5
「一件落着、でいいのかな」
ほっと息を吐いたタイミングで、背中をばしっと三重に叩かれた。
強い二つの手と、なぜかそれよりも明らかに弱いもう一つ。
「やるじゃん、マサキ!」
「あたしたちが出るまでもなかったね!」
「成長したな」
「ありがとうございま――」
少々の恥ずかしさとともに振り返った僕は、けれども最後まで言葉を発することができなかった。
「え」
間抜けな一音だけが、開いたままの口から漏れる。
「オウジさん?」
ようやく名前を呼べたときには、彼の両脇に立つマユさんとサクラ先生も、おそらくは僕とまったく同じであろう表情に変わっていた。
「おじさん、何……やってんの」
「オウジさん!?」
呆然とした声と動揺した声。ABCが誇る二人の美女が、対照的なリアクションで呼びかける。
身体が半透明になっているオウジさんに。
僕の脳裏に、今さっき感じた違和感が甦った。そうだった。オウジさんは間違いなく
自分でも何を考えているんだと思う。そんなことありえないだろうとも思う。でも事実なんだから仕方ない。現実にオウジさんの姿は半透明になっていて、彼の向こう側にある野球のバックネットがぼんやりと透けて見えるのだ。
「何やってんの!? なんなのよ、これ!? おじさん!」
はっと我に返ったマユさんが、さすがに泡を食った様子でオウジさんの両肩に手を伸ばす。けどその両手は、肩があるはずの場所をすり抜けてむなしく空を泳いでしまう。
「オウジさん!」
サクラ先生がやっても同じだった。彼女の右手もまた、オウジさんの胸のあたりをするりと通り抜けてしまっている。
「はは。すいません、サクラ先生。ハートが掴みきれない男で」
上手いこと言っただろう、というドヤ顔でオウジさんが僕を見る。
何やってんですか。今はそんな場合じゃないでしょう。こんなときまですっとぼけないでくださいよ。
「オウジさん!」
何をすればいいのか、どうすればいいのかまるでわからないまま、僕もまた名前を呼ぶことしかできなかった。そうこうしている間にも、オウジさんの身体はますますぼんやりとなっていく。履いているスニーカーのソールなんて、もう半分以上透明だ。
「おじさん!」
「オウジさん!」
マユさんとサクラ先生が引き続き呼びかける。いつしか僕らは、保科さんたちと同じように三人で一人を取り囲む体勢になっていた。
「マサキ」
半透明のオウジさんが僕を呼んだ。
「はい」
「マサキの名前は、将来って書くんだよな」
「え?」
唐突な台詞にきょとんとしながら、まるで遺言を聞かされてるみたいだ、とも一瞬だけ考えてしまった。そんなわけあるか。何が起きてるかわからないけど、そんなわけあるものか。
いつも通りのとぼけた、けれども透明度だけが違う笑顔でオウジさんが続ける。
「俺も、マサキなんだ」
「……は?」
何言ってんですか、オウジさん?
