第18話 自分の人生は、自分で決める

「実は……」


「……なるほど。そいつは、確かに運命だな。町の公園で話しかけたお嬢さんがまさか、お前の店で働く事になるなんて。正に『事実は、小説よりも奇なり』だよ」


「僕も、そう思います。最初は無関係だった線が、そんなところで結びつくなんて。普通なら決して思わない。どんなに聡明な人間であっても。僕達には、僕達の想像を超えた世界があるようですね?」


「まったく」


 ラルフは店の壁に寄りかかりつつ、無愛想な態度でセーレの顔に視線を移した。セーレは店の雰囲気に落ちつかないのか、表情の方は落ちついていたが、態度の方は妙にそわそわしていた。彼はその態度に眉を寄せつつ、店の壁に寄りかかって、彼女に「お嬢さん」と話しかけた。


「お嬢さんの気持ちは分かるが、そんなに怯えなくていい。ここには、お前さんを脅かす奴はいねぇからな」


 セーレは、その言葉になかなかうなずけなかった。言葉の意味自体は分かっても、それを「彼の心づかい」として受けとめるまでに時間がかかってしまったからである。ようやく「は、はい」とうなずけた時にも、従業員達の「かわいい」に照れてしまい、彼の目から視線を思わず逸らしてしまった。


「は、はい。その、ありがとうございます」


「いや」


 ラルフは彼女の顔から視線を逸らしたが、数秒後にはまた、彼女の顔に視線を戻した。


「お嬢さん」


「は、はい!」


「坊主の店で、本当に働きたいのか?」


 セーレは、その質問に心が引きしまった。それこそ、今までの緊張が嘘のように。あらゆる不安がすっかり吹きとんでしまったのである。


「はい! ラルフさんの店が、嫌なわけじゃありませんけど。わたしは……わたしの母親とは、同じになりたくない。平気で自分の娘を捨てるような人間には。わたしは、毎日の食べ物を得るためだけじゃない。自分の仕事に誇りを持ちたいんです! その仕事がたとえ、お店の雑用であっても。わたしは、自分の仕事を一生懸命にがんばりたい」


 ラルフはその言葉に目を細めたが、やがて「そうか」と笑いだした。どうやら、彼女の言葉がうれしかったらしい。


をした子だったが。そういう事なら仕方ない。俺は、お嬢さんの気持ちを尊重する」


「ラルフさん」


「お嬢さん」


 ラルフは彼女の前に歩みよって、その頭を荒っぽく撫でた。


「頑張れよ」


「はい!」


 セーレは、目の前の青年に頭を下げた。


「ありがとうございます!」


「いや」


 ラルフは彼女の頭から手をのけて、ヨハンの顔に視線を移した。


「朝飯はもう、食ったのか?」


「はい。もう」


「そうか」


 ラルフはまた、セーレの顔に視線を戻した。


「お嬢さん」


「は、はい!」


「うちの店には、腕のいい料理人がいてね。俺にいつも美味い飯を食わせてくれる」


「そう、なんですか」


「ああ。だからお嬢さんも、食べたくなったらいつでもきなさい」


「は、はい!」


 セーレは嬉しそうな顔で、目の前の男にまた頭を下げた。


「ありがとうございます!」


 ヨハンも、その言葉に「ありがとうございます、ラルフさん」と続いた。ヨハンは自分の頭を上げると、彼女の肩に手を置いて、その足をそっと促した。「これ以上の長居は、ラウルに迷惑がかかる」と思ったようである。


「行こうか?」


「うん」


 セーレはヨハンの後に続いて、ラルフの前から歩きだした。


 ラルフは、彼女の背中を見送った。「その背中に未練はなかった」といったら嘘になってしまうが、ヨハンに続いて店の中から出ていったそれは、自分の過去から何とか羽ばたこうとする、一羽の鳥に思えたようだ。温かな世界へと飛びたつ、一羽の鳥のように。暗い人生から抜けだそうとする、一人の挑戦者のように。あらゆる闇を照らそうとする、希望の光に思えたようである。


「『救いの手が飛ばされたから』といって、自分の苦しみが完全に無くなるわけゃねぇが。お嬢さん……お前さんの人生にはきっと、あったかい光が差しこむ。今までの苦しみが嘘みてぇに思える光がきっと、目の前のふっと現れるんだ。俺は、そう信じている。俺の人生がそうであったように。お嬢さんの人生も」


