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十月も終わりに近づいた週明けの月曜日。学校帰りの僕は、いつものように町立体育館のジムへ寄っていくことにした。他のスポーツと同じくサッカーも、日曜日に試合で翌日がオフというパターンのスケジュールが多い。ただ、昨日は練習試合でほぼ全員が前半だけ、もしくは後半だけの出場だったし、疲れも残っていないのでせっかくだから筋トレしておこうと思ったのだ。
「お、マサキ君。こんにちは」
「こんにちは」
今日もカウンターで草木さんと挨拶を交わす。同じ名字のオウジさんがいるからか、いつしか彼も下の名前で呼んでくれるようになった。
「そっか、今日は月曜だからパイレーツの方は休みなんだね」
「はい。昨日、試合だったんで」
夕方だけど、まだ早い時間だからかジム内は空いていた。草木さんに答えながら僕はふと、誰もいない空間の向こう、ガラス壁と廊下を挟んだ場所に位置するレッスンスタジオの様子に目を留めた。
「あれ? オウジさんてレッスンとか持ってるんですか?」
フィットネスクラブみたいに大きくはないものの、学校の教室一つぶん程度の小型スタジオがこの体育館にも設置されており、ヨガやエアロビクス、音楽に合わせて台に昇り降りする『ステップ』というクラスなどがたまに行われている。ジムと同様にガラス張りになったスタジオで、オウジさんがそのためのステップ台をひっくり返して何かを確認中だった。
意外な顔をした僕に、自分も首をそちらに向けた草木さんが、「まさか」と笑ってみせる。
「今日はサクラ先生のレッスンがあるし、久しぶりにステップ台をチェックしてもらってるんだ。うちは貧乏だからどの道具も古いでしょ。壊れるだけなら全然いいけど、万が一、お客さんが怪我したら大変だからね」
「ああ、なるほど」
つまりオウジさんは、ステップ台の滑り止めが剥がれたり、どこかが破損したりしていないかを点検しているのだ。サクラ先生というのは、レッスンを担当するインストラクターさんのことだろう。カウンターの上に置かれたレッスンスケジュール表を見ると、たしかにすぐあとの時間のところに、『ステップ中級:長峯さくら』と書いてあった。
「オウジはマシンやバーベルだけじゃなくて、一通りの道具に詳しいんだよ。ここに来る前は、そういうフィットネス用品のメーカーでトレーナーやってたんだって」
「へえ」
「新しいマシンの開発アドバイスとか、契約アスリートのトレーニング指導とかもしてたらしいよ。外資系のメーカーだから英語も話せるみたいだし。あれでなかなか優秀な奴なんだ」
自分の部下ながら感心したように語る草木さんだけど、そこは心から賛成できる。飄々としたキャラだし、自警団みたいなサークル『ABC』に僕とマユさんを巻き込んだりしちゃう人だけど、トレーナーとしてのオウジさんが優秀なことは僕もよくわかっている。
でも普段はほんと、すっとぼけてるんだよなあ。
コンビニの駐車場でABCに誘われてから一ヶ月半。パイレーツの練習終わりやマユさんのバイトがない日、僕たちは実際に何度か連れ立って近所を見回った。といっても今のところ、いじめはもちろんその他の犯罪にも出くわしたことはないので、結局は奇妙な組み合わせの三人が、ぶらぶらと散歩しているだけにしか見えない状況だ。まあ、平和なのが一番だけど。
「俺じゃなくてオウジがメンテした方が、サクラ先生も嬉しいだろうしね」
「え?」
草木さんの言葉に、どういうことだろう、と思ったところでジムの出入り口から若い女性が颯爽と入ってきた。ショートカットの髪にぱっちりした大きな目。蛍光イエローのTシャツが似合う、いかにもスポーティなお姉さんだ。
「こんにちは! 今日もよろしくお願いしまーす!」
「こんにちは、サクラ先生。こちらこそ今日もお願いします。今オウジがスタジオで、ステップ台の破損とかがないかチェックしてるところです。古い道具ばっかりですみません」
朗らかな挨拶に草木さんも笑顔で答える。どうやらこの人が話題に出たばかりの、「サクラ先生」のようだ。言われてみれば、レッスン中のスタジオで鏡の前に立っている姿を、何度か見かけたことがある気がする。
「とんでもないです! いつも気を遣ってくださって本当にありがとうございます。じゃあ私、オウジさんをお手伝いしてきますね。道具のチェックだって、もともとイントラが自分でやるべきことですから」
大きく首を振ったサクラ先生は、ぺこりと頭を下げてから身を翻した。数秒後、角を回った彼女の姿が、ガラス壁の向こうにふたたび現れる。そのままスタジオに入ったサクラ先生は、オウジさんに何か声をかけてお辞儀してから、自分も同じようにステップ台をひっくり返し始めた。なんだか楽しそうな表情だ。ぱっちりした目が細くなって、さっき以上に笑顔なのがここからでもわかる。
「サクラ先生って、オウジさんのことが好きなんですか?」
思わずストレートに訊いてしまうと、草木さんは「あはは」と声に出して笑った。
「どうなんだろうねえ。でもオウジと話したり、あいつからトレーニングについて教わってるときはたしかに嬉しそうだよ。まあサクラ先生は、誰にでも笑顔で接してくれる人だけどさ」
