第17話 快楽屋の助手

 それがあまりに衝撃……いや、衝撃なんて言葉では足りない。衝撃すらも忘れてしまうほどの仰天だったのか、最初は彼の誘いに「ポカン」としていただけだったのに、次の瞬間にはもう「えっ、えぇえええ!」と驚いて、相手の目を何度も見かえしてしまった。

 

 セーレは胸の動機を抑えつつ、マヌケな顔で椅子の上にまた座りなおした。


「わ、わたしが、この店で働く? あなたの」


「うん、何でも屋で働くのが嫌ならね? 僕は、文字通りの歓迎だよ? 女性を相手にする商売だから、その助手も」


「お、女の子の方がいい?」


「うん。お客様の中には、男の僕に怯えてしまう方もいらっしゃるからね? 異性に自分の裸を見られるのはやっぱり、抵抗がある。『気持ちよくなりたい』という気持ちよりも、『恥ずかしい』という気持ちの方が勝ってしまうんだ。そんな状態では、せっかくの気持ちよさが損なわれてしまう。僕はね、お客様にはやっぱり喜んで欲しいんだよ。社会の偏見や、周りの目を気にするせいで、自分の心を解きはなてない、ずっと苦しんでいる人達の事を。僕は」


 ヨハンはテーブルの上に手を乗せて、その表面をじっと見おろした。


「君には、その手伝いをしてほしい。君のできる範囲で、君だからできる事を」



「わたしだからできる事、を」


「うん」


 ヨハンは「クスッ」と笑って、彼女の目に視線を移した。


「雑用は、嫌い?」


 彼女の事は、「嫌いじゃない」だった。


「鉄橋の上で物乞いするよりは、ずっと。そういう地味な仕事は、結構好きだから」


「そっか。なら、問題ないね? 君には、店の雑用を任せたいと思っている。床の掃除とか、消耗品の買い出しとかね」


 もちろん、と、ヨハンはいった。


「それなりの額は、出すよ? 店の仕事を手伝ってもらう以上は、それに見あった給料を出す。は」


 セーレは、その言葉に迷った。彼の店で雇ってもらえればきっと、今よりもずっと人間らしい暮らしができるだろう。鉄橋の上で物乞いをする事はもちろん、ラルフの何でも屋で働く事もなく、今よりもマシな、もっと女の子らしい生活が送れるに違いない。馬車の窓からチラッと見えたお嬢様に苛立つ事もなく……そう考えたら、この誘いは彼女とって願ってもない事だった。ここで彼の誘いを断ればたぶん、自分はもう二度と助からない。今の生活から逃げだす事も……だったら、この幸運に賭けてみよう。彼から差しのべられた手に手を伸ばしてみよう。彼はきっと、その手を握りかえしてくれるはずだ。


 セーレは真剣な顔で、相手の目を見かえした。


「ヨハンさん!」


「うん?」


「お願いします」


 セーレは、目の前の少年に頭を下げた。


「精いっぱい頑張りますから。わたしの事を雇ってください! この店の雑用係として」


 ヨハンは、その言葉に微笑んだ。その言葉が本当に嬉しかったらしい。


「ありがとう、バルさん。こちらこそ、よろしくお願いします」


「はい!」


 セーレは嬉しそうに笑い、ヨハンも同じように笑った。二人は穏やかな顔で、互いの顔をしばらく見つづけた。


 セーレは、ヨハンに例の地図を見せた。その地図にはもちろん、何でも屋の場所が記されている。


「『ラルフ』という人から、この地図を渡されて」


さんに?」


「は、はい! あ、あの?」


 セーレは真剣な顔で、彼の顔に視線を移した。


「ラルフさんの事、しっているんですか?」


「うん。あの人は、僕の恩人だからね。しっていて当然だよ。あの人がいたから、今の僕がいるんだからね」


「そ、そんなに凄い人なんですか?」


「うん、本当に凄い人だ」


 ヨハンは「ニコッ」と笑って、地図の印に視線を移した。


「ラルフさんとは、どこで出会ったの?」


「ま、町の公園で。理由の方はよく分かりませんが、わたしに話しかけてきたんです。『自分は、人探しの専門家だ』って」


「ふうん、そっか。なるほど。それは、ラルフさんらしいね」


「そうなんですか?」


「君のような人を放っておけない。ラルフさんは、とてもいい人だよ? 見かけの方は、ちょっと怖いけどね。その根は、とても温かい人だ」


 セーレは、その言葉に思わず唸ってしまった。確かにそうかもしれないが、あの強面にはどうしても震えてしまう。自分の目をじっと見つめてくる眼差しにも、思わず怯えずにはいられなかった。


