第23話 無償の愛

 鉄橋の上では、ハウワーが下の川を眺めていた。川の水面には、日の光が当たっている。波の動きに合わせて、その姿をいくども変えていた。そこを泳いでいる水鳥も、水の中に顔を時折入れる以外は、その場にじっとたたずんでいる。まるで彼女の心を表すかのように、その姿を何度も変えて、それが美しさを表していた。

 

 ハウワーは、その光景に胸を締めつけられた。こんな事をしていても、なにも変わらない。それどころか、状況はますます悪くなる。親友の前から逃げだしてしまった以上はもう、自分はあそこには戻れないのだ。仲よし(と思っていた)の少女達と、お茶会を楽しむ事もできない。文字通りの孤独。言葉通りの一人ぼっち。


「アタシはもう、みんなの世界から追いだされた人間なんだ」


 ハウワーは鉄橋の手すりに両腕を乗せて、その上に顔をそっと乗せた。


「ロジクも、こういう気持ちだったのかな? 自分の家から追いだされて」


 きっとさびしかったに違いない。そういいかけた彼女だったが、自分の後ろに妙な気配を感じると、両腕の上から顔をあげて、自分の後ろをサッと振りかえった。自分の後ろには、二人の少女が立っていた。一人は、もう一人は。二人は自分の後ろに立って、こちらをじっと眺めていたのである。


「ど、どうして? 二人が」


 ハウワーは不思議な顔で、目の前の少女達を見かえした。


 少女達は、その視線に応えなかった。特にミレイは余程にうれしかったらしく、親友が「ミレイ?」と驚く声を無視して、彼女の身体を思わず抱きしめてしまった。


「よかった、ハウワー。貴女を見つけられて、本当に」


 ハウワーはその言葉に驚いたが、すぐに「なるほど」と落ちついた。二人はどうやら、自分の事を捜していたらしい。セーレの方はどういう経緯か分からないが、「ダナリ様」と笑いかけてきた顔からは、それを裏づけるだけのモノが感じられた。二人は本気で、自分の事を心配していたようである。


「ご、ごめ」


 ハウワーは、二人の厚意に泣きだしてしまった。


「なさい」


「うんう、いいの。ハウワーが無事なら、それで」


 ミレイは「クスッ」と笑って、彼女の身体を放した。


「戻りましょう、ハウワー。ハウワーは、なにも悪くない。彼の快楽屋にいった事だって」


「ミレイはよくても、周りのみんなは許してくれない。それどころか、ミレイの」


「私の立場は、どうでもいいの!」


 ミレイは真剣な顔で、彼女の両肩を掴んだ。


「私は、なんだから。親友が悩んでいる時に立場もなにもないじゃない。私は全力で、貴女の事を守る。周りの目から、その心ない言葉から、貴女を」


「ミレイ……」


「だから!」


 セーレも、その言葉に続いた。


「ヨハンさんのお店にいきましょう」


 セーレは真剣な顔で、彼女の目を見つめた。


「ヨハンさんと貴女のお父様が、貴女の事を待っていますから」

 

 ハウワーは、その言葉に目を見開いた。またも驚きの情報だったが、二人が自分の事を捜していたのだから、彼らが自分の事を捜していても別に不思議ではないし、「アタシがもし、ロジクの家にいったなら?」と考えれば、それで入れちがいになる場合もあるわけだから、「二人が店の中で自分を待っている」というのは、多少の混乱こそ残していても、充分に考えられる事だった。


「そっか。ロジクとお父さんが、アタシの事を」


「はい」


「ごめんね?」


 ハウワーは「ニコッ」と笑って、両目の涙を拭った。涙のなごりが消えたわけではないが、親友の前から逃げるわけにはいかない。自分の事を捜してくれたセーレや両親、そして、それに巻きこんでしまったヨハン・ロジクからも。彼女はなにも抗わず、ただ相手の言葉に従った。


「分かった。ロジクの店にいくよ。そこにいって、みんなに謝る。店の中で待っているのは、二人だけ?」


「はい。わたしもヨハンさんから買い物を頼まれたお店で、ダナリ様のお父様とたまたま出会っただけですから。たぶん」


「ふうん、そうなんだ。悪かったね」


「いえ。わたし達はその、もう他人じゃありませんし。が」


 ハウワーは、その言葉に胸が熱くなった。特に「友達」の部分には感動を覚えてしまったようで、一度は忘れていた涙をもう一度流してしまった。彼女は両目の涙を拭うと、嬉しそうな顔で彼女に笑いかえした。


