第16話 未来への覚悟

 ヨハンはセーレと話ながら、カノンの身体をゆっくりと撫ではじめた。最初は彼女の唇から愛でて、その快楽を静かに高めはじめたのである。


「人間の唇には、多くの神経が集まっていてね? その表面をこうやって撫でると、ほら? 気持ちよくなってしまう。女性の唇は、快楽を得るのに重要な場所だ。意中の相手と口づけする時はもちろん、その相手と愛を語る時も。唇の快楽を軽んじてはならない。そこは、人間が快楽を覚える最初の場所だからね?」


「そ、そうなんだ。唇は、そういう」


「うん。そして、それを満たしたら……。僕の指にオイルを足して、彼女の首筋にそれを移していく。首の神経も敏感だ。そこにも、大きな血管が通っているからね? その分、ほら? レーンさんの反応を見ても分かるだろう? 寝台の端をこんなに掴んで、とても気持ちよさそうじゃないか? 瞳の方も、ふふふ。こんなに『とろん』としている。まるで飼い主に撫でられる子犬のようにね?」


「た、確かに! これは」


「うん。今日はたぶん、君に見られているからだろう。いつも以上に楽しんでいるようだね。今の場所から指を移しても、ほら? 嬉しそうに笑っているでしょう? こいつは、興奮の証拠なんだ。女性はここを触ると……まあ、別にいやらしい部分を触っているわけじゃないけどね? 強い快感が襲ってくる。男の僕じゃ決して味わえない、とても強い快感が」


「と、とても、強い快感!」


「そう、とても強い快感。それを満たしたら、ふふふ。次はいよいよ、今回の主要料理。この店自慢の全身マッサージだ。身体のすべてを丁寧に、かつ、ゆっくりと揉んでいく。その快楽は、本当に最高だ。僕の経験から推しはかる限り、それに悦ばなかった人はいないね。今の彼女を見ても分かるように、ほら? 身もだえながら悦んでいるでしょう? 身体中が震えている」


「そ、そうだね。本当に、これは」


「言葉通りの大喜びだ。普段は、ここまではならないけど。たぶん、君に見られているからだろう。その快楽もまた、最高のところまで達している。『本当に女の子なのか?』って疑いたくなるくらい、今夜の彼女は凄く綺麗だ。普段の彼女も当然に綺麗だけど、今夜はそれ以上に見える。肌の上に浮かんだ汗はもちろん、その汗がオイルと混ざりあう光景もね? 今の声も、本当に美しい」


 ヨハンはセーレと変わらず話ながら、カノンの身体を絶頂へと導いた。


「基本的な流れは、こんな感じかな? 自分の手ひとつで……お手製のオイルも使うけど、お客様の快楽に奉仕する。その技術を覚えるのは、かなり大変だけどね。まあ、慣れれば大丈夫かな? 何か質問は、ある?」


「え? 質問?」


 セーレは胸の興奮を何とか抑えて、ヨハンの目をじっと見かえした。


「と、とくに何も。すごく分かりやすかった」


「そう。なら、良かった」


 ヨハンは「クスッ」と笑って、カノンの方に視線を戻した。カノンは、彼の視線に応えない。どうやら、疲れて眠ってしまったようだ。彼の奉仕があまりに気持ちよすぎて、夢の世界に今日も落ちてしまったようである。


