8
向かって右斜め前、部室棟の角付近にある扉が開き、タオルを首にかけた女性が現れた。タオルの下、Tシャツの袖から伸びる右腕の先に電気カミソリのような小さな機械、反対の左手にはスプレー缶らしきものを持っている。
「ださくてなんにもならないことが大好きで、しかも仕事にまでしちゃってる大人でーす」
女性はわざとらしく宣言しながら、ケンタさんたちのいる路地へと歩み寄っていく。
「サクラ先生?」
今度は僕とオウジさんの声がハモった。隣ではマユさんも、ぽかんと目を見開いたままだ。
「あら」とその女性――サクラ先生が、にっこりと振り返った。
「シャワールームにいたら、害虫の鳴き声が聞こえちゃったので。ちょっと駆除しときますね」
「え」
言葉の意味を理解しかねた僕だったけど、同時に一瞬だけデジャヴのような感覚に陥った。そうだ、僕はこの笑顔を知っている。いつも見ている。目だけが笑っていない笑顔。明るい調子で語られる物騒な台詞。
サクラ先生の姿は、目の前にいる二人のチームメイトと同じだった。
「あんた今、ケンタ君を蹴ったよね。それとそっちのチビと汚いニキビ面は、肩に手をかけてる、と」
呆れ声で口にしたサクラ先生が、喧嘩上等男の前に立つ。さっきのインストラクターだと気づいたらしい彼が、「あ?」と典型的なチンピラじみた返事とともに振り返ると、何事かとばかりに残りの二人(サクラ先生の言葉を借りるならば「チビ」と「ニキビ面」)も前に出てきた。
「それって暴力行為だよね。犯罪じゃん」
「なんなんすか、あんた」
指摘された喧嘩上等男が、眉間にしわを寄せて一歩前に出る。その拍子にサクラ先生と、つま先同士が触れ合ったように見えた。
「あ、いった~い! 私も暴力振るわれちゃったあ!」
「え」
今の「え」は、ずっと固まっているケンタさんからだけど、僕も同じ表情をしていたはずだ。それにしても、なんてわかりやすい棒読み。
ケンタさんの声に気づき、サクラ先生が彼を振り返る。
「あたしが先に正当防衛するね」
なぜかウインクをしたサクラ先生は、喧嘩上等男の方に向き直るやいなや、右手に持っていた小さな機械を無造作に突き出した。
「えい!」
可愛らしい台詞に合わせて、機械が喧嘩上等男の脚に触れる。
直後にバチッという音。
「痛えっ!!」
大きな悲鳴とともに喧嘩上等男が崩れ落ちた。機械を当てられた左の太腿に手をやったまま、悶絶して動かない。
何が起こったのか僕はすぐに理解した。あの機械って――。
「いいなあ。はじめて見たけど、スタンガンってやっぱ便利なのね」
「コンパクトだから、護身用にもちょうどいいだろうしな」
あなたたちは必要ないでしょう、とつっこみたくなる二人が僕の前で冷静に言葉を交わしている。いや、他にもいろいろ言いたいことはあるんだけど……。
「お、おい!」
「大丈夫か!?」
二秒ほどの間を置いて、チビとニキビ面があたふたと仲間に駆け寄った。それを見たサクラ先生が、明らかにわざとのタイミングでまたもや一歩前に出る。
「わあ! いった~い! この人たちにも蹴られちゃったあ!」
さっきと同じく、チビとニキビ面の爪先がわずかに自分の足をかすめたタイミングで飛び出る棒読みの台詞。
「また正当防衛しまーす! えいっ! アーンド、そぉれっ!」
続けて、なぜか魔法少女がステッキを振るうようなインチキくさい掛け声。直後に聞こえた今度の音は、バチッ! ではなく、シューッ! だった。
「うわああああ!」
「目、目がっ!!」
チビとニキビ面が顔面を覆って倒れこみ、のた打ち回る。意識だけはハッキリしている喧嘩上等男は、ますます愕然としてそれを見つめるしかない。
「やっぱあれ、催涙スプレーだったのか」
「痴漢撃退用だね。今はネットとかでも簡単に手に入るよ」
例によってオウジさんとマユさんはのんびりと解説しているが、僕と、何よりも助けられたケンタさんはますます固まってしまった。
「あの、サクラ先生……?」
