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放課後。僕は図書室でずっと勉強をして、午後六時になるのを待ってから体育館へと向かった。建物のすぐ脇を通る坂道に、すでに到着したオウジさん、マユさん、サクラ先生が手を振っているのが見える。三人ともウインドブレーカーやダウンジャケット姿だ。今日はパイレーツの練習、そしてマユさんのバイトも休みだけど、オウジさんとサクラ先生は五時まで仕事だと言っていた。それでも全員、昨夜僕が送ったメッセージにすぐ反応して二つ返事でここに来てくれた。本当に嬉しいし、だからこそ今回は自分が中心になってやらなきゃと思う。
皆がさっそく坂道から下りてきた。
「マサキ」
オウジさんがちょっとだけ心配そうに、僕の名を呼ぶ。最近忙しいのだろうか。なんだか少し痩せたように感じる。今日もさっきまで仕事だったのに、悪いことをしちゃったな。
「はい?」
「大丈夫か?」
「え? 何がですか?」
「いや、だってその保科ちゃんて、なんにせよおまえといい感じなんだろ」
「隠してるだけで、本当はマサキの彼女なんじゃないかって、おじさんは心配みたいだよ」
彼の隣で苦笑するマユさんに、僕は「大丈夫です」と頷いてみせた。
「正直言うと、一年の頃はちょっとだけいいなって思ってました。でも最近、気づいたんです。保科さんについて、僕は女バスの同級生ってこと以外はほとんど知らないし、自分から知ろうともしてないんだなって。それって好きっていうよりは、ルックスがちょっと可愛い子を見て喜んだりしてるだけだったんですよ、きっと」
「推しのアイドルを見て喜ぶオタクみたいなもの、ってこと?」
「はは、そうですね」
文字通りアイドルみたいなルックスのマユさんに納得されて、僕は笑ってしまった。
「なら良かった。マサキ君も本当の恋がわかったみたいだし、遠慮なくそのアバズレちゃんをやっつけちゃいましょう!」
サクラ先生もうんうんと頷いている。しかも身につけたウエストポーチから愛用の催涙スプレーを取り出して、早くも武器を確認するのがこの人らしい。というか「アバズレ」ってどういう意味だろう。
「サクラ先生、アバズレって――」
知識も増えてきた、と石山先生に褒められたことを思いだし、一応訊いておこうとしたときだった。
「しっ! 待って! ひょっとして、あれがそう?」
すっと動いたサクラ先生が、体育館の角、坂道との間にあるずばり「体育館裏」と呼ばれる物置スペースから見えない位置へと、後ろ手で僕を下がらせた。
「お、本当だ。さっそく何かやらかそうとしてるみたいだな。どうだ、マサキ?」
サクラ先生に続いてオウジさんも、こっそりとそちらを確認する。声に従い、僕もマユさんと一緒に角から少しだけ顔を覗かせた。
「はい。保科さんと、同じ二年の女バス部員です。囲まれてるのは……多分、三年の人じゃないかな」
体育館の壁に沿って、上はTシャツ、下はハーフパンツ姿をした三人の女子が、同じ格好の女子を取り囲んでいる。囲む側の三人組の真ん中にいるのは、間違いなく保科さんだ。今は部活中なので眼鏡をかけていない。運動するときはコンタクトなのだと、たしか以前、聞いてもいないのに教えてくれた。
「ふーん。たしかに男受けしそうな感じの子だね。でもああいうタイプに限って、裏があったりするんだよ。女って怖いから」
僕のすぐ後ろでマユさんが冷静な感想を述べる。あなたの方がよっぽど男受けしますよ、とはもはやつっこむ気もないし、そもそもそれどころじゃなかった。
「ねえ先輩、なんで髪伸ばしてんですか?」
保科さんの声がここまで聞こえてきた。普段僕と話すときより、明らかに一段低いトーンだ。いや、僕に対してはわざと高い声をつくっているのだろうか。
「だよねえ」
「三年がお手本になって短くしてくんないと」
彼女の左右にいる二人も、同じ調子で偉そうに続く。片方は僕と同じクラス、もう片方は違うクラスの女子で、右大臣と左大臣よろしく、こうして保科さんの両脇にくっついているのをよく見かける顔だ。
「な、なんであんたたちの言うこと聞かなきゃいけないのよ」
囲まれている女子――会話から察するに、やはり数少ない三年生部員の一人だろう――が、震え気味の声でなんとか反論すると、保科さんは呆れた様子で答えた。
