ぎた直後、はっとそちらを振り向いた拍子にペパーミントグリーンの色が目に映ったような気もするけど、幻だと思うことにする。うん、絶対に幻だ。


「二人ともマサキを蹴ったから、じゃあこっちの小豚君も蹴りでいいか。サクラ先生、やります?」


 口をぽかんと開けて固まる小太りを無視して、オウジさんがのほほんとした口調で問いかけた。


「やだ、オウジさんったら。私、そんな野蛮な女じゃないですよお」


 オウジさんを挟んだ向こう側から、もう、とばかりに軽く彼の腕を叩いたサクラ先生が小太りに近づいていく。ただし反対の手にいつぞやのスプレー缶が見えるので、まったくもって説得力がない。


「私は蹴ったりしないから、安心してね」

「え?」


 爽やか美人にいきなり笑いかけられた小太りが、またしてもぽかんとなった直後。


 シューッ! 「うわっ!」 ドサッ。


 三段落ちのような音と声。そしてすぐに、盛大な悲鳴が公園中に響き渡った。


「ぐああああああっ! 痛え! 目、目がっ!!」


 サクラ先生必殺の催涙スプレーを浴びて、小太りが砂場を転げ回る。どうやら僕どころか、オウジさんにも出る幕はなさそうだ。


「おい、クズコンビ」


 最後にそのオウジさんが、のたうち回る小太りを思い切り足蹴にしながら進み出た。すぐそばでは、意識を取り戻した細眉がよろよろと上半身を起こしている。


「いじめは二度とするな。後輩の野球部員を理不尽にしごいたり子どもから砂場を奪うような真似はもちろん、ここにいるマサキに対しても含めて、くだらない仕返しなんかも絶対にするんじゃねえぞ。ついでに俺たちのことも黙っとけ」


 出番がなくて不満だったのか、オウジさんの声には妙にドスが効いている。

 勘違いコンビあらため「クズコンビ」の間にしゃがみ込んだ彼は、そのまま二人の胸ぐらを同時につかみあげた。さっき僕が細眉にやられたのよりも明らかに力が入っており、クズコンビの身体が揃ってオウジさんの方へと引き寄せられる。


「守らなかったら、次はこんなもんじゃ済まさねえ。


 最後の言葉に、クズコンビがびくりと肩を跳ね上げるのがわかった。それはそうだろう。大人の男性に胸ぐらをつかまれて、低い声で「殺す」などと言われたのだ。いくらいきがって後輩をいじめたりしても、所詮は僕と同じ中学生だ。完全にびびっている。


「これで大丈夫。もう絶対に砂場を取られたりしないよ」


 後ろを振り返った僕が小さな姉弟に言うと、マユさんとサクラ先生も続いた。


「そうそう。多分、こいつらが近所に現れることも二度とないよ」

「もしまた何かあったら、もっともっと懲らしめてあげるから安心して。お姉さんたち、強いんだから」


 サクラ先生の「たち」には僕だけ入っていないけど、まあそれはいい。なんにせよ、小さな子どもたちが心配ごとなく元気に遊べるのが一番だ。


「はい! ありがとうございます!」

「キックのお姉ちゃんとシューのお姉ちゃんと、お兄ちゃんと、おじさん、どうもありがとう!」


 ぱっと顔を輝かせた姉弟は、元気にお礼を言ってくれた。「おじさん」という単語のところで小太りと細眉の「ぐえっ」という悲鳴が聞こえたのは、オウジさんが腹いせに、胸ぐらをつかんだ手を捻り上げるか何かしたのだろう。


 殺されなかっただけマシと思えよな。


 そちらを振り返った僕は、無意識のうちに心でつぶやいていた。同時にはっとする。


 まただ。また僕は、こいつらが死んでもいいとまで考えた。

 けど。

 こいつらは僕の大事な友人や小さな子どもをいじめるような、まさに「クズ」だ。許しちゃいけない。容赦なく叩き潰さなきゃいけない。オウジさんも言ってくれたじゃないか。「それでいい」って。悪いのは全部、いじめをする奴らの方なんだって。


