第14話 少女達が交わる時

 それと合わせたわけではなかったが、ハウワーが眠りの世界から覚めた時もまた、その動きとほぼ同じだった。彼女の額には、嫌な汗が浮かんでいる。まるで彼女の気持ちを表すかのように、額の上に大小様々な汗を作って、その表面からゆっくりと落ちていた。

 

 ハウワーはその汗も拭わずに「はぁ」とうつむいて、ベッドの上からゆっくりと起きあがった。


「気持ち悪い」


 そう、ただ気持ち悪いのだ。今日もまた、悪い夢を見てしまったせいで。カーテンの隙間から差しこんでいる朝日はもちろん、それに照らされた部屋の中ですらも、どこか陰鬱いんうつな景色に見えてしまったのだ。机の上に置かれたオカリナも、その色がいつもより色あせて見えている。いつもなら表面の傷にだけ悲しくなるはずが、今はその全体を覆っている雰囲気、その何ともいえない雰囲気にも嫌悪を覚えていた。

 

 ハウワーは、その嫌悪に頭が痛くなった。頭の中ではまた、夢の内容が蘇っている。未来の自分らしい女性が、見知らぬ男性に抱かれている光景が。その男性と情事に励んでいる、自分の淫らな姿が。あらゆる感覚に先んじて、頭の中に呼びおこされていた。

 

 ハウワーは、その光景に苛立った。


「気持ち悪い」


 気持ち悪い。気持ち悪い。


「気持ち悪い!」


 彼女はベッドの上から降りて、今の寝間着を荒っぽく脱ぎだした。寝間着の上をイライラしながら脱ぎすてたと思えば、その下もためらいなく脱ぎすてるように。普段ならお手伝いの女性に手伝ってもらうそれを、今日は一人だけでやりきってしまったのである。女性が部屋の中に入ってきた時も、彼女に「おはよう」とはいったが、相手の「お、おはようございます」にはまったく応えず、挙げ句は自分の脱いだ寝間着だけを渡して、部屋の中から勢いよく出ていってしまった。


 彼女は屋敷の廊下を突きすすみ、その食堂まで行くと、周りの「おはようございます」にやはり応えないまま、自分の席に勢いよく座って、お手伝い達が持ってきた今日の朝食をイライラしながら食べはじめた。


 お手伝い達は、その光景に戸惑ってしまった。それを見ていた彼女の両親もそうだが、彼女がどうして不機嫌なのか、その理由がまったく分からなかったからである。彼らは当惑の色を隠せないまま、黙って彼女の様子を眺めつづけた。


 ハウワーは、今日の朝食を食べつづけた。今日の朝食は特に好きな物ではなかったが、心の苛立ちが食欲らしきモノを促してしまったらしく、野菜のたくさん入ったスープはもちろん、少し小さめの白パンや、素朴な感じのハムエッグもペロリと平らげてしまったのである。いつもならゆっくり飲んでいるオレンジジュースも、この時ばかりは一気飲みしてしまった。


 ハウワーは、テーブルの上にコップを置いた。


「はぁ……」


 周りのお手伝い達、特に彼女の両親は、その声に瞬いてしまった。自分の娘がここまで何か怒っている姿は、(彼らの覚えている限りでは)今まで見た事がないようである。これはたぶん……いや、絶対に何かある筈だ。彼らは周りのお手伝い達に目配せし、お手伝い達が食堂の中から出ていったところで、目の前の娘にまた視線を戻した。


 母親は、娘の顔を見つめた。ハウワーの髪はどうやら、母親譲りであるらしい。


「ね、ねぇ、ハウワー」


「なに?」


 母親は、その声に震えた。その声があまりに乾いていたからである。


「い、いや、別にね? ただ、ちょっと」


「なに?」


「気になる事があって。ハウワー」


「なに?」


「なにか嫌な事でもあったの?」


 今度は、ハウワーの顔が強ばった。母親にとっては当然の疑問を訊いたつもりだったが、ハウワーにとっては「それ」が拷問のように思えたからだ。ハウワーは皿の上にナイフとフォークを置くと、不機嫌な顔で母親の目を見かえした。