 ラルフは「フッ」と笑って、店の出入り口から視線を逸らした。


 ヨハンは、セーレの方を振りかえった。彼女は、馬車達の行きかう道路側を歩いている。


「バルさん」


 セーレは、その声に「ハッ」とした。彼の声に驚いた事もあったが、道路を走っていた馬車(御者がどうやら、馬車の扱いを謝ったらしい)にもう少しでひかれそうになったからである。彼女はヨハンに手を引かれた事で、その馬車を何とか避ける事ができた。


「ご、ごめんなさい!」


「うんう、大丈夫。ラルフさんの誘いを断れて、ホッとしていたんだね?」


「うん」


 そう、と、セーレはいった。


「本当にホッとした。あなたの言葉を疑ったわけじゃないけど、やっぱり不安だったから。『怒られたらどうしよう?』て。実際は、そんな事はなかったけどね?」


「ラルフさんは色んな修羅場をくぐってきた人だから、どうしても怖い雰囲気が漂っているけれど。その置くにあるモノが分かれば、何も怖がる事はない。むしろ、『ホッ』とできる人なんだ。自分の道に迷った時は、なおの事ね? 迷いの先に道を作ってくれる。僕も」


「その道に救われたんだ?」


「うん。ラルフさんは、『お前を救ったのは、お前自身だ』っていっているけど。僕からしてみれば」


 ヨハンは、自分の言葉を飲みこんだ。「それを言葉にするには、あまりにおこがましい」と、そう内心で思ったようである。「人の善意を口にするのは、その人に対する冒涜ぼうとくだ」と、そして、「善意は善意のままで、形にしないのが礼儀である」と。それが正しい表現かは分からないが、自分の正面に向きなおった態度や、「うん」とうなずいた彼の表情からは、その意思がしっかりと感じられた。視界の先にある少女が映った時も。

 

 ヨハンは真面目な顔で、町の道路を歩きつづけた。


「ねぇ、セーレさん」


「はい?」


「なにか欲しい物は、ある?」


「欲しい物?」


「うん。うちの店で働く事になった、その就職祝いに」


「え! そんな!」


 いいですよ! と、セーレはいった。


「わたしの方がお世話になるのに。就職祝いなんて……」


 彼女の言葉が途切れたのは、視界の先にハウワー・ダナリが見えたからである。セーレはその少女に「ハッ」と驚いたが、少女の方も「あっ!」と驚いたようで、彼女がヨハンの後ろに隠れようとした時にはもう、自分の目の前まで走りよられてしまった。


 ハウワーは、彼女の両肩を掴んだ。


「や、やっと見つけた。セーレさん!」


 セーレは、その「やっと見つけた」に眉を寄せた。「やっと見つけた」というからには、自分の事をずっと捜していたのだろう。動きやすそうな服を選んで、町の中を何度も歩きまわったに違いない。額の上に浮かんでいる汗が、その努力を物語っている。彼女は少女らしい厚意から、自分の身をずっと案じていたのだ。「あの子にもしもの事があったら?」というふうに。でも……。「それは」


 セーレは、両手の拳を握りしめた。


「わたしの事を」


 ハウワーは、その言葉を無視した。彼女の事を見つけられた彼女にとって、その言葉は雑音にしか聞こえなかったようである。


「大丈夫? あの後、レーンさんに何かされなかった? 町の快楽屋に連れていかれて?」


「なにも」


 されていません、と、セーレはいった。


「昨日はただ、彼のお店に行っただけですし。あなたの思うような事は、なにも起こっていません。姿


 ハウワーは、その言葉に押しだまった。たぶん、その言葉はあまりに衝撃だったのだろう。最初は「え?」と驚いていただけだったが、数秒後には「なっ、なっ!」と赤くなってしまった。彼女は心の動揺を何とか抑えつつ、セーレのいった「彼」という言葉から、彼女の隣に立っている美少年を「彼」と推しはかって、その彼をまじまじと眺めはじめた。


