第12話 自分の原点
眠りの世界は穏やかだったが、その空気は妖しげだった。夕焼けのような明かりに照らされて、自分の周りがぼんやりと見える空気。その空気に混じって、二つの人影がうごめく光景。正に幻想を表したかのような光景だった。それに溶けこんでいる二つの人影も……なんの動きかは分からないが、上と下とに重なりあって、奇妙な儀式を行っている。まるで愛の神秘を味わうかのように、甘い吐息を交わしあっていた。
ハウワーは、その光景をじっと見はじめた。その光景自体を見たかったわけではないが、自分の理性が本能に競りまけてしまったせいで、数分前には目の前の光景から逸らしていた視線が、数分後にはそれをじっと見はじめてしまったのだ。「この光景はたぶん、自分の生命に関わる事だ」と、そう本能の内に感じてしまったのである。彼女は妙な胸騒ぎを覚えつつも、とても不安な、でもどこか穏やかな気持ちで、二つの人影を黙々と見つづけた。
二つの人影は、自分の両親だった。それも今よりずっと若い、青年期の父と母だった。二人は互いの姿に見ほれこそしていたが、本能の情動はできるだけ抑えているらしく、相手の反応をいちいち確かめあっては、お互いに「僕は、いいよ?」とか「アタシも、いい」とか言いあって、その愛を深めあっていた。
ハウワーは、その光景に涙を流した。二人の愛があまりに温かくて、それに思わず泣いてしまったのだ。二人は今、
「これが、あったから」
そこから先は、いえなかった。それをいったら、自分の理性が壊れてしまう。理性の奥に隠れている、破廉恥な本能が現れてしまう。あの子を否んでまで、拒んだ破廉恥が。
「うっ」
ハウワーは自分の両親が果てた後も、真面目な顔で自分の足下を見おろしつづけた。……それからどれくらいの時間が経ったのか? 正確な時間は分からないが、彼女が自分の顔をあげて、二つの人影にまた視線を戻した時にはもう、今までの風景がすっかり変わっていた。両親の寝室と思わしき部屋が消えて、自分の育った部屋が代わりに現れていたのである。部屋の中には様々な玩具やぬいぐるみ、かわいらしい服や洋服箪笥などが置かれていた。
ハウワーは、それらの品に胸が熱くなった。それならの品はみんな、彼女にとって思い出の品だったからだ。今はもう、部屋の奥底に仕舞われているけれど。彼女の足下に置いてあるオカリナは、彼女が幼い頃に父親から買ってもらった物だった。
彼女はその楽器をしばらく眺めていたが、ある衝動についかられてしまい、「これは、夢だ」と分かりながらも、不安な顔で足下のオカリナに手を伸ばして、それに触れるのか確かめてみた。オカリナには、触れられた。自分の右手から伝わってきた感触も、現実のそれとまったく同じだった。無意識に奏でてしまった曲も同じ。彼女の指とあわせて、美しい音を奏でてくれた。
彼女はその調べにうっとりしつつ、自分のオカリナをしばらく奏でていたが、部屋の中に母が入ってくると、近くの物陰にサッと隠れて、床の上にもオカリナをそっと置いた。
母親は、自分の胸に赤ん坊を抱いていた。赤ん坊はとてもかわいらしく、時折ぐずりはするものの、大抵は「ニコリ」と笑っていて、母親人差し指で赤ん坊の頬をくすぐったり、その頭を撫でたりすると、それを嬉しがるように「キャ! キャ! キャ!」と笑ったり、あまりに気持ちよすぎて「うっ、うっ」と眠りかけたりした。母親は愛おしげな顔で、赤ん坊の反応を眺めていた。
ハウワーは、その光景に気持ちが温かくなった。自分が(正確には、幼い頃の自分だが)母親から深く愛されている光景に、その愛を受けて「キャ! キャ! キャ!」と笑っている自分に、不思議な幸せを覚えてしまったのである。母親が自分の娘を抱いて、部屋の中から出ていった後も、そこに妙な余韻を覚えてしまった。
ハウワーは、部屋の物陰からそっと出た。母親がまたこの部屋に戻ってくる可能性もあったが、それならそれで別によかったし、「ここはどうせ、夢の中なのだから」という気持ちもあったので、一応は周りの様子やら雰囲気やら覗いつつ、床のオカリナをまた拾って、そのオカリナをもう一度拭きはじめた。オカリナの音色はやはり、さっきと同じだった。淡い音色が部屋の中に響く事で、そこに不思議な空気を醸しだしてくれる。正に神秘と芸術とが交ざりあった
彼女はその調べを味わいながら、自分の好きな曲をつぎつぎと奏でていった。だが……その調べもまた、そう長くは続かなかった。彼女の演奏をさえぎるように突然開かれた扉。扉の向こうには、一人の女の子が立っていた。今の彼女よりもずっと幼い彼女が、嬉しそうに笑いながら仁王立ちしていたのである。幼い彼女は部屋の中に堂々と入ってくると、床の上に置かれているぬいぐるみを拾って、それに何やらいろいろと話しかけたが、彼女の話す言葉がぎこちなかった事と、ぬいぐるみが(当然だが)その言葉に応えなかった事もあって、数秒後には床の上へとまた投げすててしまった。
「つまんない!」
幼い彼女は本当につまらなそうな顔で、ベッドの上に勢いよく寝そべった。