「ありがとう」


「え?」


「アタシの事、『友達』っていってくれてさ」


 セーレは、その言葉に首を振った。


「あなたは、ヨハンさんの事を受けいれてくれた。


 ミレイは、その言葉に苛立った。その言葉はどう考えても、自分への敵意だったからである。


「私は、見すてていない」


 彼女への敬語も最早もはや、使わないようだ。


「彼の事を。私は今でも、ヨハンの事が好きだから! そんな彼を見すてるなんて」


「でも、やった事は同じ」


「え?」


「あなたがどう思っていても、彼を見すてた事には変わりないんです! そんなにも想っている彼の事を。わたしは決して、あなたの事を許さない」


 ミレイはその言葉に怯えたが、いつもの落ちつきをすぐに取りもどした。


「貴女は、一体?」


「わたしは、ヨハンさんの助手です」


「ヨハンの助手?」


「そうです、彼が営んでいる快楽屋の。わたしは、彼に自分の人生を救われて」


「そう、なんだ」


「はい」


 セーレは、彼女の目を見つめた。ミレイも、彼女の目を見つめかえした。二人は互いの目をしばらく見あったが、ハウワーの事もあったので、それも長くは続かなかった。


 セーレは、少女達の足を促した。


「いきましょう?」


 ミレイは、その言葉に従った。ハウワーもそれに従ったが、内心では「この二人はどうして、こんなに不仲なんだろう?」と思っていた。ハウワーはそう思いながら歩きつづけたが、母親の事をふと思いだすと、すまなそうな顔でその事を思いはじめた。


 彼女の母親は、町の中を歩いていた。自分の娘をなんとしても捜そうと、その道路をひたすらに歩いていたのである。彼女は町の大通りに向かおうとしたが、その時によそ見をしていたせいで、自分の前から歩いてきた少女と思わずぶつかってしまった。


「す、すいません!」


 少女は、その謝罪に首を振った。相手の態度や服装などを見て、「善良な人間」と思ったらしい。少女は彼女の娘とそう変わらない年齢ながら、それよりもずっと落ちついた態度で、今の空気をなんとか変えようとした。


「汗が凄いですね? お顔もどこか、疲れているようですし。ずっと歩かれていたんですか?」


 ハウワーは、その質問に暗くなった。


「は、はい、ずっと。自分の娘を捜していて」


「ご自分の娘さんを?」


「ええ、ちょっと」


 少女は、その言葉に目を細めた。細かい部分は分からないが、その言葉から彼女なりに憶測を立てたらしい。


「なにかあったんですね? それも他人には、いえないような事が」


 それを聞いたハウワーの母親が青ざめたのは、話すまでもないだろう。彼女は少女に今の状況を話すべきか悩んだが、少女が「困っている事があるなら、できる限りにお手伝いしますよ?」といってくれた事や、それが一種の安心感を覚えさせた事で、最初の数秒こそは戸惑ったが、数秒後には「実は」といい、少女に今の状況をゆっくりと話しはじめた。


 少女は、その話に目を細めた。


「なるほど。それは、大変ですね? 娘さんの姿はもちろん、ヨハン・ロジクの快楽屋もどこにあるか分からないなんて」


「……はい。そういうお店は、この町にもたくさんありますから。見つけたくても、なかなか見つけられない。まるで霧の中をさまよっているような気分です。前後左右、それらすべてが包まれた霧の中を」


「その気持ちは、よく分かります。気持ちの中では『早く捜さなければ』と思っているのに、現実はその通りにいってくれない。ワタシも、同じような事を」


「貴女も、誰かを捜しているんですか?」


 少女は、その質問に答えなかった。「その質問には答えられない」と、そう内心で思ったようである。


「ヨハン・ロジクの快楽屋ですが、ワタシがそこに案内しましょうか?」


「え? あ、貴女が?」


「はい。ワタシは、そこの常連なので。店の場所は、よくしっているんです」


「そ、そうだったんですか。それは」


 かなりの偶然ですね? そういいかけたハウワーの母親だったが、彼女もまた快楽屋にあまりいい印象を抱いていなかったようで、表面上では目の前の少女に笑顔を見せていたが、内心ではやはり嫌な感情を抱いていたらしく、彼女が自分の足を促すと、怖い顔で彼女の背中を睨みはじめた。


