第20話 喪失
朝の時間は特に嫌いではなかったが、ダナリ家の当主である彼にとっては、一日の中で最も大事な時間だった。自分の気持ちを引きしめる意味でも、また、召使いに自分の着替えを手伝ってもらう意味でも。夜の間に覚えていた安心を忘れて、貴族の仕事に挑まなければならないからである。「今日も一日、頑張らなければならない」と、そう内心で思い……まあいい。とにかく、いつも以上にイライラしていたのだ。「自分の娘がなぜ、昨日は帰りが遅かったのか?」と、不機嫌な顔でそう思っていたのである。
彼は食堂の中に入った後も、椅子の上に座った時を除いて、ずっとイライラしていた。
「まったく! 『昨日は朝から出かけて、帰りの方も遅い』と思ったら。今日はまた、お友達とお茶会とは。うちの娘はいつから、おてんばになったんだ?」
彼の妻もとえ、ハウワーの母親は、その言葉に「クスクス」と笑った。娘と同じ美しい髪を光らせて。娘はどうやら、容姿は母親の、性格は父親の遺伝子を引きついだらしい。
「おてんばなのは、昔から同じでしょう? なんたって、あなたの娘なんだから。今にはじまった事じゃない。あの子は年頃の、17歳の女の子なんだから。家の帰りが少し遅れるくらい」
「それが問題なんだろう? 17歳の女といや、悪い男の一人くらい」
「あら? 自分の娘を信じていないの?」
「自分の娘を信じているからこそ、だよ。あいつは、俺達が思っている以上に初心だ。男の善し悪しも分からないくらいに。だから、心配なんだよ? 『変な男にだまされてはいないか』って、な。あいつを送った男は、お前も見ていないんだろう?」
「ええ、アタシが家の外に行った時も。家の外には、誰もいなかったわ。見張り番の子には一応、『どういう人だったのか?』は訊いたんだけどね? その子も、『よく見えなかった』っていうし。どういう人なのかは、分からない。ハウワーは、『友達の男の子』っていっていたけど」
「友達の男の子、か」
当主は自分の顎をつまんで、何やら考えたようだ。
「まあ、どういう奴にしろ。そいつが、不気味である事には変わりない。送った相手の家に挨拶もできないような奴は」
「そうね。でも」
「ん?」
「それは、もしかしたら」
妻も自分の顎をつまんで、何やら考えたようだ。
「その人なりの配慮だったのかも?」
彼女は真面目な顔で、夫の目を見つめた。
「うちの娘に迷惑がかからないように。もっといえば、うちの名前が傷がつかないように。貴族の娘が、『素性のしれない相手に送られた』としられれば」
「……なるほど。それは、確かに面倒だな。『下級』とはいえ、ダナリ家は貴族の家であるわけだし」
「でしょう? そう考えれば、その人が考えた事も分かってくる。『ダナリ家の地位を守らなきゃ』ってね?」
「そうだとしても!」
当主は不機嫌な顔で、コップの水を飲みほした。
「気持ち悪い奴には、変わりはない。そいつに今度あった時は、でかい説教を食らわせてやる!」
妻は、その言葉に「クスクス」と笑った。今の言葉がどうやら、相当におもしろかったらしい。
「あまりやりすぎないようにね?」
ふん! と、夫がいった時だ。ハウワーが食堂の中に入ってきた。彼女は昨日の出来事を思いかえしたようで、両親の「おはよう、ハウワー」には「おはよう。お父さん、お母さん」と返したものの、それから椅子の牛に座った後は、自分の朝食に手を伸ばすまで、嬉しそうに「ふふふ」と笑っていた。
両親は、彼女の顔をまじまじと見た。特に父親は先程の不安をまた覚えたらしく、娘が自分の顔に視線を移した後も、真面目な顔で娘の顔を見つめつづけた。
「ハウワー」
「なに?」
「昨日は、誰に送ってもらったんだ?」
それにハウワーの手が止まったのは、決して偶然ではないだろう。ハウワーは皿の上にスプーンを置いて、父親の顔をじっと見かえした。
「昨日の夜もいったでしょう? 『友達の男の子に送ってもらった』って。女の子が一人で、夜の町を歩くのは危ないから。お父さんは、彼の事を嫌い……怪しんでいるの?」
