セーレ・バル 篇

第4話 近代の闇

 それを根掘り葉掘り訊くのはたぶん、「野暮」というモノだろう。のだ。その内容がなんであれ、触れられたくないモノもあるのである。自分の尊厳を踏みにじられるのが怖くて。だから、ヨハンも……まあいい。それはおいおい分かるかもしれないので、ここは時間の方に意識を戻すとしよう。その方が物語も進むだろうし、また今の時間を描いた方が、「時間の経過も分かりやすくなる」と思ったからだ。


 時間の経過はおおよそ、「一年後」といっていいだろう。カレンダーの暦が一年ほど進んでいたし、周りの風景もまた……いや、周りの風景はほとんど変わっていない。「近代」の色に染められている町も、ガス灯の汚れが少しひどくなっているだけで、変化らしい変化はほとんど見られなかった。その道路を行きかう人々も、黙っていつもの道を歩いている。ある人は死んだような顔で、またある人は不機嫌な顔で、この混沌とした時代を歩いていた。近代化の裏で様々な者が苦しむ時代を、前時代の職人達が「俺達の仕事を返せ!」と叫ぶ時代を、過酷な労働環境に大勢の少年達が死んでいく時代を、疲れた背広に身を包んで、無言の内に歩きまわっていたのである。それをじっと眺めているセーレもまた、そんな時代に苦しむ少女の一人だった。


 セーレは年齢こそ17歳だったが、まともな食事をほとんど食べていないらしく、その身体が見事に痩せほそっていた。首の根元辺りまで伸びている赤髪もむちゃくちゃに乱れ、その顔や服にも汚い物がこびりついていて、元の顔が美しくなければ、鉄橋の端に座り、そこで道行く人々に物を乞うても、それらの人々にお金はおろか、食べ物さえも与えられなかっただろう。それほどに苦しい生活を送っていた。

 

 彼女は通行人の中でも優しそうな人間、特に人の良さそうな人間を見つけると、フラフラの身体を何とか立たせつつ、急いでその人のところに駆け寄っては、その人に不器用な媚びを売って、「何でもいいから、わたしに下さい!」と頼んでいた。


 相手はその懇願に憐れみを……感じれば、まだいい方だった。自分の出来る範囲で、彼女の願いを叶えていた。財布の中に余分なお金があればお金を、食べるのに飽きはじめたサンドイッチがあればサンドイッチを、彼女に(僅かな嫌悪感こそあったが)それらの渡していたのである。だが、そんなのはごく一部だ。本当に善良な(あるいは、善良風な偽善)者だけが見せるほどこし。

 

 ほとんどの人間は、彼女の姿をあざ笑うか、最悪の時は宿まで彼女を連れていき、その身体を好き勝手にもてあそぶだけで、彼女の願いをまったく叶えようとしなかった。「誰がお前なんかを助けるか!」の台詞も最早、彼らのお決まり文句になっている。彼らは本当の気まぐれ、彼女への征服欲を満たした時にだけ、彼女に汚い情けをかけていた。


「その金で、泥水でも買いな」


 彼女は、その言葉に応えなかった。その言葉自体を聞く事はできても、自分の身ぐるみが剥がされ、身体全体に汚い物をかけられた状態では、細い右腕で自分の両目を覆い、そこから流れた涙を止めるだけで精いっぱいだったからである。


 彼女は誰にも聞こえない嗚咽を漏らしたまま、ベッドの上でしばらく泣きつづけたが、それすらも疲れてしまうと、残りの体力をうまく使って、ベッドの上から静かに起きあがり、普段は滅多に浴びられないシャワーを浴びて、身体の汚れをできるだけ落とし、自分の服をもう一度着なおして、部屋の中からそっと出ていった。部屋の外は、その中とおなじくらいに静かだった。こんな真っ昼間から快楽にふける者はほとんどいなく、宿の中から出ていこうとした時にも、そこの従業員に目を細められただけで、それ以上のはずかしめを受ける事はなかった。

 

 セーレは、自分の頬に触れた。この美しい頬もまた、一週間もすれば汚れてしまう。自分の垢と泥とに汚れた、化け物になってしまう。誰もがあざ笑う醜い化け物に。それは彼女にとって、最大級の苦痛だった。本来なら青春を楽しんでいる筈の彼女とっては、これ以上にない苦痛だったのである。自分も、少女の青春を送りたいのに。

 

 彼女は自分が「それ」を既に味わえない事、そこから遙か遠くまで行ってしまった事に絶望を……いや、絶望ならとっくに味わっていた。彼女がまだ、幼かった頃に。その幼さが、無抵抗の人生を作ってしまった頃に。何も前触れもなく味わってしまったのである。彼女はその地獄を思い出したくもないのに、自分の周りから聞こえてくる声、特に華やかな笑い声のせいで、その地獄を無意識に思い出してしまった。


 最初に思い出されたのは、自分への折檻せっかん。唯一の父親が、彼女の身体をいたぶる光景だった。父親は(なにが楽しいのかは分からないが)一人娘の身体をいくども叩いては、嬉しそうな顔で娘の泣き声に「ニッコリ」と笑っていた。それを遠くから眺めている母親も、娘の泣き声に苛立ちこそするが、「夫の暴力を止めよう」とは思わなかったらしく、愛用のパイプを美味しそうに吹かして、仕舞いにはその光景から視線を逸らしてしまった。