 ハウワーの母親は、彼女の後ろを黙々と歩きつづけた。


 少女は、ハウワーの母親に話しかけた。


「申しおくれましたが。わたくし、レーン家の『カノン・レーン』と申します」


「そうなんですか。レーン家の……ん? レーン家?」


 まさか! と、ハウワーの母親はいった。


「貴女はあの、有力貴族の?」


「はい、そこの一人娘です」


 少女もとへ、カノンは、彼女の方を振りかえった。


「なにか問題でも?」


「い、いえ、ただ」


「はい?」


「そんなお嬢様が、そういうお店にいくのはどうかと? 貴女は」


「名家の生まれだから?」


「え、ええ。貴族には一応、『世間体』というモノがありますし。あまりいかがわしい店にいくのは」


 カノンは一瞬、その言葉に足を止めた。


「貴女にとって、『貴族』とはなんですか?」


「え?」


「普通の人間よりも偉い存在? それとも、たっとい血の流れた生き物?」


「そ、それは」


「貴女もワタシも、ただの人間です。周りの人達とそう変わりない。自分の身分に等級を与える事は、その命に対する冒涜ぼうとくです。貴女だって、男女の交わりから生まれてきたのでしょう? ワタシは、その快楽に魅せられているだけです。それが生みだす神秘にも」


 ハウワーの母親は、その言葉に押しだまった。彼女への嫌悪感、特に「破廉恥」の部分がなくなったわけではないが、その理論に不思議な説得力を感じたせいで、それに反論しようと思っても、それ自体をすぐに飲みこんでしまったのである。ハウワーの母親は彼女になにも言いかえせないまま、黙って彼女の後ろを歩きつづけた。


 カノンは、ある店の前で止まった。


「ここが、彼のお店です」


「ここが」


「はい」


 カノンは店の扉を叩こうとしたが……これもなにかの導きなのか? 彼女が扉の前に拳を近づけようとした瞬間、道の向こうから歩いてきたミレイ達と鉢合はちあわせになった。


 カノンは、彼らの姿に目を細めた。セーレとハウワーとは面識があったが、残りの一人とはだったからである。彼女は相手が自分の視線に驚いた後も、真剣な顔で相手の目を見つづけた。


「あの子は?」


 ハウワーの母親がそれをいったのは、正にその瞬間だった。


「ミレイさん!」


 彼女はミレイの手を握って、彼女に何度もお礼をいいつづけた。


「ありがとう! ありがとう! ありがとう!」


「い、いえ、私はなにも。ハウワーの居場所を推しはかったのは、セーレさんですし」


「セーレさん?」


 セーレはその言葉に応えて、彼女の前に歩みよった。


「はじめまして。わたしはこのお店で働いている、『セーレ・バル』といいます」


「セーレ・バルさん?」


「はい?」


「そう、彼女が」


 ハウワーの母親は、彼女の身体を抱きしめた。


「ありがとう、本当に。うちの娘を見つけてくれて」


「え? い、いや、そんな。ダナリ様を見つけられたのも、偶然みたいなモノですし」


「それでも! うちの娘を見つけてくれて、本当にありがとう」


 セーレは、その言葉に胸が熱くなった。その言葉こそが愛情、つまりは無償の愛なのである。一切の見かえりを求めない、人間の根っこにある感情。彼女はそれに胸を打たれて、思わず泣きだしてしまった。


「う、ぐっ、はっ」


「え? ど、どうしたの?」


「す、すいません。わたし、自分の親に捨てられたから。それで」


 ミレイはその言葉に驚いたが、ハウワーの母親はそれ以上に驚いた。


「そうだったの」


「はい……」


「辛い思いをしたのね?」


「はい……。でも、彼女の方がずっと」


 セーレは、ハウワーの顔に視線を移した。


 ハウワーは暗い顔で立っていたが、自分の母親に「まったく、貴女って子は! どれだけの人に迷惑をかけたと思っているの?」と抱きしめられた時はもちろん、それから店の中に入って、自分の父親に「馬鹿娘が! 自分の家にも帰られないで」と怒鳴られた時も、どこかホッとしたような顔で、それらの声に泣きさけんでしまった。


「うわぁあああん! ごめんなさい! ごめんなさい!」


 ヨハンはその声に微笑んで、椅子の上に彼女を座らせた。


「だいたいの事は、君のお父さんから聞いたよ。僕のせいでこんな事に。僕も、自分のできる範囲で」


 その続きをさえぎったのは、彼の前に走りよったミレイだった。ミレイは彼の前に立って、その顔をじっと見つめた。


「久しぶり」


 ヨハンは、その言葉に目を見開いた。自分にそんな事をいう人間は限られている。彼は少女の特徴から、悲しくも温かい憶測を立てた。


「君は、まさか?」


「うん、そうだよ! 私は、ミレイ・マヌア。貴方の幼馴染の」


 ミレイは両目の端に涙を浮かべて、目の前の少年に「クスッ」と笑った。

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