今度は、父親の表情が固まった。娘の質問があまりに突然、しかもズバリと刺さったからである。これには、流石の母親も苦笑いだった。父親は胸の動揺を何とか抑えつつ、表面上は平静を
「それのなにが悪い? 自分の素性はおろか、名前すらも教えない奴なんて。『怪しむな』という方が、無理な話だ。そいつの厚意を否むわけじゃないが、そこは一言くらい挨拶するのが筋ってモノだろう? それなのに」
「彼には、彼なりの考えがある。昨日の夜、なにもいわずに帰っちゃった事も。彼には」
「だ、だが」
「お父さん!」
ハウワーは鋭い目で、父親の目を睨みかえした。
「それ以上いうなら、たとえお父さんでも許さないよ?」
父親は、その言葉に押しだまった。本当は「ふざけるな!」といいかえしたかったようだが、娘の雰囲気があまりに怖すぎたせいで、その気持ちをすっかり失ってしまったようである。
「くっ、うっ、分かった。お前がそこまでいうなら、もう」
「うん」
ハウワーは「ニコッ」と笑って、今日の朝食をまた食べはじめた。今日の朝食は、すぐに食べおえた。朝食の量自体が少なかったし、彼女が皿の野菜やハム、コップの水を飲みきる動きも速かったので、母親がスープの半分をようやく飲みおえた時にはもう、自分の朝食を綺麗に平らげていた。
「ごちそうさま」
ハウワーは、椅子の上から立ちあがった。
「お茶会が終わったら、まっすぐに帰るから。なにも心配しなくていいよ」
父親はその言葉に応えなかったが、母親の方は「分かったわ」とうなずいた。母親は嬉しそうな顔で、彼女に「いってらっしゃい」と微笑んだ。
「気をつけてね?」
「うん! 行ってきます」
ハウワーは食堂の中から出て、屋敷の玄関に向かった。玄関の前には召使い達が立っていたが、彼女が「行ってくるね」というと、それに「いってらっしゃいませ」と返し、彼女が玄関の中から出ていった後も、それぞれの動きに僅かな違いこそあったが、玄関の方をチラリと見て、自分の仕事をまたやりはじめた。
ハウワーは、友達の屋敷に向かった。彼女がお茶会にいつも招かれている、アリスの屋敷である。彼女は屋敷の中に入ると、そこの召使い達に声をかけて(召使い達の様子がなんだかおかしかったが)、いつもの庭に向かった。庭の中では少女達が彼女の到着を待っていたが、その様子がいつもと妙に違っていて、彼女の顔をチラリと見はするものの、ミレイとアリスの二人以外は、不機嫌な顔で彼女の事を睨んでいた。
ハウワーは、その表情に思わず怯んでしまった。
「ね、ねぇ、どうしたの? みんな」
今日はいつもと、と、彼女はいった。
「『なんか違う』というか?」
少女達は、その言葉に苛立った。特に一人の少女は相当に苛立ったらしく、主催者であるアリスの目の前で、テーブルの上に片足を勢いよく乗せてしまった。
「ねぇ?」
「な、なに?」
「前から思っていたんだけど。あんたって、かなり生意気だよね?」
「ア、アタシが生意気?」
「そうよ。貧乏貴族のくせに、あたしらと対等に話している。上級貴族に対する礼儀も忘れてさ? お茶会のたびに」
他の少女達も、その言葉にうなずいた。彼女達もまた、今の少女達と同じ上級貴族である。
「本当にそう! ミレイの親友だからって、無礼にも程があるわ。あんたと私達は、対等じゃない。本当なら敬語で話す相手なのよ?」
少女達は鋭い目で、彼女の顔を睨んだ。
ハウワーは、その眼光に怯んだ。それだけでなく、彼女達の言葉にも戸惑ってしまった。彼女達は(どういう理由かは分からないが)今までの事を思いかえして、自分の無礼(れしきモノ)をののしりだしたのである。それを聞いているアリスやミレイ達も……どう応えていいのか分からず、不安な顔でその様子を眺めていた。
ハウワーは、それらの視線に震えあがった。
「ど、どうしちゃったの? みんな」
少女達はまた、彼女の言葉に苛立った。今度は悔しげな顔で、その目に涙すら浮かべている。
「『どうしちゃったの?』は、アンタの方よ! なんで? どうして? 快楽屋なんかに」
「え?」