「どうして?」


「あ、うん。今日はその……うん、いつもと違う感じだから。ちょっと気になっちゃってね?」


 父親も、その言葉に続いた。


「お茶会の友達と何かあったのか?」


 二人は不安な顔で、娘の目を見つづけた。


 ハウワーは、二人の視線に首を振った。


「別に。アタシの友達は、関係ないよ?」


「そ、そう。なら、良いんだけど」


 そうはいったが、娘の態度がやはり気になるらしい。彼女は朝食のパンを一口だけかじると、皿の上にそれをおいて、娘の顔をまたじっと見はじめた。


「ハ、ハウワー?」


「なに?」


「今日もその、友達のお茶会に誘われているの?」


 ハウワーは、その質問に首を振った。


「今日は、呼ばれていない。友達の一人が来られないらしくてね、『今日は、お休み』って事になったの?」


「ふ、ふうん、そうなんだ。それじゃ、今日は?」


「もちろん、でかけるよ? 屋敷の中にいたら……うんう、その方が気持ちいいし。今日は、天気もいいみたいだしね? 町の中を歩くには、ちょうどいい天気だから」


「そ、そう。それなら」


「ん?」


「い、いえ、何でもない。町の中には危ない人もたくさんいるから、充分に気をつけるのよ?」


「分かっている。そういう人と会ったら、すぐに逃げるから。アタシだって、自分の命は惜しいしね」


「う、うん。なら、いいんだけど」


 母親は彼女の「ごちそうさま」を聞いた後も、不安な顔で彼女が座っていた椅子を眺めつづけた。


 ハウワーは自分の部屋に戻って、服のポケットに必要な物を突っ込んだ。お気に入りの財布と、護身用のナイフをすぐに仕舞い入れて、部屋の中からサッと飛びだしたのである。彼女は家のお手伝い達に「どこへ行く」とも「何時に帰る」ともいわず、ただ「お昼はいらない」とだけいっては、玄関の中から出て、家の敷地を突きすすみ、敷地の外へと出てしまった。敷地の外は、人の姿で溢れていた。背広姿の男性から、商人風の女性まで。彼女の前を何度も行き交っては、町の道路を鮮やかに彩っていた。


 ハウワーはその光景をしばらく眺めていたが、頭の中にまたぐるぐると回りはじめると、そこから逃げだしたい一心で、町の中をフラフラしながら歩きだした。町の中もやはり、人の姿で溢れていた。昼間の世界を表すかのように、夜の店はすっかり閉まっていて、市場の方から聞こえてくる音や、車道を走っている駅馬車の音などが溢れている。それならの中には、取引相手と言いあらそう商人の声も混ざっていた。


 ハウワーは、それらの声を無視しつづけた。それらの声を聞いたところで、今の苛立ちが無くなるわけではない。それどころか、ますます酷くなってしまう。若い恋人同士の会話は、あの光景を思いださせてしまうし、仲睦まじい夫婦の声は、自分の笑い声になってしまうからだ。それらの記憶は、どうしても思いだしたくない。町のメインストリートから逸れて、少々薄暗い路地裏に入ったのも、その思いからきた衝動だった。


 ハウワーは路地裏の排水溝から出てきた小動物には驚いたものの、それ以外の反応はまったく見せず、路地裏から町のメインストリートにまた戻った時も、ふと思いついた方法を使って、余計な声はできるだけ聞かず、聞きたくない会話もうまく聞きながして、町の道路という道路、建物という建物の前をつぎつぎと通りすぎていった。


「はあ」


 溜息が重く感じたのは決して、気のせいではないだろう。彼女の心は今、それだけ疲れているのだ。自分自身の葛藤にもう、疲れきっているのである。彼女はその疲労感を覚えたまま、憂鬱な顔で町の道路を歩きつづけた。そんな彼女の足が止まったのは、町の空が夕暮れに染まりはじめた頃、ある道路の角で少女、とぶつかってしまった時だった。


