第11話 ハウワーの苦悶

「いやらしい、店」


 ハウワーは慌てて、カノンの肩を掴んだ。カノンの肩は細く、掴むだけで折れてしまいそうだった。


「だ、だめだよ! そんなに店に行っちゃ」


「どうして?」


「そ、それは」


 ハウワーは真っ赤な顔で、彼女の肩から手をのけた。


「快楽屋はその、店のお客さんに……女の人にをする店だから。レーンさんみたいな子が行っちゃいけない。アタシの友達もいっていたもの。『あんな店にいくのは、ふしだらな子しかいない』って! レーンさんは」


 彼女の言葉が詰まったのは、カノンに「クスッ」と笑われたからか? そのはっきりとした理由は分からないが、相手の目をしばらく見て、地面の上に目を落とした動きからは、少女特有の羞恥心、つまりは恥じらいの気持ちがうかがえた。ハウワーは彼女の顔に視線を戻し、不安な顔でその目をまた見はじめた。


「そんな子じゃ」


 カノンは、その言葉に目を細めた。


「『ない』とは、いいきれない。人は、見かけによらないからね? どんなに清い乙女でも、その根にはいやらしい娼婦が潜んでいる。貴女がこの世に生を得た原理も」


「う、ううっ」


「『性』を否める事は、自分の『生』を否める事よ?」


 そうかもしれない。そうかもしれないが、それでもやはりに落ちなかった。彼女にとっての性は、とても神聖な存在。古い時代から脈々と続く、生命いのちの世代交代だ。その交代には戦いが、それも命がけの戦いが待っている。自分はその戦いを勝ちぬき、多くの試練を乗りこえて、今の生を受けているのだ。単なる快楽の結果から生まれてきたわけではない。結果の先にある、「愛」という感情から生まれてきたのだ。


「それなのに、その尊厳を汚すなんて」


 ハウワーは、相手の目を睨んだ。


 カノンは、その目に怯まなかった。ハウワーにはハウワーなりの正しさがあるように、彼女にもまた、彼女なりの正しさがあるようである。


「それは、あなたの誤解よ」


「アタシの誤解?」


「そう、誤解。あの店は決して、貴女の思うような場所じゃないわ。それどころか」


「な、なに?」


「多く女性が隠している悩み、性の不満を満たしてくれるかもしれない。自分の中で抱えている……貴女も」

 

 ハウワーは、その言葉に眉を寄せた。その言葉に腹立ってしまったからである。


「アタシは、何の不満も抱いていないよ! 自分の性、いやらしい欲への悩みなんて! アタシは、今のままで充分なんだ。友達の家に行って、それから」


「どうするの?」


「友達とのお茶会を楽しむ。今日だって、そのお茶会を楽しんできたんだ。友達から『お茶会にきて』と誘われて。あなたも貴族なら、そういう事は分かるでしょう?」


「もちろん、分かるわ。ワタシも、そういうお茶会に誘われるからね。華やかな女性達が、華やかなお話で盛りあがるお茶会。それを装った自分のお家自慢。貴女のお友達はたぶん、そういう事はしないでしょうけどね。ワタシの誘われるお茶会には、そういう女性達が溢れている。みんな、内心でお互いの事を罵りあっている。『貴女も確かに美人だけど、ワタシの方がもっと美人だ』ってね。口には出さなくても、態度には見せるの。ワタシは、そういう世界が嫌いだわ。そういう世界の住人に限って、性の自由をあざ笑うんだもの。本当は興味津々なくせに、自分への体裁を気にして、そういう人の事を『いやらしい』と笑う。『そんなにふしだらなら、家の質が落ちる』と見くだす。ワタシは、そんな偏見が死ぬ程嫌いなの。ベッドの上で男性に抱かれれば、恥じらいもなく喜ぶくせに。ワタシはね、『人間の性をあざ笑う人よりも、それに自由な人の方が、ずっと人間らしい』と思っているの」


 ハウワーは真剣な顔で、その言葉にまた眉を寄せてしまった。彼女の言葉には、なんだろう? 妙な説得力がある。今までの常識(という名の偏見?)を壊すような、不思議な雰囲気があるのだ。それこそ、思わず「う、うううん」と唸ってしまう程の。彼女は(おそらくだが)自分の思うような人間、性にだらしない人間ではなく、それとまっすぐに向きあう人間であるらしかった。だが、それでも……。「やっぱり、うなずけない。女の子が、そんな店に行くのは」


 ハウワーは、両手の拳を握りしめた。


 カノンは、その右手に目を細めた。


「そう」


「うん」


 カノンは相手の目を見つめ、相手も彼女の目を見つめかえした。二人は互いの目をしばらく見つめあったが、カノンが相手に「ごめんなさい」というと、それまでの沈黙を忘れて、互いの目から視線を逸らしあった。


「それでも……ワタシは、彼の店に行く。彼の店は、どんな女性にも親切だからね」


 無言の返事はたぶん、それを聞いたハウワーの悲しみだろう。ハウワーは地面の上をしばらく睨んだが、それも数秒程で終わってしまった。


「家の人は、何もいわないの?」


 相手の返事は、「ええ」だった。


「アタシの家は、そういう事に寛大から」


「変わっているね?」


「よくいわれるわ。ワタシは、まったく気にしないけどね?」


「そう」


 ハウワーは、両目の涙を拭った。今までは親友の力になれない自分、その無力さに泣いていた彼女だったが、今は「それ」とはまったく関わりない感情、「怒り」と「悲しみ」の間にある感情を覚えていた。目の前の少女は、自分とは正反対の世界に生きている。快楽の自由に心を解きはなっている。まるで大空の上を飛びまわる鳥のように、あらゆるしがらみから逃れて、ここちよい気流に流されていた。