「満たされたようでよかった」


 ヨハンは彼女の身体からオイルを拭きとると、テーブルの椅子までセーレを導いて、その上にまた彼女を座らせた。


 セーレは、彼の目を見つめた。


「ねぇ?」


「ん?」


「どうして?」


 ヨハンは、その続きを何となく察したようだ。


「『こんな商売をしているのか?』って?」


「は、う、うん。普通の男の子なら……その、こういう仕事以外もできそうなのに」


 牛乳配達の仕事とか、炭鉱の仕事とか、と、セーレはいった。


「別にこんな仕事でなくても?」


 ヨハンは、その質問に目を落とした。その質問は、彼にとって少し辛い内容だったらしい。



「そう、だね。確かにいうとおりだ。でも」


「でも?」



「自分の過去に対する償い?」


「うん」


 ヨハンは悲しげに笑っただけで、その内容を話そうとはしなかった。


「僕の母親なんだけどね? 実は、娼婦なんだ」


「しょ、娼婦!」


「うん、正確には、元娼婦だけどね? 母さんは町の娼館で働いていたんだけど……まあ、『運命の出会い』ってヤツかな? 友達の誘いできた父さんに『こ、この人でお願いします』といわれて、つまりは指名を受けたんだよ。父さんとしては、あまり乗り気じゃなかったらしいけどね? そこは仲間同士の付き合いというか、貴族の嗜みとしても断れなかったようだ。父さん自体は、そういう事が嫌いだったようだけど。父さんはお客相手に震える母さんを見て、ある種の勘が働いたらしい。『この人はもしや、本物の娼婦ではないんじゃ』ってね。最初は父さんも固まっていたようだけど、本能の奥でそれを感じてからは、いつも冷静さを取りもどして、母さんに『なにか悩んでいる事があるなら、僕に話してみないか? 力になれるかどうかは分からないけれど、君の事が何となく放っておけなくて』といった」


「そしたら?」


「おおよその察しは、ついていたようだけど。その答えは、案の定だった。母さんは借金のために身売り、それも自分の借金じゃないよ? 親の作った借金を返すために嫌々ながらも売られてしまったんだ。親が勝手に見つけてきた、その娼館にね。母さんは『行きたくない!』と拒んだようだけど、親はそれを許さなかった。それどころか、娼館の人間に『お願いします』とすら言っていた。母さんは娼館の男に連れられて……まあ、そこから先は想像通りだよ。自分の操が奪われた。『』と思っていたそれを、一番あげたくない人間に奪われてしまった。母さんは、自分の人生に望みを絶った。絶望なんて甘い言葉じゃなく、その希望自体を諦めてしまったんだ。『自分はもう、普通の人間には戻れないんだ』ってね。『人間の女性にはもう、戻れないんだ』と、そう思いながら辛い日々を送っていた時に」


「あなたのお父さんと出会った?」


「うん、本当にたまたまね。まるで神様にでも導かれたかのように。母さんは父さんの言葉を受けて、自分の心を解きはなった。いや、『解きはなってしまった』といった方が正しいかもしれない。父さんの優しさに胸を打たれてね、たまりに溜まっていた物を思いきり吐きだしてしまったんだ。母さんは、父さんの前で泣きくずれた。父さんは、その姿に胸を痛めた。『彼女があまりに可愛そうだ』と、そう思いながら母さんの身体を抱きしめて」


「お母さんの身体を味わったの?」


「……いや、まったく。父さんは、母さんの尊厳を守った。母さんの操はもう、奪われていたけれど。その尊厳だけは、絶対に守ろうとした。それまで奪われてしまったら……母さんはもう、人ではなくなってしまうからね。。父さんは、それが嫌だった。嫌だったから、店の主を説きふせた。『彼女の人生を買わせてください!』ってね。『僕が彼女の事を幸せにするから』と。自分の家を巻きこんでは、その店から母さんを救いだしたんだ」


「す、すごいね! 愛する人のためにそんな! そんな事までするなんて」


「うん。父さんは、そういう人だから。恋愛自体には奥手でも、『いざ』って時には突っ走る。良くも悪くも、まっすぐな性格。父さんはとの婚約を破って、元娼婦の母さんと結ばれた。その結婚自体には、反対者も少なくなかったようだけど。父さんの前では、そんな声など無力に等しい。父さんは、母さんとの愛を深めて」


「あなたが生まれたんだね?」

「うん。僕はが起こるまで、その事はまったく知らなかったけど。ロジク家の子どもらしく、相応の生活を送っていた。世間の人達が『貴族の生活とは、こんな感じだろう』っていう生活を、ね。型通りに過ごしていたんだ。でも」


「ある日、それを壊す出来事が起こった?」


「うん。それこそが、僕の犯した罪。無知な自分がしでかした、とりかえしのつかない罪だ。幼馴染の相棒にあんな事を、くっ! 思いだしただけでも、腹が立つ。何もしらなかった自分に、自分のいやらしさに抗えなかった自分に。僕は」


