第15話 快楽屋へ
「何でも屋の人に誘われている?」
「は、はい、『俺の店で働かないか?』って。店の地図も、ほら? その人からもう、もらっているし。あの人は……なにを思ったのかは分かりませんが、わたしの事をきに気にかけてくれたらしくって。わたしの人生は、わたしの行動と気持ち次第で」
「『いくらでもやりなおせる』と?」
「はい。その人もたぶん、『たくさんの辛い事を乗りこえてきたんだ』と思いますが。わたしには、それを決める覚悟がないんです。『本当にそれでいいのかな?』って。このまま行けば、確かに大変で、今までとなにも変わらないのは分かっているんですが。それでも」
セーレは右手で、頬の汚れを拭った。
「怖いんです! 『何でも屋』っていったら」
「まあ、普通の仕事ではないわね? 仕事の内容によっては、酷い目にあうかもしれない。女性の
「う、うううっ。だから!」
「迷っているのね?」
「はい……」
セーレは暗い顔で、両手の拳を握った。
「自分がもし、何でも屋で働いたら。わたしも、自分の母親と同じになってしまう。わたしの人生を無茶苦茶にした、商売女と。ろくでもない男と結ばれた、元娼婦の女と。わたしは自分の操が奪われるよりも、そういう自分になる事の方が嫌なんです。嫌らしい商売女になる事が」
カノンは、その言葉に眉を寄せた。それを聞いていたハウワーも、同じような顔で「う、ううう」と唸っている。二人はそれぞれの反応こそ同じだったものの、一方は「それでも」とかえし、もう一方は「やっぱり」といって、彼女に自分の思いを見せていた。
ハウワーは、彼女の肩に手を乗せた。
「断った方がいいんじゃない? そういう誘いは、あとあとの事を考えても」
セーレは、その言葉を否めなかった。その言葉は決して、間違っていない。正に正論そのモノである。普通の倫理観や道徳観を持っている人ならば、当たり前に出てくる言葉だ。「危険な誘いには、乗らない方がいい」と。それをいった人物が貴族なのは
「くっ、うううっ」
セーレはまた、自分の未来に迷ってしまった。
カノンは、その迷いに首を振った。
「危険のない幸せなんてないわ」
セーレは、その言葉に眉をあげた。その言葉があまりに衝撃だったからである。
「え?」
「『幸せ』っていうのは、一種の博打よ? ワタシはもちろん、誰にもその結果が分からない。『成功』か『失敗』しかない博打。だから、みんな必死になる。『その成功を掴みたい』と思ってね、自分のすべてを賭けるの。当たるかどうかも分からない、大博打にね? ワタシ達は、そうやって生きている。親の勝手で浮浪者にされた貴女も、そして、ダナリ家の血を継いだ彼女も。見えない明日に不安を抱えて、その道を一歩ずつ歩いている」
「レ、レーン様も」
「カノンでいいわ」
「カノン様も、わたし達と同じなんですか?」
「そうよ? ワタシも自分の人生を賭けて、彼の店に通っている。世間の人々が嫌っている快楽屋に、今日もこうして行こうとしているの。安全な場所で幸せを得ようとするのは、幸せに対する冒涜だからね?」
「幸せに対する、冒涜」
カノンは「クスッ」と笑って、その言葉にうなずいた。
「百聞は一見にしかず。貴女の不安も分からないわけではないけれど。自分の目で確かめなければ、それが自分にとって幸せかどうかは分からないわ」
セーレはその言葉に揺れうごいたが、ハウワーがそれを許さなかった。
ハウワーは彼女の手を掴むと、真剣な顔で自分の方に彼女を振りむかせた。
「そんなところに行っても、絶対に幸せになんかなれない! セーレさん」
「は、はい?」
「あなたは、アタシのところで雇うから」
セーレは、その言葉に瞬いた。
「あたしのところで雇う? それは」