「あなたが」


 快楽屋の主。あの子に快楽を与える店主。



 ヨハンは、その言葉に目を見開いた。彼女から「それ」を聞くなんて、まったくの予想外だったようである。


「僕の事、しっているの?」


「うん。レーンさんから聞いたから、あなたの事を」


「そうか」


「あなたは!」


 ハウワーはまた、彼の姿をまじまじと見た。彼の姿はやはり、美しかった。恋に不慣れな彼女でもつい、うっとりとしてしまった程に。彼の美は初心な少女を大いに戸惑わせたが、セーレの事がやはり気になっているようで、最初の咳払いを除いては、彼女の顔に視線を移してしまった。


「セーレさん!」


「なんです?」



「アタシの家にきて! 昨日は、断られちゃったけど。やっぱり!」


「嫌です!」


 セーレは鋭い目で、彼女の目を睨んだ。


「あなたの屋敷には、いきません。わたしがそこで働く事も。わたしは、彼のお店で働くんです! ヨハン・ロジクさんの快楽屋で」


「なっ!」


 ハウワーはまた、彼女の肩を掴んだ。今の言葉を聞いて、気持ちの動揺がどうしても抑えられなかったらしい。


「だ、ダメだよ! そんな店で働いちゃ」


「どうして?」


「どうして、って? それは……うんっ、破廉恥だからだよ! 人間の、女性の快楽を満たす仕事なんて。セーレさんみたいな子がやっちゃいけない」


「そんな事、あなたがどうしていえるんです?」


「え?」


「あなたはわたしの友達でもなければ、家族でもないのに? 。自分の人生をどう生きるかは」


「それでも!」


 ハウワーは暗い顔で、彼女の肩から手をのけた。


「やっぱりダメだよ。普通の女の子が、そんな店で働くのは。セーレさんには、もっと素敵な道がある。今までの不幸が嘘になるような」


「それは決して、ありえません」


「え?」


「『わたしの過去が嘘になる』なんて事は。過去は、過去です。それをどんなに拒んだとしても、自分の人生からは決して離れません。一度通った時間は、もう二度と戻らないんです。わたしが、どんなに『やりなおしたい』と思っても」


「セーレさん」


「ダナリ様」


 セーレはまた、彼女の目を見つめた。


「否定は、誰にでもできます。あなたの前に立っている、わたしでも。大切なのは……わたしも他人ひとの事はいえないかもしれませんが、自分の目で見て、自分の頭で考える事じゃないでしょうか? いらない先入観を捨てて、あなたも」


「アタシも?」


「はい」


 セーレは真面目な顔で、ヨハンの顔に視線を移した。


「ヨハンさん」


「なに?」


「レーン様は今日も、お店の方にいらっしゃいますよね?」


 ヨハンは、その言葉に微笑んだ。


「うん、『いらっしゃる』と思うよ? 彼女はなんたって、うちの常連だからね」


「そうですか。なら」


 セーレはまた、ハウワーの顔に視線を戻した。


「条件はすべて、そろっている」


「どういう事?」


「ダナリ様」


「な、なに?」


「今日の夜、ヨハンさんのお店にいらしてください」


 ハウワーは、その言葉に目を見開いた。その言葉は、いくらなんでも突然すぎる。


「ど、どうして?」



 ハウワーが押しだまったのは、その言葉にめまいを覚えたからだろう。「彼のすべてが?」という言葉からも、その動揺がうかがえた。ハウワーは胸の動揺を必死に抑えようとしたが、正体不明の感情に促されてしまったようで、最初は「そ、それは」と困っていたが、最後には「わ、分かったよ」とうなずいてしまった。


「そこまでいうなら、彼の店にアタシを連れていって」


「はい!」


 セーレはハウワーと話しあって、待ち合わせの場所を決めた。


「それじゃ、今日の夕方に」


「う、うん、あなたが使っていた鉄橋の上ね?」


「はい!」


 セーレは「ニコッ」と笑って、彼女の前から歩きだした。ヨハンもそれに続いて、彼女の後ろを歩きだした。二人は、町の道路を歩きつづけた。


 ハウワーは二人の背中をしばらく眺めたが、彼らの雰囲気に促されてしまったようで、本当は「嫌だ」と思っていたものの、彼らの背中が見えなくなった頃にはもう、自分の家に向かって歩きだしていた。

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