「人はその、見かけにはよらないんですね? 普通の人なら怖がってもおかしくないのに」


「その本質は、とても美しい。人間にはね、いろいろな面があるんだ。ある角度から見ればよく見えるそれも、別の角度から見れば悪く見える。。一つの角度だけ見ていたら、その本質は決して見えてこない」


「あなたには、その本質が見えているの?」


 ヨハンは、その質問に答えなかった。その答えはどうやら、彼自身も出せなかったらしい。


「ラルフさんへの返事だけど。断りの知らせは、僕も一緒にいかせてもらうよ」


「ほ、本当に! あなたも、一緒について行ってくれるの?」


「もちろん。女の子一人だけでいくのは、やっぱり心細いと思うからね。君は、そういうところに慣れていないようだから。一人でしらない店にいくよりも、それをしっている人と一緒にいった方がいいでしょう?」


 セーレは、その言葉に何度もうなずいた。彼の心づかいが本当に嬉しかったからである。


「う、うん! それは」


 もちろん! と、彼女はいった。


「あなたが一緒にいってくれるなら、なにも怖くない。ラルフさんの店にいくのも」


「そう。なら」


 セーレはその続きをさえぎって、彼にまた頭を下げた。


「ヨ、ヨハンくんだっけ? 今日はその、初めて会ったのに。こんな」


 ヨハンは、その言葉に首を振った。


「他人には思えなかったら、君の事。同じ娼婦の母を持つ者として」


「そ、そっか」


 セーレは恥ずかしげに笑い、ヨハンもそれに笑いかえした。二人はカノンが眠っている横で、互いの顔をしばらく見つづけた。


 ヨハンは、口元の笑みを消した。


「お誘いの断りは、明日に行くとして。今日は、この店に泊まっていきなよ?」


「え?」


 い、いいんですか? と、セーレはいった。


「わたしなんかが、その」


「もちろんだよ。君はこれから、この店で働くんだから。なにも遠慮する事はない。この店で働いてくれる以上は、僕としてもそれなりの待遇を」


「そ、それなりの待遇?」


「うん。例えば、住みこみ用の部屋とか、君の生活に必要なお金とか。住みこみ用の部屋は、店の二階にある。本当は来客用の部屋だったんだけど、この店にはそういうお客様がほとんどいらっしゃらないからね。今は、文字通りの空き部屋になっているんだ。部屋の中には、必要な家具もそろっている。家具の種類は、そんなに多くないけど」


 ヨハンは、その続きを飲みこんだ。彼がそれを話そうとした瞬間、セーレがその言葉に「う、ううう」と泣きだしてしまったからである。


「バ、バルさん?」


 セーレはヨハンからそういわれても、その言葉にしばらく応えられなかった。


「う、うれしい」


「え?」


「こんなわたしのために。そこまで」


 ヨハンは、その言葉に首を振った。「自分はただ、自分のできる事をしているだけだ」と。口では何もいわなかったが、彼女に「クスッ」と笑いかけた顔からは、その思いがしっかりと感じられた。