願ってもない事だった。貴族の家に雇われれば、今よりもずっといい暮らしができる。毎日の食事にも困らなくなるし、衣服の悩みからも解きはなたれる。自分の境遇にさいなまれる事も。だが、なぜだろう? 彼女から差しのべられた手が、まるで嘲りのように思えてしまった。「お前は所詮、かわいそうな浮浪者だ」と、そう笑われているように思えてしまったのである。
「くっ!」
セーレは悔しげな顔で、彼女の手を払った。
「わたしは」
「え?」
「娼婦の母親も、嫌いだけど。貴族の家で働くのも、それ以上に嫌いなの! 自分がみじめになるから。あなただって! 今は、地味な服を着ているけど。お呼ばれの時には、素敵なドレスを着るんでしょう? わたしみたいな人間をあざ笑ってさ! わたしの事を助けようとしたのも、あなたの優越感なんでしょう?」
「ち、ちがっ、そんな事」
ない。そういったハウワーだったが、セーレにはどうやら通じなかったようだ。セーレはもう、彼女の言葉には耳を傾けない。ハウワーがどんなに叫んでも、「あなたの言葉はもう、聞きたくない」という態度だった。
ハウワーは暗い顔で、その態度に俯いた。
セーレは、カノンの目を見つめた。
「カノン様、そのお店にわたしも連れていってください! そこの諸々に耐えられれば、わたしも汚い仕事をきっとやれる。自分の母親と同じになるのは、とても癪だけど」
「自分が生きていくためには、仕方ない?」
「……はい、自分がこれからも生きていくためには。だから!」
だから! と、セーレはいった。
「その覚悟を決めるために、わたしもそのお店に行くんです」
「分かったわ。それじゃ、ワタシと一緒に快楽屋へ。ダナリさんも一緒に行く?」
ハウワーは、その誘いに赤くなった。その誘いはどう考えても、彼女の戯れである。
「い、行くわけがないでしょう! アタシが、そ、そんな店に」
「そう。なら、行きましょう。バルさん」
「は、はい!」
カノンは彼女の足を促し、セーレもその促しに従った。二人はカノンを先頭にしつつ、彼女の案内で、ヨハンの快楽屋に向かった。ヨハンの快楽屋は、いつもと同じ場所に建っていた。それと同じような店がひしめき合う、夜の町の一角に。店の周りにも、それらしい人々が溢れていた。
セーレはその光景に震えたが、カノンから「大丈夫よ?」といわれた事で、必要以上に怯える事はなかった。
「は、はい!」
「ふふふ」
カノンは店の玄関に視線を移して、その扉をゆっくりと叩きはじめた。扉の表面を一回、二回、三回と。その音を「クスッ」と楽しんでは、店の扉が開かれるのを待った。店の扉が開かれたのは、カノンが五回目を叩こうとした時だった。
カノンは、目の前の少年に微笑んだ。目の前の少年も、それに「ふふっ」と微笑みかえした。二人は互いの顔をしばらく見あったが、ヨハンが本来の仕事を思いだしたようで、彼から先に口元の笑みを消しあった。
「いらっしゃい。今夜は、少し遅かったね?」
「ごめんなさい」
カノンは、自分の後ろを振りかえった。
「彼女と少し話していたから。本当は、もっと早くに行くつもりだったけれど」
ヨハンも、彼女の後ろに目をやった。彼女の後ろには、自分と同じくらい少女が立っている。
「そうなんだ」
ヨハンは優しげな顔で、その少女に微笑んだ。
セーレは、その顔に赤くなった。その顔があまりに美しすぎて、胸の鼓動が思わず高まってしまったからである。彼女は人生で初めての感情、不可思議な興奮に胸がときめいてしまった。
「こ、こんばんは」
「こんばんは。僕は、ヨハン・ロジクといいます。君の名前は?」
「わたしは! わたしの名前は、セーレ・バルといいます」
「バルさんか。うん、いい名前だね」
セーレはまた、彼の言葉に赤くなった。彼の言葉は、あまりに温かすぎる。
「そ、そう、かな?」
「うん、とても。『セーレ』って名前も、凄く綺麗だよ」
