第19話 破廉恥との和解
自分の家に帰った後も気持ちが落ちつかなかったが、家の召使い達に「大丈夫ですか?」といわれたくなかった事と、自分の親からも「どうしたんだ?」と訊かれるのが嫌だったので、それらに「なんでもないです」と答えながらも、結局は約束の場所へと向かう事にした。約束の場所では、彼らが自分の事を待っていた。「彼女は、絶対に来る」と、鉄橋の隅で彼女を待っていたのである。「ちゃんときてくれたんだね?」と。
ヨハンは彼女の周りを見わたしたが、そこに馬車の姿が見られないと、真面目な顔でその顔に視線を戻した。
「一人できたの?」
「うん」の返事がはっきりしなかったのは、彼女の中でまだ迷いがあったからである。「家の人達にはやっぱり、しられたくなかった。アタシがそんな店にいくなんて」
ハウワーは、自分の足下に目を落とした。
「嫌な気持ちになった?」
相手の返事は、「いや」だった。
「貴族っていうのは、その
「そう」
かな? そういいかけたハウワーだったが、彼への警戒心をまた思いだしてしまって、「うん」とうなずきはしたものの、それに心からうなずこうとはしなかった。彼がどんなに優しい人間……たぶん、優しい人間なのだろうが、そうであっても、その警戒心をやはり解くわけにはいかない。最悪は道案内の途中で、逃げだす必要もある。彼の言葉にだまされた、憐れな女の子も引っぱって。彼の前からすぐに逃げださなければならないのだ。彼の目が届かないところまで、走らなければならないのである。
ハウワーは、両手の拳を握った。それで自分の気持ちを落ちつかせようとしたのである。
「はぁ」
ヨハンは、その声に微笑んだ。
「大丈夫、そんなに怖がらなくていいよ?」
セーレも、その言葉にうなずいた。
「最初は怖くても、すぐに慣れますから」
二人は「ニコッ」と笑って、彼女の前から歩きだした。
ハウワーは、その後に続いた。二人が道路の十字路を曲がった時も、酔っぱらい達であふれる飲み屋の前を通った時も。酔っ払いの一人と目が合った時は思わず怯えてしまったが、ヨハンが酔っ払いを睨んでくれたおかげで、その酔っ払いには絡まれず、それ以後も怖い目にあう事はなかった。
ハウワーは、目の前の少年に視線を戻した。彼はやはり、優しい人間だ。それも、かなり優しい。ほとんど話した事もない、友人ですらもない人間にも優しくなれる人間である。普通の人間なら、何かしらの計算が入る筈なのに。彼の優しさには、そういうずる賢さがまったく感じられなかった。
ハウワーは、その感覚に戸惑った。「こんな感覚は、今まで感じた事がない」と、そう内心で思ってしまったのである。そこから生まれた不思議な感情、なんだか落ちつかない胸の鼓動にも。彼女は初めての感覚に戸惑いつつも、真面目な顔で二人の後ろを歩きつづけた。
二人は、ある店の前で止まった。店の前には看板らしい物が見えたが、二人がその前に立ったせいで、看板の文字自体は見えなかった。
ヨハンは、ハウワーの顔に視線を戻した。
「ここが、僕の店だよ?」
「こ、ここが!」
彼の根城。ヨハン・ロジクの快楽屋。
「その店」
「うん」
ヨハンは「ニコッ」と笑って、店の扉を開けた。店の扉は、すぐに開いた。扉の鍵がどうやらかかっていなかったらしく、普通なら閉まっている筈の扉が、すんなりと開いてしまったのだ。店の明かりも同じ、あらゆる照明機具が点きっぱなしになっている。
「『不用心だ』と思った?」
ハウワーは、その言葉に眉を寄せた。それ以外の感想が見つからない。店の明かりはまだしも、玄関の鍵をかけていないのは本当に不用心である。
「まあね。今の世の中は、犯罪も多いから。貴族の中にも」
家の前に門番を置いている者もいる。屋敷の防犯もかねて、その周りをずっと見はらせているのだ。近代文明のできあがった今も、犯罪がすべて無くなったわけではない。家の鉄扉を閉めわすれたせいで、玄関の鍵をかけわすれたせいで、自分の財産を
「セーレさんは、本当にいいの? こんな玄関の鍵すらもかけていない店で」
「大丈夫です。今日は、たまたまそうしていただけですから」
「たまたまそうしていただけ?」
それは? といいかけた時だった。ハウワーは「信じられない!」という顔で、店の寝台をまじまじと見てしまった。寝台の上には彼女が、カノン・レーンが横になっている。彼女は自分の衣服をすっかり脱いで、その上にじっと寝そべっていた。