「はあ? 当たり前でしょ。あんたら三人で何ができるっての? ていうか誰のおかげで日曜の試合、勝てたと思ってんの? そもそも先輩、試合出てました?」
下手な舞台役者みたいに両手を広げ、上から目線でひどい台詞を口にする。
うわあ……。
「うわあ」
僕の脳内とシンクロしたように、オウジさんがつぶやいた。
「なんだよ、あのクソ生意気な女。マサキ、ありゃ止めとけ。おまえの前じゃ可愛いのかもしれねえけど、間違いなく猫かぶってるぞ。本性は絶対に般若だ。ヤマンバだ。寝てる間に食われるぞ」
日本むかしばなしみたいな感想はともかくとして、僕もまったく同感だった。一方で、やっぱりとも思う。
保科さんて、こういう子だったんだ……。
予想していたとはいえ、僕が小さくため息をついたところで、今度はサクラ先生が声を上げた。
「あっ!」
「マジで!?」
めずらしくマユさんも慌てた反応をする。
そして。
「やめろ!」
気づいたときにはサクラ先生やマユさんよりも大きな声で、つまりはっきりと保科さんたちに呼びかけて、僕は体育館の角から走り出ていた。
「何やってんだよ! 鋏なんか持って!」
背後からオウジさん、サクラ先生、マユさんもすぐに続いてくれる。
そう。保科さんがポケットから、小さな鋏を取り出したのだ。
「マサキ君?」
驚いた表情で彼女がこちらを振り返る。明らかに、見られたくない姿を見られてしまった人の顔で。
「保科さん」
僕はゆっくりと呼びかけた。どうしてだよ、とそれでも胸の奥でちょっぴり思う。
「まさかこの人の髪、切ろうとしてるの? なんで? この人、三年生だよね? 先輩だよね? それ以前の問題として、無理矢理人の髪を切っていいわけないよね?」
すべての言葉が尋ねるような調子になる。だけどもう、僕はわかっていた。保科さんが端からそのつもりだったのを。ここまで強引な手段を取らなかったかもしれないけど、同じようにして、一年生たちの髪型も無理矢理変えさせたのであろうことを。
残念だけど、彼女はいじめを行っている。
「……そうだよ」
開き直った声とともに、保科さんが身体ごと僕たちの方に向き直った。右手に持った鋏は、全体で二十センチもない普通の文房具鋏だ。けれども女子の長い髪を切るにはじゅうぶんだろう。
「だってこの人が、部の決まりに従わないから。あたしだってやりたくないけど、最上級生がルールを守ってくれないと示しがつかないでしょう。だからシメるの」
当然のように告げて堂々と胸を張る。やや小さめのTシャツだから膨らみがはっきりとわかるけど、僕はまったくドキドキしなかった。そんなもの気にもならなかった。
「部の決まりって言うけど、本当にみんなが納得してる決まりなの? 保科さんたちが一方的に決めてるんじゃないの?」
踏みとどまってもう一度だけ確認する。念のためだから、誤解をしてたらいけないから、と自分に言い聞かせながら。
だけどそれは無駄な努力、無駄な希望だと別の声に思い知らされた。
「うっさいなあ」
「つーか田中君さあ エリちゃんのなんなの? 彼氏でもなんでもないでしょ? 地味キャラのくせに、女バスのことに首突っ込まないでくれる?」
取り巻きの二人が、保科さんの両脇から僕を睨みつけてきた。いつの間にか彼女たちは、それぞれ片手で三年生部員の肩を押さえてもいる。どう見ても逃げられなくするための行動だ。
地味キャラ、か。
ドンピシャの単語が自分の中でツボにはまったのか、思わず場違いな笑いが浮かびそうになった。うん、そうだよな。学級委員こそ引き受けたけど、女子たちの間では僕の評価なんて相変わらずそんなものだろう。ついでに言えば彼女たちにとっては、大好きな「エリちゃん」がなぜか最近親しげにしている、むしろ目障りな男子なのかもしれない。
やれやれ。
小さく笑ったまま、僕は取り巻きコンビの視線を堂々と受け止めた。全然怖くない。当たり前だ。今まで僕はもっと露骨にいじめをして、もっと露骨に悪意を向けてくる奴らに向き合ったことがある。そして背中には、そんな連中なんてまるで相手にならないくらい、強くて頼りになる仲間がいる。
僕は、ABCだ。
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