僕がなんとか声を発すると、サクラ先生は「あ、マサキ君。ほら、見て見て。害虫駆除、無事に終わったよ。いや、害虫じゃなくて汚物かな」と楽しそうな笑顔で振り向いた。
……この人、オウジさんやマユさん異常に危険人物なんじゃないだろうか。
「さて、と」
穿いているジャージのポケットに二つの武器を入れたサクラ先生は、そこでようやく真顔になった。もちろん目は冷たいままだ。
「あんたたち自分が何をやったか、何を言ったか、わかってんの?」
両手を腰に当て、ちょうど並んで倒れている三人のいじめっ子、いや、犯罪者を順繰りに見下ろす。
「私の仕事でもあるエアロと、それに一所懸命取り組んでるケンタ君を馬鹿にして、しかも暴力まで振るって。そんな犯罪行為が許されると思ってんの?」
三人組はうずくまったまま何も答えられない。よく考えたら、こいつらだってまだ高校生だ。女性とはいえ大人からスタンガンと催涙スプレーをぶちかまされ、しかも本気で説教されれば、一気にしゅんとなってもおかしくない。それにもともと河西高校は進学校でもある。根っこから腐りきったほどの不良ではないのだろう。
「法律も許さないけど、それ以前に私が許さない。一人のイントラとしてもだし、ケンタ君の知り合い、ううん、友人としても」
「サクラ先生……」
尊敬するイントラさんから「友人」と呼んでもらったケンタさんが、はっと目を見開いた。その瞬間だけ普段の爽やかな笑顔に戻ったサクラ先生が、「あ、ごめん。迷惑だった?」と軽く首を傾ける。
「い、いえ! ありがとうございます!」
「ふふ、私の方こそ、いつもレッスンを楽しんでくれてありがとう」
にっこりと返したサクラ先生は「それに比べてこいつらは最低ね。本当に汚物以下だわ」と、また冷たい視線に戻って三人組をねめつけた。
「その通り。そいつらはクズだ」
「紛れもない犯罪者だしね」
オウジさんとマユさんが同意すると、サクラ先生は僕たちがここにいたわけを今になって理解したらしく、「あ、ひょっとして皆さんも、汚物処理しようとして?」と振り向いた。相変わらず容赦のない言い方だけど、オウジさんの前だからか、北極の氷みたいだった目がいつの間にかきらきらしている。
「まあ、そんなところです」
「あたしたち、いじめとかの卑劣な犯罪を、その場でやっつけるサークル活動をしてるんです」
「へえ! 素敵ですね!」
大きな瞳をますます輝かせるサクラ先生の足下では三人の犯罪者が、一人は左脚、残る二人は両目を押さえたまま、たまたまだろうけど、ちょうど土下座のような格好になっていた。
「おーおー、さっきまでの威勢の良さがすっかりなくなっちゃって」
サクラ先生の隣に来たオウジさんが、彼らを覗き込んで失笑を浴びせる。この人は本当に、悪に対しては性格が悪くなる。
「あんたたち、二度とケンタをからかったり、ましてや手を出したりしないことね。サクラ先生だけじゃなくて、あたしたちも許さないから」
マユさんの方は、腕を組んで同級生にさらりと宣告する。彼女の強さを知っているらしく、喧嘩上等男だけでなく声でマユさんだと判断したチビとニキビ面も、合わせてびくっと肩を跳ね上げた。
「マユを怒らせると怖いぞ。簡単に骨の二、三本持っていかれるからな」
「それ、おじさんじゃない。骨折るの得意っていうか、好きなんでしょ」
知らない人が聞いたらどっちが悪人だかわからないような二人のやり取りに、三人組がますます脅えて小さくなる。でも、僕には同情する気持ちがこれっぽっちも湧いてこない。心の底からざまあみろと思う。
「そうだ、ケンタはどうする?」
「え?」
軽く手を叩いたオウジさんが、まるで「晩飯どうする?」と訊くような調子でケンタさんに問いかけた。
「ケンタも正当防衛しとくか? 骨の外し方ぐらいなら、この場で簡単にレクチャーしてやるぞ。やっぱ肩がやりやすいし、それなりにダメージも残るからちょうどいい――」
「だ、大丈夫です!」
