第二章

第13話 普通じゃない人生

 それを眺めていたセーレもまた、ハウワーと同じ思いを抱いていた。夕暮れの町は、いつ見ても寂しい。道行く人々の顔はどこか虚ろで、運河の先に沈んでいく夕日もまた、夜の気配から逃げようとしているように見えた。「自分はまだ、夜の世界に行きたくない。昼の世界でまだ、のんびりしていたい」と。地平線の手すりにつかまって、セーレのいる鉄橋にそう訴えていた。


 セーレは、その訴えに耳を傾けなかった。夕日の訴えに耳を傾けたところで、今の状況が変わるわけではない。無慈悲な現実にただ、打ちのめされるだけだ。心ある通行人からもらった食料、それも最後のパンが、自分の身体へと消えていくように。あらゆる理不尽に踏みつぶされて、みじめな気持ちを味わうだけである。


「くっ!」

 

 セーレは最後の食料を食べおえると、鉄橋の前から離れて、町の中をしばらく歩いたが、視線の先に公園をふと見つけたので、公園の中にフラフラと入り、そこのベンチにゆっくりと腰かけた。ベンチの表面は、冷たかった。その素材自体は木であったものの、今日はそこに誰も座らなかったようで、彼女がそこに腰かけた瞬間、何ともいえない無気力さが襲ってきた。


 セーレは、その空気にうつむいた。


「このベンチは」


 たぶん、自分と同じだ。誰からも忘れられ、誰からも愛されない存在。存在そのモノがうとんじられている存在。居ても居なくても変わらない存在。自分は世間のゴミ箱に捨てられて、最後は朽ちはてる存在なのだ。


「くっ」


 セーレは悔しげな顔で、自分の足に涙を落とした。


「お腹がすいたよぉ、神様」


 神様は、その声に応えなかった。彼女がどんなに泣いていても、それを決して助けようとしない。ただ無言で、眺めているだけである。彼女の前にある青年が現れた時も、そこに青年の影を作っただけで、彼女の「え?」にも応えなかったし、それから「あの?」にも応えなかった。神様は沈黙を保ったまま、無感動な顔で彼女の反応をじっと眺めつづけた。


 セーレは、目の前の青年を見はじめた。この青年は一体、何者だろう? その身なりはしっかりしているが、見ず知らずの少女に「こんばんは、お嬢さん」と話しかけるあたり、最初から信じていい人間には見えなかった。


 セーレは、青年の顔をまじまじと見つづけた。


「わ、わたしになにか用ですか?」


「用って程でもない。ただ」


「た、ただ?」


 そこで途切れた会話には、何ともいえない不気味さがあった。夕日の残滓を食いつくそうとしている空にも、それと同じ雰囲気が漂っている。まるで少女の不安を煽るかのように、夜の使者を静かに導いていた。


 セーレは、その使者に震えあがった。


 青年は、その震えに首を振った。


「怯える事はねぇよ? 俺は別に……そう、怪しい者じゃない。お嬢さんが思うような人間じゃあね? 俺はいわば、だ」


「人探しの専門家?」


 それって? と、セーレはいった。


「どういう?」


 青年はその質問を無視して、彼女の隣に目をやった。彼女の隣には、人ひとり分程の幅が開いている。


「隣、いいかな?」


 セーレはその質問に戸惑ったが、やがて「は、はい」と答えた。ここで断るのはたぶん、得策ではない。彼女は自分の安全を図ろうと、ベンチの端まで身体を動かした。


「ど、どうぞ」


「ありがとう」


 青年は「ニコッ」と笑って、彼女の隣に腰かけた。


「冷てぇな?」


「え? は、はい。冷たい、ですね。すごく」


 青年は、その言葉に「クスッ」と笑った。


「ここは、お嬢さんのねぐらかい?」


 それにしばらく答えられなかったのは、彼の質問に暗くなってしまったからだろう。セーレは青年の洞察力に怯えたが、「自分の身なりを見れば、誰にでも分かる事だ」と思いなおして、自分の気持ちを何とか抑えつつ、不安な顔で相手の顔を見かえした。


