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「え?」

「不法行為による損害賠償の請求権は、次に掲げる場合には、時効によって消滅する」


 ぽかんとする僕を見つめたまま、同じ台詞が繰り返される。まるで何かの呪文のように。


「一、被害者又はその法定代理人が損害及び加害者を知った時から三年間行使しないとき。二、不法行為の時から二十年間行使しないとき。人の生命又は身体を害する不法行為による損害賠償請求権の消滅時効についての前条第一号の規定の適用については、同号中『三年間』とあるのは、『五年間』とする」

「おじさん、それ――」

「民法の七二四条ですね」


 さらに続いた謎の長文を、マユさんとサクラ先生は知っているようだった。少し遅れて僕も、それがなんなのか理解できた。被害者。加害者。人の生命又は身体を害する不法行為。損害賠償。そしてサクラ先生が口にした「民法」という単語。


「いじめに関する法律、ですか?」


 オウジさんの視線をしっかり捉えて確認すると、「そうだ」と頷きが返ってきた。いつもの笑顔で。いつもの口調で。垂れ目でちょっととぼけた、だけど誰よりも頼りになる表情と声で。


「この国では自分をいじめた相手がわかってても、たった五年間で時効になっちまうんだよ。そうじゃなくても二十年経過すれば同じ。ふざけた法律だよな」

「五年の我慢なんて、いじめられた方からすれば短いくらいなのにね」


 いまいましそうに賛成するマユさんにも、「だよな」と頷いてオウジさんは顔から笑みを消した。


「報復が怖かったり、親や周囲に迷惑をかけたくなかったり、被害者ですって名乗り出るのが恥ずかしかったり。いろんな理由から、俺たちいじめられた側は我慢しがちなんだ。中学にいけば、高校にいけば、大学にいけば……って年単位で我慢して、耐えて、自分から悪に目をつぶって。まあ幸い、俺も高校に入ってからは被害に遭わなくなったけどさ」

「でも、やられたことによる心の傷は消えませんよね。それに加害者が罰を受けたわけでもない」


 同じように真剣な、そして怒りをたたえた顔でサクラ先生が付け加える。


「その通りです。少なくとも俺はそうだった。二十歳になっても、三十になった今でも、やられたことを忘れなかった。忘れられなかった。たった一年早く生まれただけで偉そうに振る舞って、理由もなく暴行を加えてきたクズどもを。高田谷と金分と佐田の汚ねえツラを」

「だから、この時代に?」


 よく考えれば、「だから」で簡単にタイムスリップできるわけはないのだけど、そう尋ねるしかなかった。オウジさんの方もさらりと答える。


「まあな。具体的に何かしたわけじゃないんだけど、毎晩毎晩あいつらに復讐したいって考えてたら、ある日本当にそうなってた。つっても、どっかの映画みたいに全裸でとつぜん街中に現われたわけじゃないぞ」

「じゃあどうやって?」

「ありがたいことに、当時俺が住んでたのは古いマンションでさ。この時代にはすでに存在してたんだ。で、目が覚めたらまったく同じ、だけどよく見ると壁紙とか照明がなんだか新しくなった自分の部屋にいた。正直、最初は過去に戻ったことに気がつかなかったくらいだよ」

「オジサンが三十で、マサキは今、ええっと……十三? 十四?」

「あ、まだ十三です」


 念のため、という感じで年齢確認をするマユさんの意図を理解して、僕も即座に答える。


「十七年か。まあ五十年とか百年経ったほどには、世の中大きく変わらなかったってことだろうね」

「おう。もちろん十七年後もネットはあるし、スマホもみんな使ってる。一応テレビやラジオも生き残ってるよ。幸い紙幣や硬貨も変わってなかったから、事態を理解した俺はすぐに、新しい携帯とか交通用ICとかを揃えたりもできたんだ」

「え? じゃあお財布も一緒にタイムスリップしたんですか?」


 サクラ先生が目を丸くすると、「イエス」となぜかオウジさんは、自分の手柄のように胸を張ってみせた。ただしウインドブレーカーの向こう側は、相変わらず透けている。


「俺の身体だけじゃなくて、多分半径一メートルぐらいの空間ごとこっちに来た感じなんです。だから枕元の棚に置いてあった、財布とかスマホも一緒でした。さすがにスマホはこの時代にはない型なんで、外には持ち出してないですけどね」

「へえ」


 荒唐無稽な内容だけど、僕たちはすっかりオウジさんの話を信じ、引き込まれていた。本人が実際に半透明化しているというのもある。

 けど、それだけじゃない。


「なんかオウジさんらしいですね」

「ほんと。相変わらず突拍子もないことするなあ」

「でも、なんか凄いです。素敵です」


 僕らの口から自然と出た台詞こそが、大きな理由だった。

 オウジさんの言うことだから。オウジさんがすることだから。オウジさんだから。だから、僕らは信じられるのだ。


 すっとぼけたスポーツトレーナー。思い立ったら即行動のアイデアマン。そして誰よりも悪を憎む心。僕たちの、ABCの、頼れるリーダー。なんだか面白くて、サクラ先生じゃないけどちょっぴり素敵な人。