ついには肩の骨まで、それも今までいじめていた相手に外されるかもということで、またしてもびくっと動いた三人組だったが、ケンタさんの慌てた声であからさまにほっとした表情になった。やっぱりケンタさんはいい人だ。こいつらみたいなクズ、正直それぐらいはやっちゃうべきなんじゃないか、と僕も一瞬考えたほどなのに。
「もう二度とちょっかいをかけたり、何よりもエアロを馬鹿にしなければそれでいいです。ありがとうございます」
戸惑いつつも、ケンタさんは僕たち四人に向けてぺこりと頭まで下げてくれた。本当にナイスガイだなあと思う。しつこいようだけど、僕だったら絶対に何かしらの仕返しをしたくなるはずだ。
「こういう奴らの相手をしてる暇があったら、少しでもエアロの練習したいですし」
そんなケンタさんにすら「こういう奴ら」と呼ばせてしまうだけでも、僕らの前でひれ伏している喧嘩上等男、ニキビ面、チビの三人が、いかにひどいことを彼に対して行ってきたかがわかる。にもかかわらずケンタさん自身は、「アホには関わらない」という大人なスタンスを崩さないつもりのようだった。お世辞抜きに心から尊敬できる人だ。僕もこういう高校生になれるのだろうか。いや、なれるよう頑張らなきゃ。
よしっ、と心の中で決意した瞬間。
「偉いっ!」
サクラ先生がポンと大きく手を叩いた。
「そうだよ、ケンタ君。こんなクズの相手をする必要はないし、仕返しをするにしてもわざわざ君が手を汚す必要はないよ」
うんうんと頷いたサクラ先生はそのまま、爽やかなルックスに似合わない凄い台詞を口にした。
「だって道にウンコが落ちていても、自分から処理する人は滅多にいないでしょう? ウンコ掃除は専門の業者か、私たちみたいな汚物処理に慣れてる人間に任せてくれればいいのよ」
「え……」
言葉が出てこないケンタさんと僕だけでなく、さすがにオウジさんとマユさんも微妙な顔になっている。
三人組がウンコ呼ばわりや汚物呼ばわりされるのは別に構わないけど、サクラ先生はその処理に「慣れてる」? ていうか、若くて綺麗な女の人が「ウンコ」を連呼するってどうなんだ。
「あらやだ」
可愛らしく口に手を当てたサクラ先生が、僕たちに順繰りに視線を送りつつ、ぺろりと舌を出した。
「私も昔、ちょっと武闘派だった頃があって同じようなことしてたんです。不良狩りっていうか、ヤンキー狩りっていうか。あ、もちろん自分から喧嘩をふっかけたりとかはしませんよ。いじめとかカツアゲしてる奴らを見かけたら、軽くぶちのめしてただけですから」
「ええっ!?」
「…………」
驚くケンタさんと、さらに言葉を失う僕。いや、あの、「ちょっと武闘派」で「軽くぶちのめしてた」んですか。そうですか……。
「たしかにスタンガンと催涙スプレーの扱いが、やけに手慣れてたもんねえ」
僕らとは対照的にマユさんが冷静に頷く。そして。
残った一人は、なぜか大喜びしていた。
「いい! サクラ先生、いいですよ! 格好いいです! 素敵です! あなたも俺が求めてた人です!」
「え? そ、そんな、やだ……恥ずかしいです……」
ガッツポーズとともに褒めまくるオウジさんに、サクラ先生は頬に両手を当ててもじもじするばかり。やっぱりオウジさんが好きなのかもしれない、なんてどうでもいいことを思い出したけど、元武闘派というカミングアウトを聞いたばかりなので、もはや素直に可愛らしさを感じられない。そもそもオウジさんの好みだって――。
「あ」
そこまで考えた僕は、オウジさんが発した最後の台詞に気がついた。好みかどうかはさておき、「俺が求めてた人」。まったく同じ口説き文句を一ヶ月ほど前に聞いたばかりだ。
まさか。
「オウジさん!?」
「おじさん?」
僕とマユさんの声が重なる中、オウジさんは予想通りの言葉を続けた。
「サクラ先生、あんたもABCだ!」
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