「そっか、インストラクターさんですもんね」
とはいえ、二人が仲良しなのに越したことはない。特にオウジさんはジムのトレーナーさんというだけでなく、今やサークルのチームメイト(?)なのだ。一見とぼけたあの人の良さを、爽やかなお姉さんがわかってくれているとすれば僕も嬉しい。
「オウジさんって独身ですよね?」
「もちろん」
念のため、というのも変だけど草木さんに確認すると、何が「もちろん」なのかはわからないものの即答された。でもたしかに、僕もオウジさんが家庭を持っている姿というのはまるで想像できない。というか、どんなタイプの女性が好みなんだろう。それともまさか同性が好きなのか。もちろん僕自身は、そういう人たちへの偏見はないけれど。
プライベートな内容だけど、差し支えなければあとでその手のことを本人に直接尋ねてみようと思った。今日のオウジさんは午後五時までの早番勤務、マユさんもバイトは休みだそうで、三人で軽くABCの見回りをすることになっている。
コンビニで出会ったあの日、僕たちはすぐに連絡先を交換しあって、スマートフォンのメッセージアプリにグループチャットを作った。ABCの活動日は基本的にそこで話し合って決めていて、おたがいに一層打ち解けてきた最近では僕がオウジさんに筋トレのことを訊いたり、マユさんからの《バイト先で廃棄しちゃうスイーツが出たけど食べる?》なんてメッセージも飛び交うようになってきた。年齢も性別もバラバラだけど、学校やクラブの友達とのやり取りとはまた違う感じで、ABCのグループチャットも楽しい。よくわからないけど、こういうのも「リア充」って言うのかな。
二十分ほど経ってオウジさんがジムへ戻ってくる頃には、僕もウォームアップを終えて、鏡の前でバーベルを担いでスクワットしているところだった。
「お。こんちは、マサキ。来てたんだ」
「はい」
僕が十回×四セットというノルマを終えたところで、オウジさんは声をかけてきた。わざわざそのタイミングを待ってくれたのが今ではわかる。筋トレはセット間のインターバルも大切で、「筋肉を大きくしたいときは、インターバルは三十秒から九十秒の間に収めた方がいいぞ」とつい先日、他ならぬオウジさんに教えてもらった。下手なタイミングで会話が始まって、それ以上の秒数が空いてしまうことを避けたのだろう。やっぱり優秀なトレーナーさんなんだ、とあらためて感心させられる。
「そうだ、オウジさんて――」
彼女とかいるんですか? と続けようとしたところで、ジムに入ってきたときと同じように、スタジオの光景がふと目に映った。サクラ先生のステップレッスンはすでに始まっていて、小さなスタジオいっぱいに十五人ほどの人が揃って身体を動かしている。
「あれ?」
質問を中断した僕は、スタジオを二度見してしまった。
「どうした?」
オウジさんもスタジオ側を振り返る。
「めずらしいですね」
「何が?」
「いや、ずいぶん若いお客さんがいるなと思って」
「ああ、ケンタか」
頷いたオウジさんと僕が注目する先、サクラ先生から一番遠い最後列では、どう見ても十代の男子が、笑顔でステップ台の昇り降りを繰り返しているのだった。
「ケンタさん、ていうんですか?」
「そう。
「へえ。マユさんと同い年なんだ」
ということは多分、十五歳か十六歳。いずれにしても、高一の男子が楽しそうにフィットネスのスタジオレッスンというのはなかなかレアだ。
「あ、本当にマユと同じ平塚河西じゃなかったかな。そういや、今度訊いてみようと思ってずーっと忘れてた。サンキュー、マサキ」
「はあ」
しっかりしているのかだらしないのか相変わらずよくわからないオウジさんだけど、直後に教えてくれた話によれば、「ケンタ」こと垣ノ内健太さんはなんと子どもの頃から競技エアロビックもやっている人で、将来は自分もインストラクターになりたいという夢を持っているそうだ。言われてみれば、たしかに参加者の中でケンタさんだけ動きが違う。一番後ろにいるにもかかわらず、大きくてキレのあるステップがとても目立っていて、僕が自然と目を引かれたのも納得できた。
「普段はちょっと大人しいけど、サクラ先生だけじゃなくて他のイントラさんたちにも可愛がられてるんだ。ジムにもちょくちょく顔を出して、熱心に筋トレしてくれてるよ」
「へえ」
凄いなあ、と素直に尊敬する。まだ高校一年なのに自分の好きなこと、やりたいことがはっきりしていて、その夢に向かって一所懸命だなんて立派で格好いい。
「あとで紹介してやるよ。マサキは人畜無害だし、きっと仲良くなれると思うぞ」
「はい。ありがとうございます」
ジンチクムガイってどういう意味だっけ。悪い言葉ではなかったはずだけど、たしか「平凡で、まわりになんにも影響をあたえない」みたいな意味もあったんじゃなかっただろうか。それはともかく、僕自身もケンタさんと話してみたいのは事実だ。ついでに、マユさんのことも知っているかどうか訊いてみよう。
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