 よしっ、と小さく頷いた僕の姿が見えたかのように、オウジさんがクズコンビに追い込みをかける。


「おまえらが中学生なのは知ってる。けどな、なんでもパワハラだ体罰だって守られると思うなよ。その言葉が許されるのは、真っ当に生きてる側の人間だけだ。おまえらみたいなクズにそんなバリアーは必要ない。そんな権利はない。もう一度言う。万が一、また誰かをいじめてみろ。絶対に無事じゃ済まさない。二度とこの世に存在させない」

「…………」

「わかったか!」


 胸ぐらを掴まれたまま沈黙するクズコンビを、とどめとばかりにオウジさんは怒鳴りつけた。


「は、はい!」

「すみませんでした!」

「おう。わかったなら消えろ。繰り返すけど、二度といじめをするな。俺たちやこの子たちの前に現れるな。いいな」


 最後までドスをきかせた喋り方のオウジさんがやっと手を離すと、目の見えない小太りの肩を細眉が抱えるようにして、クズコンビはあたふたと逃げていった。


 ざまあみろ。


 当たり前のようにそう思いながら二人の背中を見送っていると、立ち上がったオウジさんが振り返った。


「いいんだ、マサキ。ああいうクズどもがやられて、ざまあみろって思う気持ちは正しい。仏様でもキリスト様でもない俺たちは、いじめや悪を許す必要はないんだ」


 また心の中を読まれたみたいだ。でも、オウジさんに言ってもらえるとやっぱり安心する。言葉の通り、これでいいんだって思える。


「そうだよ。ゴミはすぐに処分しなきゃ」

「うん。目の前のウンコは流さないとね」


 マユさんもサクラ先生も、いつもの口調でいつもの笑みを向けてくれる。

 一つ頷いたオウジさんは、さらにじっと僕を見つめてきた。


「やるべきとき、戦うべきときにためらう必要はないんだ。誰が見てもわかる悪は、その場で潰すべきなんだ。逆に何もしないと絶対に後悔する。何かを守れなかった自分、戦えなかった自分を許せなくなっちまうことだってある。だから容赦しなくていい。いじめは、クズは、骨の髄まで憎んでいい。徹底的に潰していい。二度と立ち直れなくなるくらいに」

「はい」

「というわけで、マサキもそろそろ護身術くらいは身につけた方がいいかもな」

「へ?」


 一転していつものへらりとした口調で言われた僕は、間抜けな返事をしてしまった。


「今度スタジオが空いてたら、腕の取り方とか関節の外し方くらいは教えてやるよ」

「い、いいですってば!」

「いい、っていうのはイエスって意味? じゃ、あたしは足技の実践指導してあげる。パンツ見られちゃったし」

「見てません!」


 普段はクールなマユさんまでおかしそうに言うので、僕はぶんぶんと頭と両手を振るしかなかった。ペパーミントグリーンの色は早く記憶から消さなければ。


「楽しそう! そうしたら私はスタンガンの上手な使い方かなあ。自分でやられるとどんな感じか、一度確認してもらってから――」

「結構です!」


 大人気の僕を見て、まだ砂場にいた姉弟が不安そうに、


「今度は、お兄ちゃんがいじめられてるの?」

「う~ん、でもちょっと違うと思う。いじめられてるっていうより、いじられてる感じだよ」


 お姉ちゃん、上手い! ……なんて感心している場合じゃない。


「ぼ、僕のことはいいですから見回りの続き、行きますよ!」


 わざとらしく宣言して、僕は入ってきた公園の出入り口へ向かってあたふたと歩き出した。


「さすがサッカー選手、逃げ足は速いんだな」

「勇者見習いっていうより盗賊って感じ?」

「じゃあやっぱり、スプレーでヒット&アウェイの方がいいかしら」


 脳天気なチームメイトたちの台詞が、背後から追いかけてくる。

「お兄ちゃんたち、またね!」という彼らよりよっぽど無邪気な、そして綺麗にハモった声が僕たちを明るく見送ってくれた。

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