 彼女はテーブルの上に頬杖をついて、窓の外をぼうっと眺めはじめた。


 父親は、両手の拳を止めた。どうやら、娘を殴るのに飽きてしまったらしい。彼は娘の前から歩きだすと、棚の中をガサゴソと漁って、自分の食べられそうな物をかじりはじめた。


 妻は、その音に視線を移した。


「あんまり食べないでよ? ただでさえ、少ないんだから」


「分かっているって!」


 そう応える夫だったが、そんな気持ちははなからなかったらしい。彼は家の食料を平らげると、娘の身体に一蹴り入れて、台所の中をしばらくブラブラし、それから自分の頭をポリポリ掻いて、妻から呑みかけのパイプをもらい、自分もそのパイプを吸って、窓の縁にそっと腰掛けた。


「いやはやまったく、皆よく働くね?」


 彼は、外の景色に「ニヤリ」とした。下品な笑いだった。まるで働き蟻の仕事を見下すように、下宿屋の窓から「それ」を笑ったのである。


「それが俺らの金になるとも知らずにさ」


 妻も、その言葉に笑った。


「本当に」


 ご苦労な事、と、彼女はいった。


「あんなにせっせと働いて。あたしだったら、死んでも御免だわ」


 彼女は「ニコッ」と笑い、夫もそれに「フッ」と笑った。二人は真っ当な人間が懸命に働く中、それよりもずっと高いところで、それよりもずっと低いところを生きていた。「夫は盗人、妻も罪人」という生活を。そして、「その生け贄が娘」という生活を。彼らは普通の人なら恥ずかしくなるような生活を、まるで「当然」とも言わんばかりに繰りかえしていた。


 だが、それが不幸を招いた原因。快楽の終焉をもたらすとは、この時の二人には知るよしもなかった。彼らは社会の罪人達と同じく、「司法」の目を超えた、「私法」の罰を受けてしまった。夫は、社会の正義に潰された。妻は、それの道連れになった。二人は社会の正義に怯えるあまり、たった一人の娘を置いて、その正義からそそくさと逃げだしてしまった。


 娘は、家の中にぽつんと取りのこされた。家の中には食料がいくらか残っていたが、それも調理が必要な物ばかりで、料理の一文字目すらまったくできなかった娘には、調理の要らない主食や野菜、くだけで食べられる果物なんかを食べるしかなく、それらの食料もまた、数日の内に無くなってしまった。

 

 娘は最後の果物を食べおえると、悲しげな顔でその場に座りこんだ。理屈では分からなくても、感情の方では「それ」が分かってしまったからだ。「わたしは、自分の親に捨てられたのだ」と、そして、「その親は、もう二度と帰ってはこないのだ」と、幼さの中に芽生えた現実感が、彼女にそう訴えてきたのである。



 彼女は寂しい気持ちを抑えつつ、床の上からそっと立ちあがって、家の中をゆっくりと歩きはじめた。家の中にはたぶん、一つのお金も残っていないだろうが。それでも、そのお金を探さずにはいられなかった。今の孤独を紛らわすためにも、また、「親に捨てられた」という事実から逃げるためにも。今なら「町の孤児院に行けば、よかったのでは?」と落ちついて考えられるが、当時の彼女にそんな余裕があるわけもなく、また仮にあったとしても、両親が不慮の事故や病気などで孤児になった子どもと、「犯罪者」や「元娼婦」に捨てられた子どもとでは、その扱いにも大きな差が出るはずで、「それが自分をより苦しめる材料になってしまうのではないか?」と怖がる、つまりは「そうせざるを得なかった」のである。


 自分には頼れる親戚も、信じられるご近所もいないのだ。


 周りのすべてが敵だらけ。


 頼れるのは、自分の力だけである。


 彼女は普通の少女なら「お母さん」と甘える年齢に、自分に必要な荷物をまとめて、その地獄から一目散に逃げだした。。彼女は町の中で見かける人々、それらの会話から路上生活に必要な知識を学び、その知識から様々な利益を得て、ある時には「憐れみ」を、またある時には「媚び」を売り、「生きる」か「死ぬ」かの綱渡りを繰りかえして、今日までの命を何とか繋いできた。


 だが……それにもやはり、限界がある。服は町の古着屋で、靴はその中古屋で買えても、それは生きるのに必要な事であって、生きる事自体に華を加える事ではないからだ。華のない人生はやはり、苦しい。特に彼女のような少女には、「聖典」の一文よりも大事な物だった。


 聖典は命の美しさは教えてくれるが、それの真逆は教えてくれない。苦しみと向きあう方法は教えてくれるが、そこから逃れる術は与えてくれない。常に「立ちむかえ!」と叫んでくる。彼女の苦しみをないがしろにして、「もっと頑張れ!」と叩いてくる。彼女には、その激励が苦痛で、苦痛でたまらなかった。


「神様はどうして、わたしを救ってくれないんだろう?」


 多くの人が、その神様を信じているのに。その神様を信じて、今も祈りを捧げているのに。自分の前に現れるのは、いつも苦しみばかりだ。


「そんなの理不尽すぎる」


 どうして、自分だけ?


「わたしだけが、こんなに苦しいの?」


 現実は彼女と同じ、あるいは、もっと悲惨な少女もいるだろう。だが不幸の渦中にいると、そんな事などすっかり忘れてしまうのだ。「自分がこの世で最も不幸だ」と、そう信じきってしまうのである。彼女の場合は、正にそれであった。


 セーレはその現実に肩を落としたが、身体の飢餓感に襲われると、その感覚から何とか逃げだそうとして、町の中をまたフラリとさまよいはじめた。

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