ハウワーは、その光景に思わず驚いてしまった。
「レ、レーンさん!」
カノンは寝台の上から上半身を起こして、その言葉に「クスッ」と微笑んだ。
「今晩は、ダナリさん。また、会ったわね?」
ハウワーは、その挨拶に固まった。彼女に「こ、こんばんは」と返す事はできたものの、それ以後は石のように固まってしまって、ヨハンが寝台の上に自分を導くまでは、自分が歩きだした事すらも分からなかった。彼女は寝台の前に止まると、何ともいえない罪悪感を覚えてしまって、カノンの身体をチラチラと見はしたが、数秒程でその身体からまた視線を逸らしてしまった。
「あ、あの」
「恥ずかしがる事はないわ」
カノンは「クスッ」と笑って、彼女の頬をそっと撫ではじめた。
「これが、ワタシ達の姿なんだもの。衣服の裏に隠している、自分の姿。人間が人間である本性。ワタシはただ、その本性を見せているだけ。貴方も、家のお風呂に入る時は」
「そ、そりゃ、裸にはなるけど。それとこれとでは、違う! 家の風呂で裸になるのとは!」
ハウワーは目の前の美少女に震えながらも、表面上ではその動揺を必死に隠しつづけた。
「貴方はやっぱり、みだ」
「
「で、でも!」
それでも、と、ハウワーはいった。
「やっぱり、そんな事は」
カノンは、その続きをさえぎった。たぶん、「このままつづければ、言いあらそいになってしまう」と思ったのだろう。彼女は彼女の頬から手を離して、ヨハンの顔に視線を移した。彼は彼女の意図を察したのか、その視線に「うん」とうなずいている。
「ロジク君」
「分かっている。100の説明よりも、1の実践だね?」
ヨハンは「ニコッ」と笑って、自分の手にオイルを垂らしはじめた。
ハウワーは、その光景をまじまじと見つめた。琥珀色のオイルが垂れる光景は、店の雰囲気とあいまって、どこか妖しげに感じられたからだ。それがヨハンの手を流れ、カノンの身体をぬらしはじめた時も、何ともいえない興奮を覚えてしまった。
ハウワーは嫌悪感半分、好奇心半分で、ヨハンの仕事をじっと見つづけた。……それの感想を最初に述べるとすれば、とにかく凄い。「凄い」の言葉しかいいようがない。最初はあんなにも上品だった少女が、彼の奉仕を受けるたびにだんだんと乱れ、最後には甘ったるい声を、少女が大人の女性になった声をあげるなんて。それを「凄い」と思わない方が、無理な話だった。快楽の波に疲れて、寝台の上にゆっくりと倒れる光景にも。
ハウワーは歓喜の混じった興奮、初心が痺れためまいを覚えながらも、真面目な顔でカノンの顔を見つめつづけた。
「幸せそうな顔」
ヨハンも、その言葉にうなずいた。
「そうだね、本当に幸せそうな顔だ」
ヨハンは手のオイルを落として、店のテーブルを指さした。
「そこの椅子に座って、セーレさんも。今、紅茶を煎れるから」
「紅茶を?」
「うん。それもうちの奉仕なんだ」
「そ、そう、なんだ」
ハウワーはテーブルの椅子を引き、セーレも椅子の上に座った。二人はヨハンが自分達のところに戻ってくるまで、彼の事をじっと待ちつづけた。
ヨハンは、テーブルの上に紅茶を置いた。紅茶の数はもちろん、二つである。
「温かいうちにどうぞ?」
二人は、その言葉に応えた。ハウワーの方はおそるおそる、セーレの方はやや遠慮がちに。二人はそれぞれに「いただきます」といって、彼の紅茶を飲みはじめた。彼の紅茶は、美味しかった。紅茶の種類は分からなかったが、それが身体の中に染みこんでいくと、何ともいえない幸福感を覚えてしまった。二人はテーブルの上にカップを置いて、カップの中をしばらく眺めつづけた。
ハウワーは、彼の顔に視線を移した。
「あ、あの」
「うん? 口にあわなかった?」
「い、いや! そんな事は、ないんだけど。ただ」
「ただ?」
「ねぇ?」
「うん?」
「貴方はどうして、こんな商売をやっているの? 世間の人達から見くだされるような。歳の方も、アタシとほとんど変わらないのに?」
「償いのためだよ」
「償いのため?」
「そう、僕の犯した罪に対する。これは」
「ねぇ?」
ハウワーは真剣な顔で、彼の目を見つめた。
「話したくなかったら、無理に話さなくてもいい。でも……」
「もし、僕がよかったら?」
「うん……」
「分かった。あまりいい話じゃないけれどね?」