「い、いえ。いつもは、鉄橋の下を使っています。そこなら多少の雨風も防げますから」


「なるほど。それじゃ、ここをねぐらにしているわけじゃねぇんだな?」


「……はい」


 セーレは、彼の目から視線を逸らした。


「ここに座っていたのはその、本当にたまたまで。別に深い意味はないんです」


「そうか」


 青年は「ニコッ」と笑って、自分の正面に向きなおった。セーレもまた、彼の横顔を見はじめた。二人はそれぞれに自分の見たい物を見ていたが、青年が彼女の方に向きなおると、今までの雰囲気を忘れて、互いの目をまたじっと見はじめた。


 青年は、彼女の目を見つめた。


「なら」


「なら?」


「こいつはある意味で、運命かもしれねぇ」


「運命?」


 そういいおえるよりも速かったか? セーレは不安な顔で、隣の青年を睨みつけた。隣の青年はやはり、危険な人物かもしれない。


「あなたは、誰です?」


 返答なし。


「どうして、わたしに話しかけたんですか?」


 やはり返答なし。


「くっ!」


 セーレは、ベンチの上から立ちあがった。


「帰ります」


「どこへ?」


「それは!」


 鉄橋の下です、と、セーレはいった。



「お嬢さんの家?」


 青年は、彼女の背中に問いかけた。


「本当にそうか?」


 セーレは、その質問に足を止めた。


「どういう意味です?」


「言葉通りの意味だよ。『そこはお嬢さんの、本当のマイホームか?』って、な。普通の人間はたぶん、そうは思わない。窓も無ければ、玄関も無い家なんて。普通の人間なら壊れてしまうよ。今のお嬢さんみてぇにな、自分の心がズタズタになってしまう。真っ黒な感情に溢れてしまう。『周りの人間が憎い、裕福な奴らがうらやましい』って、な。不満と孤独に押しつぶされてしまうんだ」


 セーレは、その言葉に振りかえった。その言葉は彼女にとって、あまりに失礼すぎる。


「分かったような事を」


「なに?」


「分かったような事をいわないでください! わたしがどれだけみじめな生活を送っているかもしらないで! 今の言葉も、単なる想像なんでしょう? わたしの髪とか服とかを見て思った、あなたのくだらない同情なんでしょう? わたしは、そんな同情なんていらない!」


「なら、なにが欲しいんだ?」


 セーレはその質問を無視して、彼の前に走りよった。


「普通の人生です!」


「普通の人生?」


「そうです! 。家族や、恋人や、友達に恵まれた、普通の人生です! わたしには……」


「確かに無いかもしれない。だが、これから作る事はできる。お嬢さんの気持ちと行動次第では」


「『人生は、いくらでもやりなおせる』って?」


「そうだ。現に一人」


「一人?」


る。そいつはガキの頃……まあ、それはいいか。とにかく大変だったらしい。自分の家から出ていく事になって」

 セーレは、その言葉に「ハッ」とした。特に「」の部分には、妙な親近感を覚えてしまった。


「そう、なんですか」


「ああ。だから、辛いのはお前だけじゃない。この世に生きている大抵の人間が辛いんだ。世間の荒波に何とか耐えようとして」


「で、でも!」


 それでも! と、セーレはいった。


「辛いモノは、辛いです」


 青年は、その言葉に目を細めた。


「そうだな。その辛さは、お嬢さんにしか分からない。他の奴といくら比べたって、な。自分の辛さは、他人の辛さと等価値にならねぇんだ。だから、みんな悲しがる。『どうして、自分だけ?』と悔しがる。『自分はこの世で、一番に不幸だ』ってよ?」