 ハウワーは、その事実に俯いた。彼女にはたぶん、なにをいっても通じない。


「そのお店は、男の人がやっているの?」


「どうして?」


「『彼の店』っていっていたから。『彼』って、男の人に使う言葉でしょう?」


「そうね」


 カノンは何やら考えたようだが、やがて「クスッ」と笑いはじめた。


「ヨハン・ロジク」


「ヨハン・ロジク?」


「聞いた事ない?」


 ハウワーは、その言葉に首を振った。


「ないよ」


「そう。ワタシがこれから行く快楽屋は、そのヨハン・ロジク君のお店なの。ロジク君のお店は、本当にすばらしい。ワタシは、そこの常連なんだけどね。たまたま見つけたお店だったけど、気づいたら一年近く通っているわ」


「い、一年近く!」


 しかも常連、と、ハウワーはいった。


「それは」


「いやらしい?」


 なんて領域ではない。それは最早、「破廉恥」の領域である。そんないかがわしい店に一年近くも通っているなんて。普通の神経では、ありえない。ハウワーは「軽蔑」とまでは行かないものの、何処か冷めたような目で、相手の目をじっと見た。


「そうだね、確かにいやらしい」


 カノンは、その言葉に怒らなかった。


「でも、止められない。


「ど、どうなるの?」


「最後は、必ず虜になってしまう。まあ、軽い中毒かしらね? 貴女が友達のお茶会にはまっているように、ワタシもあの快楽から抜けだせない。一分、一秒でも、あの快楽を味わっていたい。あの快楽はね、本当に優しい快楽なの」


「そんな快楽、あるわけがない。どんな快楽にも、悪い部分は必ずある! 現に」


 カノンはまた、相手の言葉に怒らなかった。


「ワタシは、大丈夫よ」


「どこが? あなたのいった通り、それの虜になっているじゃない? 心も、身体も」


「それは、いけない事?」


「いけないよ!」


 ハウワーは一歩、彼女の前に歩みよった。


「レーンさん」


「はい?」


「あなたはアタシよりもずっと綺麗で……たぶん、頭もずっといいと思う。だから」


「だから?」


「そこに行くのは、今日限りにした方がいい。貴女自身の事を考えても」


 それがカノンに届いたのかは、ハウワー自身にも分からない。自分の気持ちがぜて、その両目から涙を流していた彼女には。ハウワーは目の前の少女に頭を下げて、彼女の前から逃げるように走りだした。


 カノンは、その背中をじっと見つづけた。


 ハウワーは、自分の家に向かって走りつづけた。周りの人々からどんなに「なんだ? なんだ?」と見られても、それらの視線をまったく無視して、一心不乱に走りつづけたのである。彼女は自分の家に帰ってきた時も、執事の「お帰りなさいませ」には応えたが、それ以外の挨拶にはほとんど応えず、夕食の時ですら無言を通して、その後に入った風呂はもちろん、そこから上がって自分の部屋に戻った時も、疲れたような顔でベッドの上に寝そべってしまった。


「はぁ……」


 ハウワーは、部屋の天井を見あげた。部屋の天井は決してオシャレではなかったが、乱れた彼女の気持ちを整えるには、丁度良い安定剤になった。彼女は呆けた顔で、その天井をしばらく見つづけた。


「はぁ」


 溜息を一つ。


「ううっ」


 唸り声を一つ。


「くっ」


 そして、最後に苛立ちを一つ。


「気持ち悪い」


 彼女は、自分の頭をかきむしった。


「気持ち悪い! 気持ち悪い! 気持ち悪」


 い、の部分はうまくいえなかった。自分の中に何か、防波堤のような物ができて。それをいおうと思っても、その口自体が閉じてしまったのである。


「くっ」


 ハウワーはまた、両目の涙を拭った。だがいくら拭っても、その涙は止まらなかった。それこそ、今の彼女を表すかのように。これまで溜まっていた諸々が、彼女の涙腺を通して、つぎつぎとあふれ出てしまったのである。彼女は自分の愚行を諦め、自然のおもむくまま、涙の流れるままにした。


「お、女の子が」


 自分の快楽をむさぼるなんて。そんな事は、絶対にやってはいけない事である。特に自分や彼女のような貴族は、乙女の貞操を守らなければならないのだ。親の決めた男性が、自分の不貞にガッカリしないように。それが原因で、家の名が落ちないように。あらゆるところに気を配って、自分の本能を……。


「自分の本能?」

 

 ハウワーは、その言葉に「ハッ」とした。その言葉が意味するものはつまり、「自分にも、そういう欲がある」という事。「恥じらいの中に興奮を覚えつつ、好いた相手の前で裸になれる気持ち、そんな勇気が自分にも備わっている」という事だった。それは、認めたくない事実である。自分としては(あくまで彼女の主観だが)そういう事にはうとい方で、少女達との恋愛話にも一線を引く人種だと思っていたが、親友の態度をきっかけとしつつ、そこにカノンの価値観が加わった事で、貴族としての価値観が揺らいでしまい、挙げ句は「アタシも、いやらしい人間なのかな?」とすら思ってしまった。


「レーンさんと同じように」


 アタシも、と、彼女はいった。


「本当は、気持ちいい事を求めているのかな?」


 ハウワーはその言葉にしばらく悶々としてしまったが、それでも自身の睡眠欲には勝てず、数時間後にはもう、眠りの世界に落ちてしまっていた。

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