 ヨハンは悲しげな顔で、目の前のセーレに笑いかけた。


「ガッカリしたでしょう?」


「え?」


「僕の諸々をしって。普通の人間だったら」


「そんな事、ない」


 セーレは真剣な顔で、彼の目を見かえした。


「あなたのご両親は、充分に立派な人達だと思います。わたしの親とは、ぜんぜん違う。実の娘を捨てて、その前からいなくなるような親とは。あなたの親は、人間として尊敬できる人達です! 社会の偏見とも逃げずに戦って」


「う、うん。それは」


「そんなに素晴らしいご両親がいるのにどうして? どうして、あなたは」


 こんな事をしているんですか? とセーレはいった。


「自分の母親を苦しめた、人間の性に関わる仕事を? 女性の快楽に奉仕する仕事を?」


「それは」


 ヨハンは店の壁に視線を移して、その壁をじっと眺めはじめた。


「さっきもいったでしょう? 『これは、自分の過去に対する償いだ』って。僕は大事な人を傷つけた代償として、自分の家から追いだされた。いわゆる、『追放』ってヤツだよ。貴族には、『世間に対する体裁』ってモノがあるからね? 自分の家に問題児をいつまでも置いておくわけにはいかない」


「そ、そんな! そんなの理不尽すぎます! 誰にでも間違いはあるのに、たった一回の間違いだけで」


「それを許さない……いや、許すわけにはいかないのが貴族なんだ。それの関係者がどう思っていようともね、罪人をそのままにして置くわけにはいかない。私刑は、貴族だけの特権だから。僕はその特権に裁かれて、自分の家から出ていく事になった」


「出ていった後は、どうなったんですか?」


 ヨハンは、その質問に眉を寄せた。どうやら、あまり答えたくない質問らしい。


「それはもう、苦労の連続だよ。文字通りのサバイバル。その毎日が、死ぬか生きるかの勝負だった」


 セーレは、その言葉に胸を打たれた。「彼もまた、自分と同じ人間なのだ」と、そう内心で思ってしまったのである。「彼に感じる不思議な好意は、ここからきているのかもしれない」と。彼女は切なげな顔で、彼の目をまた見つめた。


「それの行きついた先が、このお店だったんですね?」


「うん、どういう因果かは分からないけど。僕はある日、ふと思ったんだ。『性が原因で生まれた罪なら、性と向きあって償うしかない』と。『そうする事でしか、この罪は清められないだろう』と。だから、色んな人の力を借りて」


「このお店を作った?」


「うん」


「そっか」


 セーレは自分の足下に目を落としたが、やがて床の上をじっと見つめはじめた。


「ねぇ?」


「うん?」


「あなたはこの仕事に、快楽屋の仕事に誇りを持っている?」


 彼の答えは、「もちろん」だった。


「世間の人達がどう思っていようとね? 僕は、この仕事に誇りを持っている。女性に安全な快楽を与える仕事に」


「そ、そっか」


「うん」


「実は、ね!」


 セーレは胸の動揺を何とか抑えつつ、真剣な顔で彼の目を見つめた。


「わたし、何でも屋の人に誘われているの。『うちの店で働かないか?』って」


「ふうん。それは……なるほど、だから」


「え?」


「この店に来たんだね? その覚悟を決めるために」


「うん。『こういう店をしれば、自分の未来も分かるかもしれない』って思ったから。あなたには、不快かもしれないけど」


「いや。それで、その覚悟は決まったの?」


 セーレは、その質問にしばらく答えられなかった。自分の中にまだ、迷いが残っていたからである。


「分からない。でも、『やっぱり嫌だな』とは思った」


「どうして?」


「そこで働いてもたぶん、自分の仕事に誇りを持てないから。わたしはきっと、まともな人生を……いや、『まともな人間になりたいんだ』と思う。自分の人生に屈しないくらいの」


「そうか。ならさ」


「うん?」


「僕の店で働いてみない?」


 ヨハンは「クスッ」と笑って、彼女の目を見かえした。

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