ハウワーは、その光景に苦笑いした。彼女は(どうやら)自分の事が見えていないらしいが、その態度があまりに自然すぎて、着ている服がどんなにかわいらしくても、それを台無しにするような大胆さ、ふわりとしたスカートをスカートとして見ないような素朴さに、うっかり笑ってしまったのだ。汚れたブーツも脱がず、ベッドの上で動きまわる光景にも、それを「こらっ!」としかりたい衝動よりは、「まったく」と笑いたい気持ちの方が勝ってしまったのである。
「これは、間違いなくアタシだ」
自分の両親から「もっと女の子らしくしなさい!」と怒られた自分。周りの友達からも、「貴女には、淑女の意識が足りないわ」と笑われた自分だ。そんな自分が今、自分の目の前で「う、うううん」と唸っている。未来の視線などお構いしに、自分の自分らしさを解きはなっていた。
ハウワーは、その姿に胸を打たれた。「この頃は、本当に楽しかったな」と、そう強く思ってしまったのである。世間の目なんて、まったく気にしない。周りの空気や、友達の心情も読まなくていい。自分の思うまま、好き勝手なままに振る舞う事ができた。家の食器をわった時は流石に怒られてしまったが、それ以外の事はほとんどが許され、今も下級貴族ながら上級貴族とのお茶会を許されている。本来なら「ごめんなさい」と断らなければならないそれを、親友の厚意に甘えて、上級貴族の少女達と同じ席に座っていた。
ハウワーは、その事実に目を細めた。「自分は、本当に恵まれている」と、そして、「その幸せに頭を下げなければならない」と。その口では何もいわなかったが、左手の拳を握りしめる中で、そう強く感じたのである。「アタシには、今くらいの幸せが丁度良いのだ」と。
ハウワーは「うん」とうなずいて、右手のオカリナをそっと握りしめた。幼い彼女が部屋の中から飛びだしたのは、それからすぐの事だった。
ハウワーは、その背中をじっと見送った。その背中を追いかける必要はない。彼女は過去の人間で、過去の世界でしか生きられないからだ。今の自分に頼る事で、その存在をどうにか保つ事ができる存在。曖昧にして、不安定な存在なのである。だから、追いかけても意味がない。人間は未来にこそ進む事ができるが、その過去には決して戻る事ができないのだ。
「う、うう」
ハウワーは寂しげな顔で、自分のオカリナをまた奏ではじめた。オカリナの演奏は変わらなかったが、部屋の中にある男女が入ってくると、今までの調子を忘れて、その音色がすっかり止まってしまった。彼女は自分の後ろにオカリナを隠し、二人の死角にサッと隠れて、そこから男女の様子をじっと覗いはじめた。
男女は二十代の後半くらい、最初の場面で見た両親と同じくらいだった。その身体にまとっている衣服もほぼ同じで、女性の方は華やかなドレスを、男性の方は真面目な燕尾服を着ていた。二人は互いの顔をしばらく見あっていたが、男性が女性の身体を抱きよせると、女性の方もそれに応えて、互いの事を「愛している」と笑いあっては、ベッドの上にゆっくりと寝そべって、相手の衣服を静かに脱がしはじめた。
ハウワーは、その光景に息を飲んだ。その光景があまり衝撃だった事はもちろん、今までは驚きのせいで気づかなかったが、見知らぬ男性に自分の衣服を脱がされている女性が自分、それも未来の自分らしい事に気づくと、右手のオカリナを思わず落としてしまうくらいに驚いてしまったのである。彼女は自分の目の前で一体なにが起こっているのか、まったく分からなくなってしまった。
「そ、そんな、どうして?」
二人は、その声に応えなかった。二人にはどうやら、彼女の声が聞こえていないらしい。二人は互いの唇を吸いあうと、相手の顔をまた見あって、互いの体温を味わいはじめた。
ハウワーは、その光景に打ちふるえた。あの二人にはそう、「羞恥心」というモノが感じられない。「自分の身体が、相手に見られている」という恥じらいも。二人にあるのはただ、相手のぬくもりを知ろうとする純粋な愛だけだった。数秒前から聞こえていた
ハウワーは、その声に涙を流した。理由はよく分からないが、その声に胸が熱くなってしまったのである。
自分もいつか、あんな事を……。あんな風にいやらしい事を。
「アタシは!」
そう叫びかけたところで、夢の世界から「ハッ」と覚めてしまった。
「はぁ、はぁ、はぁ」
ハウワーは自分の額に汗を感じたが、それを拭おうともせず、ベッドの上から起きあがって、部屋の窓に視線を移した。窓のカーテンは、閉まっている。カーテンの隙間からは温かい光が見えていたが、彼女が部屋のカーテンを開けた事で、その光がより一層に強くなり、町の光景がはっきりと見えはじめていた頃にはもう、部屋の中にも温かい光が入りこんでいた。
ハウワーは、その光をぼうっと眺めつづけた。部屋の中に執事が入ってきた時も、執事の声に「うん、分かった」と応える事はできたが、それ以外の受け答えはほとんどできず、朝食の時もやはり無言、お茶会の時ですら周りに「大丈夫?」と訊かれる始末で、反応らしい反応がようやく戻ってきたのは、町の空が夕焼けに染まりはじめた時だった。
ハウワーは道路の端に寄って、夕暮れの町をじっと眺めつづけた。
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