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いったん家に帰って昼食を取った僕は、上機嫌のままパイレーツの練習へと向かった。たまたまだけど、今日の室内練習は勝手知ったる町立体育館のアリーナで行われる予定になっていた。昨夜オウジさんにメッセージを送ったら、いつも通りジムにいるとのことだったし、ABC活動の前に軽く筋トレもしていこう。
そうしてアリーナでのフットサル練習も無事に終わった、午後三時半。
ボトルに水を入れ直そうと、僕は外に設置された水飲み場に出てきた。西日が照っているし風もないので、ジャージの上下だけでもじゅうぶん暖かい。
「あれ?」
つい声が漏れたのは、水を補充して蛇口を閉じたタイミングだった。体育館と隣り合った場所にある、同じく町営のグラウンドにあらためて目を凝らす。そこに、よく知る長身の姿が見えたような気がしたからだ。
「あ、やっぱり」
人違いではなく、グラウンドにいるのは野球の練習着を着た二川だった。ここからちょうど正面、二十メートルほど先の金網を挟んだ場所がピッチャーのブルペンになっており、真剣な顔とともに彼がボールを投げ込もうとしている。どうやらうちの野球部も、今日は学校外で練習らしい。
そういえば陸上部やハンドボール部との兼ね合いで、校庭を全面明け渡す日もあるって二川もヤマティも言ってたっけ、と呑気に思い出したところで、ズバーン! と大きな音が聞こえてきた。
うわあ。
金網の向こう側で、二川の投げる球が目にもとまらない速さでキャッチャーミットに吸い込まれていた。音がここまでしっかり聞こえてくるほどだし、勢いは相当なものだろう。昔、バッティングセンターで一三〇キロのボールに冗談半分でチャレンジしたことがあるけど、決して当たらないとわかっていても、あまりのスピードに腰が引けてしまったのを思い出す。二川のボールはそれと同じくらいの速さに見えた。
が、しばらく眺めていた僕は、ちょっとおかしい雰囲気に気がついた。
でも、そこまできついのかな?
ピッチングをする二川の表情が、必死というか、ちょっと険しすぎるようにも感じたのだ。たしかにボールを投げるのはエネルギーを使うだろうけど、それにしたってあまりにも辛そうだ。まるで僕たちサッカー選手が、練習や試合でダッシュを繰り返してるみたいな――。
「なんだ、知り合いか?」
素朴な疑問を抱いていたら、ふらりとオウジさんが現れた。
「あ、オウジさん」
「ちょうど今、仕事が終わったんだ。見回りにはまだ時間があるし、俺も自分のトレーニングをしちゃおうかなと思って。マサキもやっていくんだろ?」
「はい、もちろん」
もちろん、というのもよく考えたらおかしな話だけど、僕の中ではそれがすっかり自然な感覚になっている。筋トレが習慣づいたお陰で、最近また五月コーチにも褒められたほどだ。
「あのピッチャー、ひょっとして同級生とかなのか?」
視線を僕からマウンドに移したオウジさんが、重ねて問いかけてくる。
「はい。友達なんです」
「ふーん。中学生であのスピードはすげえなあ。身体もでかいし」
純粋に感心した様子で、オウジさんは何度も頷いている。プロのトレーナーさんに友達が褒められて僕も嬉しい。
けれどもすぐに、彼も同じことを感じたようだった。
「でもなんつーか、楽しそうじゃないな」
「そうなんですよ」
苦しそうとか辛そうという単語も当てはまるけど、オウジさんの言葉こそがまさにぴったりだった。そう、二川は楽しそうじゃない。「野球が好き」と語るときの彼とは、明らかに正反対の表情で投げ込んでいる。
なんででしょう? と僕が続けようとしたタイミングで、オウジさんは小さく眉を寄せた。
「ん?」
何かを発見したらしく、首ごと動かして別の方向をじっと見つめる。
「ありゃあ、ひょっとして」
「え?」
僕も視線を追った。オウジさんが目を向けたのは二川のボールが届く先、つまりミットを構えるキャッチャーの方向だった。よく見るとキャッチャーだけでなく、近くで一緒に立つバッター役の部員にも注目しているようだ。
キャッチャーの部員が、ボールを返しながら二川に何か声をかけた。「はい!」という二川の返事。直後にキャッチャーとバッターが顔を見合わせてにやりとする。その笑顔はどうにもいやらしい、いや、はっきり言えばゲスなものだった。
そういうことか、と僕もようやく理解した。唇を噛み締める。怒りの感情が胸の内側で広がっていく。
許せない。いや、許さない。
「マサキ」
先に気づいていたオウジさんが、低い声で呼びかけてくる。心を落ち着かせるように小さく深呼吸してから、僕はまず確認した
「マユさんとサクラ先生にも連絡しますか?」
ABCの出番だ。二川は多分、
「ああ。マサキの同級生君は、おそらく――って、あれ?」
いつもならここで、戦隊ヒーローよろしくさっそく活動を開始するところだけど、なぜかオウジさんは「ちょい待ち」と右手を差し出してきた。
「あのおっさんは……」
眉間に小さくしわを寄せたまま、オウジさんは引き続きバッターボックスの方に鋭い視線を向けている。そしてすぐに、少しだけ明るくなった声を発した。
「おお」
「え?」