少女達は、一人の少女に目をやった。彼女は昨日の夜、馬車の中から彼女を見た少女である。快楽屋の中から出てきたハウワーを、その店主と並んであるいていた彼女を見ていた。少女は椅子の上から立ちあがると、彼女の前にサッと歩みよって、その顔をじっと睨みつけた。
「私、見ちゃったんだ。昨日の夜」
その先は、聞かなくても分かってしまった。少女達がなぜ、自分に敵意を向けているのかも。ハウワーは「それ」に悲しくなったが、今までのような感情は抱かなかった。
「最初は、嫌だったけど。今は、まったく嫌じゃない。彼の店、ヨハン・ロジクの快楽屋にいった事も」
ミレイは、その言葉に目を見開いた。彼女の口から「ヨハン・ロジク」の名前が出るなんて、夢にも思っていなかったからである。彼女は同姓同名の人物、別人の可能性も考えたが、彼女にとってのヨハンはやはり特別だったらしく、それらの可能性を考えながらも、一方では「私のしっているヨハンであってほしい」と思って、親友の名前を思わず叫んでしまった。
「ハウワー!」
「なに?」
「お店の主は、確かにヨハン・ロジクなの?」
「うん、ミレイのよくしっている。彼はね」
「そ、うなんだ。ヨハンが快楽屋の店主に。私のせいで」
ミレイは嬉しさ半分、悔しさ半分で、思わず泣きだしてしまった。
少女達は、その光景に怒った。会話の内容から察すれば、もう少し落ちつけそうな気もしたが、怒りが理性を打ちけしていたせいで、本来の落ちつきをすっかり忘れていたらしい。
「もう来ないで」
ハウワーは、その言葉に驚いた。
「え?」
「『もう来ないで』っていっているの! アンタは、このお茶会にふさわしくない。お茶会の品位をおとしめる者として。だからもう、このお茶会には来ないでほしい」
ハウワーは、その言葉にうつむいた。こうなる流れは会話の中でうすうす感じていたが、実際にそうなってみると、強い喪失感を覚えてしまったからである。
「……分かりました。今までありがとうございます。こんなアタシを誘ってくださって」
少女達はその言葉に眉を寄せたが、ミレイだけは悲しげな顔を浮かべていた。
ミレイは、親友の手を掴んだ。「その手をもし話したら、もう二度と掴めない」と思ったのだろう。親友に「ダメ!」といった言葉からも、その思いがはっきりと感じられた。
「いっちゃ! 私は、そんな事」
「ミレイ……」
ハウワーは「ニコッ」と笑って、親友の手をそっと放した。
「ありがとう、アタシの親友になってくれて。でも」
「い、いや!」
「貴方は、貴方のままでいなきゃ。世間の人達に恥じない、名家のお嬢様じゃなきゃ。ロジクもきっと、それを願っている。貴方にした、自分の罪を償うためにも。アタシは、彼の……」
そこから先をいわなかったのは、彼女なりの善意だったのだろう。親友の初恋を壊さないために、そして、自分の初恋を押しころすために。彼女は自分の「親友」と「初恋」を突きはなす事で、一番大事なモノを守ろうとしたのである。
「さようなら、マヌア様」
「ハウワー!」
待って! と、ミレイはいった。
「貴方までいなくなったら、私」
少女達はその声を無視して、彼女の身体を四方八方から押さえた。そうしなければ、ミレイは彼女を追いかけてしまう。自分達の前から歩きだしたハウワーを「私も行く!」と走りだしてしまう。そうならないためにも、今は彼女の身体を押さえるしかなかった。
「彼女だけじゃない! 貴方には、他にも友達がいる」
ミレイは、その言葉に怒った。少女達の腕を思いきり振りほどいてしまう程に、頭の血が一気に上ってしまったからである。彼女は少女達の声を無視したまま、既に見えなくなっていた親友の姿を探して、彼女達の前からサッと走りだしてしまった。
少女達は、その光景にうつむいた。
「なによ? これじゃ、私達が悪者みたいじゃない?」
彼女達は暗い顔で椅子の上にまた座りなおし、アリスも同じ顔でテーブルの上に目を落とした。
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