「田中オウジってのは偽名なんだ。
「おじさん?」
「オウジさん?」
眉根を寄せるマユさんとサクラ先生にも笑ってみせて、オウジさんはなんでもないことのように告げた。
「俺の本当の名前は、田中将来。十七年後のマサキ自身なんだ」
「え?」
訊き返した瞬間、何かに導かれるようにして様々なシーンが頭の中で甦った。
今は令和ですよ、と年号を強調していたオウジさん。
「壁ドン」という言葉を知らなかったオウジさん。
聞いたことのない「有名な」台詞を口にしたオウジさん。
そして――。
――やっと会えたなあ。
この人に初めて出逢ったとき、僕はそう言われたのだ。
「つまりオウジさんは……僕を探して? 僕に会うために?」
いや、それ以前に訊くべきことやつっこむことがあるだろうと、頭の片隅で警告ランプが点り続けている。にもかかわらず口が勝手にそんな質問をしてしまう。どうしてだかわからない。意識もしていない。でも。だけど。僕はごく自然に、オウジさんが未来の自分だということを受け入れていた。
なかば透き通ったまま、オウジさんは「そうだ」と大きく頷いた
「俺は中学のとき、つまりは今のマサキと同じ年だったとき、いじめられてたんだ」
やっぱり、という感想が浮かんだ。理不尽な悪を、特にいじめを心の底から憎んで容赦しない姿勢。それが未来の僕だとはさすがに想像すらしていなかったけど、オウジさんもかつていじめの被害者だったのでは、というのはずっと考えていたことだった。
すると、僕の頭からこぼれ出たように二つの声が重なった。
「やっぱり」
マユさんとサクラ先生が頷き合っている。
「おじさんも、あたしたちと同じなんだろうなって思ってたの」
「まあ確実にどっちかだろうって、マユちゃんとよく話してたんです」
「どっちか?」
さらに輪郭が薄くなった顔で、オウジさんが不思議そうに訊き返す。同一人物だからというわけではないだろうけど、僕も同じタイミングで彼女たちに視線を向けた。二人で一体、どんな話をしていたのだろう。
先にサクラ先生が語り出した。
「私も中三まで王道のいじめられっ子だったんです。今より全然太ってたし汗っかきだったから、男子よりもむしろ女子の同級生から、キモいだの汚いだの言われたり嫌がらせを受けてて」
「え……」
僕はあ然として、サクラ先生の小さな顔を見つめ直した。いじめの被害者だったこともそうだけど、こんなに爽やかで綺麗な彼女が今とは別のルックスだったというのが、まったく想像できない。
「でもそんなとき、エアロの先生が学校に来る特別授業があって。それがすっごく楽しかったし、自分も頑張ればこんな風に格好いい女の人になれるのかも、って思わせてくれたんです。で、その日のうちに親の許可をもらって近所のフィットネスクラブに入会して、あとはこの道一直線でした。高校に入ってからは自分に自信もついて、前に言った不良狩りみたいなこともするようになったんです」
「へえ」
今度はオウジさんと僕の声が重なる。だからサクラ先生は、ケンタさんを守る『ABC大作戦』の際、なんの打ち合わせもしていなかったのに、僕らと同じ行動を取ってくれたのだ。
「野生のABCですね」
オウジさんのよくわからない例えだったけど、サクラ先生は「はい!」とすかさず頷いてみせた。そのままマユさんにアイコンタクトを送る。
「あたしはちょっと変化球かな」
姉妹のように軽く微笑み合ってから、マユさんも話し始めた。
「こんな見た目だから、あたしも小学生のときいじめられててね。それでも変わらずに仲良くしてくれた親友がいたの。でも、いじめられっ子のあたしをかばったその子が、今度は標的にされて……」
「ああ」
僕は頷いた。「変化球」とマユさん自身は言ったけど、いじめっ子がよくやるお決まりのパターンだ。本当にくだらないし許せない。
「でも逆に、あたしは何もできなかった。ううん、しなかったの。ミホが、その子がしてくれたみたいに今度はあたしが彼女をかばったら、また自分がいじめられるんじゃないかって思っちゃって」
薄くて形のいい唇をマユさんがぎゅっと噛んだ。怒りや後悔の強さは、噛みしめた下唇の色が完全に変わっていることからもよくわかる。
「あたしが弱かったから、ミホに恩返しできなかったから、だからミホは――」