僕もグラウンドに目を戻すと、ブルペンの奥から一人の中年男性が現れたところだった。坊主頭でガタイのいい、なんというか「鬼軍曹」みたいな雰囲気のおじさんだ。知らない人なので、うちの先生ではなく外部コーチかOBなのかもしれない。
腰に手を当てたその人は、厳しい表情でキャッチャー役とバッター役の先輩部員たちと向かい合った。
「よしよし、これなら俺たちの出番も――」
同じように思ったらしいオウジさんが、満足そうに頷きかけた瞬間。
「答えろ!」
怒声がここまで聞こえてきた。
「えっ!?」
「いいぞ、おっさん。ガツンとやってくれ」
驚く僕とは対照的に、オウジさんはすっかり楽しそうだ。グラウンドでは怒声を発した鬼軍曹さんが、仁王立ちして二人の先輩部員をますます睨みつけている。
「おまえらは誰や! コーチか? トレーナーか? ああ?」
関西弁っぽいアクセントで厳しい追求が続く。
「俺らコーチングスタッフでもないくせに、二川に百球以上も投げ込みさせる科学的根拠を言ってみい!」
よく通る大声なので台詞もはっきり聞き取れる。鬼軍曹さんは文字通りコーチだかトレーナーさんだかで、二川が先輩たちによって、投げ込みのふりをしたいじめを受けていることを見抜いてくれたようだった。
「二年様はそんなに偉いんか? たかだか一年早く生まれただけで、上から目線で命令していい理由があんのんか? 俺が納得できるように説明してくれや、おい」
「そうだよな」
ヤクザ屋さんみたいなおじさんの口調はさておき、僕もまったく同じ気持ちだった。どうして日本の、特に学校とか部活では、一つか二つ年が上というだけで偉そうに振る舞うアホが多いんだろう。心底馬鹿らしいと思う。先輩と後輩っていう分け方自体は否定しないけど、誰かに尊敬されたり指示を聞いてもらえるかどうかは、あくまでも自分の中身次第のはずだ。もちろん僕は小学校のときから、下級生に意味もなく命令したり、ましてや嫌がらせをしたことなんて一切ない。そうした正しい価値観を教えてくれた両親にも、
――もしおまえが年下の子をいじめたりしたら、俺は親子の縁を切って出家するよ――
――ちょっと早く生まれただけで偉いのなら、あたしたち大人なんてスーパー神様よね。逆に何されても文句は言えないでしょう? あんたがそんな子になっちゃったら、お風呂に沈めてあげるわね。あ、焼けたフライパンでひっぱたくのもいいかしら――
と、それぞれ〝らしい〟言葉で(しかも母さんは笑いながら言うので、ますます恐ろしかった)釘を刺されてもいる。
けど二川は、そんな最低の価値観を持つ二年生たちによって、真冬のグラウンドでなんと百級以上も投げ込みをさせられていたのだ。本当に許せない。
そして僕やオウジさん以上に、鬼軍曹さんの怒りは収まらない様子だった。自分のチーム、しかも目の前で最低のいじめ行為が行われていたのだから当然だろう。怒鳴るのは止めたものの変わらずによく響く、かつドスの効いた声とともに二年生二人を叱り続けている。
「どうせなんも考えんと、ただ単に二川をいじめてるだけやろうが。自分らと違って試合に出て活躍しとる一年生に、ださい嫉妬して。ちゃうんか? それとも何か、俺の知らん新しいトレーニング理論でもあるんか? だったら教えてくれや。身体ができてない中学生に、二人がかりで百球以上もピッチングさせるトレーニング理論てやつを。少なくとも俺は知らんわ、そんな方法。甲子園に行ったときも、ドラフトで声かけてもらったときも、アメリカでコーチの修行したときも、一切聞いたことないわ」
やはり鬼軍曹さんは外部から来ているコーチで、しかも結構凄い人らしい。
おじさん、頼みます。二川を助けて、ついでにそこのクズ二人をやっつけちゃってください。
彼の経歴に感心しつつ心の中で唱えると、鬼軍曹さんは本当に聞き届けてくれた。
「OK。わかった」
腰に手を当てた厳しい表情のまま、頷くのが見える。
「ほな俺も、なんも考えんでトレーニングさせたるわ。おまえら、今からうさぎ跳びでグラウンド回ってこい。十周な」
すっかり沈黙していた二人のうち、キャッチャー役の生徒が最初に反応した。口を開くのも見えたので、「え」とかなんとか戸惑う声も出したようだ。けれども鬼軍曹さんは容赦しない。
「え、じゃないっちゅーねん。四の五の言わんとやれや。うさぎ跳びのあとはポール間ダッシュ五十本。とりあえず、そんなもんでええから」
「…………」
二年生たちは、おどおどと顔を見合わせるばかりだ。ダッシュ五十本なんて百球の投げ込みどころの騒ぎではないだろう。うさぎ跳びが身体に良くないことだって、今では常識だ。
「うわ、えげつねえしごきだなあ」
言葉とは裏腹に、楽しげな口調でオウジさんがつぶやいた。顔には意地の悪い笑みまで浮かべている。それを聞いて僕も「しごき」という昔の言葉を思い出した。あのクズどもは、二川にした以上の「しごき」を自分たちが受ける羽目になっている。ざまあみろだ。
「まあさすがに、本当にはやらないだろうけどな」
「え? そうなんですか?」
訊き返すと、なぜか苦笑されてしまった。
「そりゃそうだろ。おっさんが言う通りのことしたら、いくらなんでも死んじまうって」
「……死ねばいいのに」
口から自然と出た言葉に、僕自身が驚いた。
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