「き、綺麗!」
彼女の顔から蒸気が立ちのぼったのは、いうまでもない。セーレはその蒸気を隠せないまま、恥ずかしげな顔で「う、ううう」と俯いてしまった。
「そ、そんな事」
ヨハンは「クスッ」と笑って、その言葉に首を振った。
「あるよ。今日は、店のお客様として?」
カノンは、その言葉に首を振った。
「うんう、彼女は見学。お客様は、ワタシだけ」
「そう、か。なるほど」
ヨハンは何かを察したのか、それ以上は何も訊かなかった。店の中に二人を導いて、椅子の上に二人を座らせた時も、二人の前に紅茶を運んだ時に「クスッ」と笑っただけで、テーブルの前から歩きだした時は、二人の方をまったく振りむかず、仕事の準備に取りかかってしまった。彼は慣れた手つきで、オイルの具合を確かめはじめた。
セーレは、店の中をおそるおそる見わたした。
「不思議なお店、ですね? お店の中もそうですけど、『その雰囲気もなぜか癒やされる』というか。とにかく不思議な感じです」
「そうね。ワタシも最初に入った時は、そう思ったわ。『ここは、普通の店とは違う』ってね。男性の快楽だけを考える店とは」
「は、はい」
セーレは店の寝台をしばらく見ていたが、紅茶の香りにふと気づくと、その香りにつられて、カップの紅茶をゆっくりと飲みはじめてしまった。紅茶の味は、とても美味しかった。どんな種類の茶葉を使っているのかは分からないが、それを飲んだ瞬間に「あっ!」と驚いてしまったのである。こんなに美味しい紅茶がまさか、この世の中にあるなんて。
「信じられない」
セーレは、紅茶の味にしばらく瞬きつづけた。
カノンは、その反応に微笑んだ。
「そうでしょう?」
「はい、本当に最高です! 自分の身体が生きかえるみたいで!」
「奉仕の後には、もっと生きかえるわよ?」
「え?」
奉仕? と、セーレはいった。
「ここは?」
「ええ、確かにそういう店だけど。ここの仕事は、女性の快楽を満たす事じゃない。女性の快楽に奉仕する、それを生業にしているの」
「女性の快楽に奉仕する」
「それも安全な快楽をね。ワタシは、その精神が気に入っている」
カノンは嬉しそうに笑ったが、ヨハンが自分達のところに戻ってくると、その笑みをさらに深めて、椅子の上からスッと立ちあがった。
「準備が終わったの?」
「うん、いつも通りにね」
「そう」
ヨハンは、寝台の前に彼女を促した。
カノンはそれに従って、セーレもその後に続いた。二人は、寝台の前に向かった。
ヨハンは、寝台の前で止まった。
「さあ、レーンさん」
「ええ」
カノンはセーレの方に振りかえったが、やがて自分の服をゆっくりと脱ぎはじめた。
セーレは、その光景に息を飲んだ。そういう趣味は特になかったが、その光景がもたらす雰囲気、美しい衣がつぎつぎと脱げていく光景に不思議な興奮を覚えてしまったからである。彼女の身体がすべて見えた時も、その透きとおった素肌に思わず震えあがってしまった。
「き、綺麗」
それ以上の言葉が見つからない。
「本当に、とても」
セーレはただ、彼女の身体に見ほれつづけた。
「カノン様」
カノンは、その言葉に微笑んだ。
「駄目よ? 彼の奉仕は、これからなんだから。こんな程度で見ほれちゃ駄目」
ヨハンも、その言葉に微笑んだ。彼は穏やかな顔で、寝台の上に彼女を寝かせた。
「どうする、レーンさん。今日も、いつもと同じ奉仕を?」
「うんう。今日は初心者の人もいるし、刺激の少ない奉仕でいいわ」
「分かった。なら、最初はゆっくりと。だね?」
セーレは、その言葉に胸を高鳴らせた。「これから一体、どんな奉仕が始まるのだろう?」と。彼女は真剣な顔で、目の前の光景をまじまじと見はじめた。
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