「自分がもし、君と同じ境遇だったら。たぶん、『そうしてもらいたい』と思う。『普通の人間らしく扱ってほしい』ってね? 僕はただ、その想像に従っただけだ」


「それでも!」


 セーレは両目の涙を拭って、彼の身体にそっと抱きついた。


「わたしは、うれしい。あなたは、わたしの事を」


「バルさん」


「ヨハンく、うんう、ヨハンさん! あなたは、わたしの恩人です。辛い世界からわたしを救いだしてくれた。あなたは、わたしの神様です!」


「か、神様だなんて。それは」


 いいすぎだよ? と、ヨハンはいった。


「僕は、普通の人間。君と同じ、生身の身体を持つ人間だ。それ以上も、それ以下でもない。ただの」


「うん」


 セーレがヨハンの目を見つめたのは、ヨハンが彼女の目を見つめたからかもしれない。二人はカノンがその目を覚ました後も、真剣な顔で互いの目を見つめつづけた。


 ヨハンは、カノンの顔に視線を移した。どうやら、彼女の気配に気づいたらしい。


「おはよう」


「おはよう」


 カノンは自分の胸も隠さないまま、満足げな顔で寝台の上から上半身を起こした。


「何だかいい雰囲気ね? 彼女と何か話していたの?」


「ちょっとね、彼女の事にお願いしていたんだ。『この店で働いてほしい』って」


 カノンは、その言葉に目を見開いた。その言葉は、彼女にとってかなりの衝撃だったようである。


「ふうん、そう。それは、凄く」


「凄く?」



「そう、かな?」


「ええ、本当に貴方らしい。そういう子を放っておけないところは」


 ヨハンはその言葉に瞬いたが、それが意味するところは結局分からなかったらしく、彼女が自分の服をまた着て、自分に今日の料金を払った時はもちろん、セーレに「レーンさんの事を送ってくるから、店の中で待っていて」といった時も、彼女と連れだって店の中から出ていった時以外は、不思議な顔で彼女の隣を歩きつづけた。

 セーレは、その余韻に不安を覚えた。


「レーン様はきっと」


 いや、絶対に……。



 そうつぶやいた彼女だったが、ヨハンが自分のところに戻ってきた事で、その不安自体は残っていても、それを口に出す事はできなかった。それを口に出してしまったらたぶん、なにか恐ろしい事になってしまう。二人の関係を壊すような、そんな恐ろしい事態に。二人は「店主」と「お客」の関係でこそあるが、セーレが察する限りでは(実際は、そうではないが)、普通の利害関係ではない、「なにか特別な関係にある」と思えた。そうでなければ、ここにわざわざ連れてこないだろう。カノンが自分に見せた厚意は、「自分に対する厚意」というよりも、、そこから生じる信頼のように思えた。


「うらやましい」


 セーレは複雑な感情、「ねたみ」と「苦しみ」とが混じった感覚を覚えた。


「わたしは」


 ヨハンは、その続きをさえぎった。彼女が自分の嫉妬心に悶々としている間、二人分の夕食を作りおえたからである。彼はテーブルの上にそれらを運んで、その椅子に「さあ、座って」と導いた。


「冷めないうちに。今日の夕食は、ちょっと豪華にしたんだ」


「え? そんな! わざわざ、その……ありがとう」


 セーレは椅子の上に座って、今日の夕食を見わたした。今日の夕食は、確かに豪華だった。夕食の内容は微妙に分からないものの、スープの表面から上る湯気は温かく、皿の魚料理もとても美味しそうに見えた。こんなに美味しそうな料理は、今まで見た事がない。


 セーレはその料理をまじまじと見てしまったが、やがてあまりのうれしさに「うわん」と泣きだしてしまった。


「生きていてよかった!」


 ヨハンは「クスッ」と笑って、その言葉にうなずいた。


「冷めないうちにどうぞ?」


「は、はい! いただきます!」


 セーレは、今日の夕食をむさぼった。自分が年頃の少女である事も忘れて、美少年の前で堂々と、目の前の夕食を平らげてしまったのである。彼女は今日の夕食を食べおえた後も、満足げな顔で椅子の上に座りつづけてしまった。


「おいしかった」


「そう。それは、よかった」


 ヨハンは「ニコッ」と笑って、テーブルの食器類を片づけた。


「お風呂は、店の奥にあるから。今日の夜は、ゆっくり休むといい。明日の朝ご飯も、僕が作るから。それを食べおえたら、ラルフさんの店にいこう」


「は、はい! よろしくお願いします!」


 セーレは、自分の明日に心を躍らせた。


 明日の天気は晴れだったが、気持ちの方はどうも晴れなかった。ヨハンが付きそってくれるとはいえ、やはり怖いものは怖い。どうしても、「う、ううう」と震えてしまう。ラルフの店に着いた時も、ヨハンが店の扉を叩かなければ、そこから出てきた若い女性にはもちろん、その後から出てきたラルフにも「お、おはようございます」といえなかっただろう。相手の視線を「あ、うううっ」と見かえすには。


 セーレは不安な顔で、相手の顔を見つづけた。


 ラルフは、その目から視線を逸らした。ヨハンの顔に視線を移すためである。


「久しぶりだな、坊主」


「お久しぶりです、ラルフさん。お店の方は、上々ですか?」


「まあまあかな? それなりには、儲けているよ?」


「そうですか。それは」


「坊主」


 ラルフは鋭い目で、彼の顔を睨んだ。


「要件は、なんだ? そこのを連れて、わざわざ挨拶しにきたわけじゃねぇだろう?」


「はい」


 ヨハンは真剣な顔で、相手の目を見かえした。


「実は……」

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