 未来の、僕。


「あ、やべ……」


 そんな未来の自分が、オウジさんが、「サンキュ」と答えたあと後頭部に手をやった。


「あ!」


 ほぼ同じタイミングで、僕の口からも声が出る。


「おじさん!」「オウジさん!」


 マユさんとサクラ先生も、はっと現実を思い出して呼びかける。


「やべえな。アディショナルタイムもそろそろ終わりかな」


 苦笑とともに告げられるサッカー用語。ファウルやアクシデントでプレーが止まっていたぶんの「追加時間」。

 頭をかくオウジさんの手のひらが、これまで以上にはっきりと見える。オウジさんが本当に消えかかっている。


「悪いな、みんな。ちょっと急だけど、俺はここで店仕舞いっぽい」

「ちょっと、おじさん!」

「駄目! 行かないで!」


 マユさんとサクラ先生とは対照的に、オウジさん本人はいたって落ち着いた様子だ。それどころか、相も変わらずとぼけた笑顔まで浮かべている。


 ああ、そうか……。


 唐突に僕は理解した。トレーニング後にぐったりしていたオウジさん。風邪で仕事を休んだと言っていたオウジさん。なんだか痩せて見えたオウジさん。あれは全部、存在が薄くなっていたからだ。風邪というのも本当は嘘で、今と同じように、誰が見てもおかしな症状が出たからだろう。


 そして、


「謝る必要はないぞ」


 口を開くよりも先に、オウジさんが透ける手のひらを差し出した。ストップ、とばかりに広げられたその向こう側で、未来の僕がまだ笑っている。ずっと笑っている。


「多分、マサキが思ってる通りなんだと思う。おまえの心が強くなればなるほど、逆に俺の存在は薄くなっていくらしい。まあ当然だよな。過去を後悔する必要がなくなるんだから。いじめられてた中学生の俺を、マサキだった頃の俺をなんとかしたいと願ったからこそ、俺はこの時代に来ることができた。てことはそれが叶えば、神様がくれたミラクルはめでたくタイムアップってわけだ」


 もう彼の姿は、ガラスに映っているみたいな儚さだった。こんなときに不謹慎かもしれないけど綺麗にすら見えた。


「おじさん!」

「オウジさん!」

「オウジさんっ!」


 今度は僕も一緒に叫ぶ。開いた口にしょっぱい液体が流れ込んでくる。鼻の奥が、喉の奥がツンと痛い。オウジさんが透けてるだけじゃなくて滲んで見える。


 なんだよこれ。なんなんだよ。なんでだよ。伝えたいことがあるのに、これじゃまともに喋れないじゃんか。しっかりしろよ、俺。


「お! マサキ、今一瞬だけ自分を〝俺〟って思ったろ」

「あ……」

「はっはっは。俺クラスになると、俺の考えてることぐらいは見抜けるんだ。恐れ入ったっか……って、あれ? なんか変な日本語だな」


 もう何が起きても、何を伝えられても驚かない。そんな話より僕の方が伝えたいことがある。聞いて欲しい言葉がある。


「馬鹿なこと言ってる場合じゃないでしょ、おじさん!」


 らしくないかすれ声でマユさんがもう一度叫ぶ。ツインテールを揺らす彼女に、二次元から飛び出してきたようなハーフの美少女に、オウジさんはやっぱりいつもの調子で最後の言葉をかけた。


「マユ。おまえは自分の未来にびっくりするぞ。俺もABCにスカウトしてから、思い出したんだけどな」

「え?」

「ま、見てのお楽しみだ。いや、見るだけじゃねえか。自分の人生だし」


 固まるマユさんに下手くそなウインクまでしてみせてから、隣に目を向ける。

 サクラ先生。明るくて元気でチャーミングな、ザ・エアロの先生。オウジさんのことが好きな、素敵な女性。


「サクラ先生」

「は、はい」

「サクラ先生も必ず幸せになります。幸せにするのが俺じゃなくてお仕事ってのが、ちょっと残念ですけどね」

「なんで……なんで、そんな……!」

「惜しいなあ。あと十五年遅く生まれてくれたら、むしろ俺の方から一所懸命になってたのに。あ、これ、結構本気で言ってますよ」

「オウジさん!」


 堪えきれずにサクラ先生が抱きつこうとする。けど、しなやかな両腕はまるでスクリーンに映る影を相手にしているかのように、空しくその身体をすり抜けるだけだった。


「ごめんな」


 最後にようやく敬語抜きの優しい声で彼女に呼びかけてから、オウジさんが僕を見る。未来の僕が、僕を見る。


「マサキ」

「はい」

「これでいいんだ。俺はおまえで、おまえは俺なんだから。おまえの中にずっと俺はいる。強くなってくれたマサキのお陰で、やっと俺は望んだおまえになれたんだ。望んだ俺になれたんだ。……って、なんかますます意味がわからねえな。とにかく――」


 一つ息をついたオウジさんは、嬉しそうに笑った。

 はじめて会ったときと同じ顔で。やっと会えたなあ、と言ってくれたときとまったく同じ表情で。


「よくやった、俺」


 輪郭まで蜃気楼みたいになってきた親指が立てられる。ウインドブレーカー姿がどんどん滲み続ける。彼の存在が消えていくからなのか、とめどなく溢れ出す涙のせいなのか、僕にはもうわからない。でも。

 伝えなきゃいけないことは、わかる。自分がしたいこと、なすべきことは、わかる。


「オウジさん」


 鼻をすすりながら口にする。今までの人生で一番心を込めて。神様がいるのなら、どんな言葉よりも力強く届けて欲しいと願って。


「ありがとう。会えて良かったです。嬉しかったです」


 そしてもう一つ。


「僕――いえ、俺、将来必ずオウジさんになります! オウジさんは俺のヒーローだから! 俺が憧れる人だから! 俺が、俺がオウジさんでオウジさんが俺だから!」


「おう、頼んだぞ。これからも正義を成してくれ」


 どこか遠くからの声が皆の耳に届く。


「目の前に悪があれば、戦っていいんだ。迷うことなんてないんだ」


 耳で聞こえなくなっても胸に届く。


「ABC、しようぜ」


 それが彼の、僕の、俺の、最後の言葉だった。

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