絞り出される声に、まさかと思った。サクラ先生も半透明のオウジさんも、緊張を顔ににじませている。
「飛び降りちゃったんだ」
聞きたくなかった言葉は、ポツンとつぶやくように続けられた。
「凍ったグラウンド、冷たくて痛かったろうに。屋上、寒かったろうに」
「マユ、おまえひょっとして……北海道から来たのか」
やはり小さな声でオウジさんが問い質す。そういえばケンタさんが、彼女は小六のときに引っ越してきたと言っていた。でも、なんでオウジさんは北海道って――。
「あっ!」
僕の脳裏に、何日か前にスマートフォンで見たニュース記事が甦った。ABCの活動をするようになってから、特にいじめ関連の記事を自然とチェックするくせがついたのだけど、そのうちの一つに、被害者の自殺にまで繋がってしまったいじめを振り返り、悲しい事件を二度と起こしてはいけないと呼びかけるものがあった。
記事の小見出しはたしか、《札幌・いじめ飛び降り自殺(小学五年生)》。
「そのあとからシステマを教わり始めて、六年生になったときようやく犯人たちに復讐できたの。さすがにやりすぎちゃって問題にもなったから、こっちに引っ越してきたんだ」
「そっか……そういうことだったんですね」
オウジさんとサクラ先生と一緒に、僕も繰り返し頷いた。「やりすぎちゃった」内容については聞かないでおこうと思う。そもそも人が一人亡くなっているのに、やりすぎもへったくれもない。マユさんは正しい。
「だからおじさんも絶対、過去にいじめ絡みでなんかあったんだろうなって、二人でちょくちょく話してたわけ。まあサクラ先生は、他にもいろんなことを知りたがってたけど。好きな女子のタイプとか、初デートは食事と映画のどっちがいいかとか――」
「ま、マユちゃん! 今はそんなのどうでもいいでしょ!」
慌てふためいたサクラ先生が、漫画のようにマユさんの口をふさぎにかかる。本当に仲良し姉妹みたいだ。オウジさんもまんざらではなさそうだけど、その笑顔はちょっとだけ寂しげに見えた。言葉にこそしないけど、「すいません、サクラ先生」と語りかけるみたいな。
「マサキ」
気持ちを切り替えるように深呼吸したオウジさんが、ふたたび僕に視線を向ける。
「俺も、もう復讐は果たしたんだ。いや、復讐じゃなくて予防って言った方がいいかな」
「予防、ですか?」
ということはつまり、オウジさんは過去の自分である僕がいじめられることを防いでくれた? 僕がいじめられる? 誰に?
「あ!」
またもやはっとした僕は、顔を上げた。
「返り討ちにした二年の奴らですか?」
たしか半年以上前、オウジさんと出会う直前にその事件はあった。今はもういない、当時うちの中学の二年生だった不良三人を、どこかの男性が返り討ちに遭わせた事件。
「あいつらが――」
「ああ。あのまま時間が流れていたら、中一の終わり頃からマサキはあのクズどもに目を付けられてたはずなんだ。先輩に対して挨拶がないとか、部活じゃなくてクラブを選んで格好付けてんじゃねえよとか、なんの根拠もない言いがかりをつけられて」
すでに復讐を果たしたとはいえ、それでもオウジさんの言葉には怒りが滲んでいる。自分が今の僕だった頃、やられた仕打ちを思い返したのだろう。だからこそ彼は、中学生相手にも容赦せず、何本もの骨を折るほどの重傷を負わせて懲らしめたのだ。
「あいつらがたむろしてるゲーセンとかコンビニは、覚えてたからな。すぐに見つけて、いきがって煙草に火をつけたところを注意したら、あとはこっちの思惑通り束になって喧嘩をふっかけてきてくれたよ」
つまり復讐と過去の自分を保護することを兼ねて、オウジさんはあいつらをこの学校から、僕の前から消してくれたらしい。
「ありがとうございます」
「はは、今さら礼なんていらないって。俺はおまえで、おまえは俺なんだから。なんつーか、自分自身で身を守ったようなもんだ」
やはり透けた片手をひらひらさせて、オウジさんは変わらないとぼけた笑顔で言ってくれた。
そうして、ゆっくりと別の言葉を口にする。
「不法行為による損害賠償の請求権は、次に掲げる場合には、時効によって消滅する」
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