「あなたも、そう思っているんですか?」


 青年は、その質問にしばらく答えなかった。


「どっちでもない」


「どっちでもない?」


「そうだ。俺は不幸でもなければ、幸運でもない。文字通りの普通だ。それなりの苦労を乗りこえ、それなりの人生を生きている、ただの」


「うらやましい」


「そうか?」


「はい、自分の人生を『普通』っていえる事が」


 セーレは、悲しげに笑った。


「わたしには、絶対にいえません」


 青年はまた、彼女の言葉に目を細めた。


「お嬢さん」


「はい?」


「普通の弱点は、何だと思う?」


「それは」


 数分程考えたが、その答えは結局分からなかった。


「ごめんなさい。普通の弱点って?」


「そこに絶対が無い事だよ。例えば」


 それの続きを聞く事はできなかったが、代わりに抽象っぽい話は聞く事ができた。


「社会の思想が変われば、そこにある普通も変わってしまう。『普通』っていうのは、コウモリなのさ。こっちが勝っていればこっち、あっちが勝っていればあっち。自分の意見をコロコロ変えて、いつも弱い奴を見くだしている。本当は、普通が一番弱いくせにさ。『自分が一番に強い』と偽っている。だから、普通っていうのは……卑怯者なんだよ」


「あなたも、その卑怯者なんですか?」


 青年は、その質問に答えなかった。たぶん、彼なりに思うところがあったのだろう。会話の内容を変えようとした態度にも、その意図がはっきりと感じられた。


「まあ、そんな事はどうでもいい。大事なのは、お嬢さんの未来これからだ」


「わたしの未来これから?」


「そうだ。お嬢さん」


「は、はい!」


「何でも屋の仕事に興味はないかい?」


 セーレは、その言葉に目を見開いた。何でも屋とは、つまり……。


「いやらしい店」


「そればかりじゃないが。依頼の内容によっては、そういう仕事もある。男の欲望を満たして」


「い、嫌です! そんなの! わたしは」


「ん?」


「わたしは、そういう親に捨てられたから。犯罪者の父と、商売女の母に捨てられたから! 絶対に」


「そうか。でも」


「な、なんです?」


「今のような生活を送っていちゃ、遅かれ早かれそうなっちまうぞ? お嬢さんの母親と同じ娼婦に、な。それだけは、言いきれる。特にお嬢さんのような人間は、な。自分の欲望にいつか負けちまうだろう。人間、背に腹は代えられないからな」


 セーレは、その言葉に押しだまった。本当は「そんな事ない!」と言いかえしたかったが、彼の言葉があまりに厳しすぎたせいで、それを言いかえす事ができなかったのである。


「う、ううう」


 彼女は悔しげな顔で、両手の拳を握りしめた。


 青年は、その震えを無視した。


「お嬢さんの名前は?」


「セーレ・バル、です」


「そうか。俺の名前は、ラルフ・ガイ。店の連中からは、『ガイさん』って呼ばれている」


 青年もとへ、ラルフは、セーレに一枚のメモ紙を渡した。


「こいつには、店の場所が書かれている。店の場所は、そこの赤印がついているところ。『ファンブル』っていう酒場の真ん前だ。そこの扉を叩けばいい。店の連中はほとんどが女だから、きっと親切にしてくれる」


「う、ううう」


 セーレは、右手の地図をじっと見はじめた。

 

 ラルフは自分の顔から視線を逸らして、その前からゆっくりと歩きだした。

 

 セーレは、その後を追いかけなかった。彼の姿が見えなくなった後はもちろん、右手の地図から視線を逸らした後も。彼女は答えのない迷宮に入りこんだまま、まったく眠らずに翌日の朝を迎えてしまったが、睡魔の影に隠れていた空腹がスッと現れたせいで、頭の中がぐるぐると回っていたにも関わらず、ベンチの前から歩きだすと、憂鬱な顔で今日の朝食を探しはじめてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る