 ハウワーは、その衝撃に悲鳴をあげた。セーレの方も、彼女に「ご、ごめんなさい!」と謝った。二人は気まずそうな顔で、互いの顔をおそるおそる見あった。


「そ、その、アタシの方も」


 ごめんなさい。そういいかけたハウワーだったが、ある少女が彼女の前に現れた瞬間、今の状況を「あっ!」と忘れて、その少女に思わず驚いてしまった。


 ハウワーは、少女の笑顔に震えあがった。


「レ、レーンさん」


 カノンは、その動揺を無視した。


「ふふふ、また会ったわね? 今日は、お友達と一緒だったんだ?」


 ハウワーは、その言葉に目を見開いた。彼女はどうやら、この見知らぬ少女を自分の友達と思っているらしい。


「ち、違う! 彼女はその、友達じゃない」


「友達じゃない?」


「う、うん。彼女とはさっき、たまたまぶつかっただけで」


「ふうん、そう」


 カノンは、セーレの顔に視線を移した。セーレは今の状況が分かっていないのか、二人の顔をチラチラと見ていた。


「ねぇ、貴女」


「は、はい! な、なんですか?」


 カノンは「クスッ」と笑って、彼女の前に歩みよった。その表情から察して、彼女の容姿に好感を覚えたようである。


「名前は、なんていうの?」


 セーレは、その質問に戸惑った。質問の内容は至って普通だったが、目の前の彼女があまりに美しかった事と、その衣服がとても麗しかった事に思わず驚いてしまったらしい。


「セ、セーレ・バルといいます。あ、あなたは?」


「ワタシは、カノン・レーン。貴女も聞いた事はあると思うけど、レーン家の一人娘よ?」


「レーン家の一人娘!」


 セーレは、その声に思わず飛び上がってしまった。


「レーン家といえば、町でも有名な貴族様じゃないですか! お金もたくさん持っている」


「たくさんって程でもないけれど。まあ、それなりにはあるかもね? 貴女は」


「は、はい?」


「失礼かもしれないけど。もしかして、浮浪者?」


 セーレは、その質問に暗くなった。特に「浮浪者」という部分には、彼女の元々持っていた感情、忘れかけていた劣等感を思いださせたようで、ハウワーが「大丈夫?」と話しかけてきた時にはもう、あの憎しみをすっかり思いだしていた。


「そうですけど? それがなにか?」


「別に深い意味はないわ。貴女の事を見くだす気持ちも。今の質問は、純粋な好奇心」


「そう、ですか。なら」


「待って」


 カノンは、セーレの手を握った。


「貴女も一緒に行かない?」


「え?」


 どこに? と、セーレはいった。


「これから」



「か、快楽屋! そんなところに」


「ダメだよ!」と叫んだのは、彼女の腕を掴んだハウワーである。「そんなところに行っちゃ!」


 ハウワーは、自分のところに彼女を引きよせた。


「ごめんね、乱暴に引っぱって。アタシは、ハウワー・ダナリ。名前の力は弱いけど、これでも町の貴族だよ」


「町の、貴族」


「そう! セーレさん」


「はい?」


「あなたはもう、帰った方がいい。空も、ほら? 暗くなってきたから。家の両親もきっと、心配している」


「わたしに親はいません」


「え?」



 ハウワーの手から力が抜けたのは、カノンが彼女に笑いかけたのとほぼ同時だった。たぶん、今の言葉が相当に衝撃だったのだろう。ハウワーの方は彼女を呆然と眺めていたが、カノンの方はそれに「そう」と微笑んでいた。「それは、大変だったわね? ワタシの親はまだ、大丈夫だけど。それでも」

 

 カノンは、彼女の手を放した。


「貴女の気持ちは、何となく分かるわ」


 分かるわけない! そう叫びかけたセーレだったが、彼女の笑顔に妙な安心感を覚えたらしく、彼女に「そうですか」とはかえしたが、その言葉自体を否めようとはしなかった。


 セーレは悔しげな顔で、自分の足下に目を落とした。


「ありがとうございます」


「いえ」


 カノンは、町の空を見あげた。


「セーレさん」


「は、はい?」


「何か悩んでいるの?」


「え?」


 どうして? と、セーレはいった。


「そう思うんですか?」


「ただ何となく。貴女にはこう、そういう悩みがありそうだから。ワタシの勘違いかもしれないけれどね?」


 セーレはその言葉に目を見開いたが、やがて「は、はい!」とうなずきはじめた。


「あります! 本当は、誰にも聞かれたくなったけど。でも、あなたなら、あなたになら!」


「いえる?」


「はい」


「そう。それで一体、何に悩んでいるの?」


「それは……」

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