ヨハンは「ニコッ」と笑って、彼女に「自分が快楽屋になるまでの経緯」を話した。
ハウワーは、その経緯に胸を痛めた。その経緯があまりに悲しすぎた事もあったが、それが今まで抱いていた謎、親友の悲哀を解きあかしてくれたからだ。親友は彼の罪悪感と同じく、その過去に辛い物をせおっていたのである。
「悲しいね?」
「うん。でも、こうは自業自得だから。僕がこうなってしまったのも」
「それは」
違う! と、ハウワーはいった。
「貴方のせいじゃない! 悪いのは」
「誰かのせいにしつづければ、いつまで経っても前に進めない。僕は……これがたとえ、理不尽であったとしても。『自分の罪を償おう』と思った。『その罪を償って、自分の人生をまっとうしよう』と思った。それが、この店をはじめた動機だよ。女性に安全な快楽を」
ハウワーは、その言葉に胸を打たれた。その言葉を聞いて、快楽屋への偏見がすっかり無くなってしまったからである。ヨハンやカノン達への偏見も。彼女の中に残っているのはもう、「快楽」に対する誠実さだけだった。
「ごめんなさい。貴方の事をなにもしらずに、色んな」
「別に謝らなくてもいい。君はただ、普通の女の子だったんだ。自分の貞操をちゃんと守れる、普通の少女だったんだよ。だから、僕に謝る必要はないんだ」
ヨハンは、優しげに笑った。
「ね?」
「うん!」
ハウワーは「ニコッ」と笑って、椅子の上から立ちあがった。
「ありがとう」
ヨハンも、その言葉に笑いかえした。
「いや」
ヨハンは、店の扉に目をやった。扉の向こうはもう、暗くなっている。
「家まで送っていくよ。夜の町は、いろいろと危ないからね? 誰かと一緒に帰った方がいい」
「え? ……うん、そうだね。お願いします」
「バルさん」
「はい?」
「バルさんは、店の中で待っていて。帰ってきたら、今日の夕食を作りから」
「いえ。今日は、わたしが作ります。わたしは、ここの従業員ですから」
「そう。なら、お願いします。レーンさんの事は、しばらく寝かせてあげて?」
「はい!」
セーレは、店の中から出ていく二人を見送った。
二人は並んで町の道路を歩きだしたが、ハウワーがヨハンに家の場所を教えていたせいで、その横をたまたま通った物、一台の馬車に気づけなかった。馬車の中には二人、ハウワーの友達と、その父親が乗っていたらしい。彼らは快楽屋の看板に驚いたのか、彼女の事をしばらく見つめていた。
娘は呆けた顔で、友達の事を指さした。
「そ、そんな事って! まさか、ハウワーが快楽屋に」
「どうやら、見間違いではないようだな。あの子は、たぶん」
「やめて」
やめてください! と、娘はいった。
「お父様」
「すまない。だが、現実は」
「ハウワー……」
彼女は悲しげな顔で、友達の顔をじっと眺めつづけた。
ハウワーはその視線に気づかず、ヨハンの隣を軽やかに歩きつづけた。
「ごめんね。アタシの家、結構遠くてさ」
「気にしなくていいよ。それより」
「え?」
「僕の方こそごめんね? こんなに暗くなるまで、君の事を」
「う、うんう! アタシの家は……その、そういうのには緩いからさ! 少しくらい遅くなったって」
「そう。なら、よかった」
「うん」
ハウワーは彼との会話に心地よさを覚えていたが、それが妙にくすぐったく思いはじめると、その気持ちをなんとか誤魔化そうとして、会話の内容をすっかり変える事にした。
「ね、ねぇ?」
「ん?」
「貴方の事なんだけど?」
「僕の事?」
「うん、なんて呼べばいい?」
「ダナリさんの好きでいいよ?」
「そ、そう。それじゃ」
深呼吸を三回。それが彼女なりに考えた、気持ちの落ちつけ方だった。
「『ロジク』でいい? ヨハンはその、あの子の特権だから」
「……うん」
「アタシの事は、『ダナリ』って呼んで。自分の友達に『さん』とか『様』とか付けられると、なんだか恥ずかしいからさ」
「分かった」
そういいおえた時だ。どうやら、彼女の家に着いたようである。
「ありがとう、送ってくれて」
「いや」
「それじゃ」
ハウワーは「ニコッ」と笑って、家の中に入った。
ヨハンはその背中をしばらく見ていたが、彼女が玄関の中に消えていくと、自分の正面に向きなおって、町の道路をまた歩きはじめた。
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