ハウワー・ダナリ 篇
第10話 二人の少女
そこから続く言葉は、いくらまっても出てこなかった。ハウワーはアリスの執事が煎れた紅茶をすすりつつ、周りの空気が元に戻りはじめたところで、親友の過去をあれこれと推しはかりはじめた。自分の親友にはたぶん、他人にいえない悲しい思い出があるのだろう。親友の自分にもいえないような、とても辛い過去が。そして、その過去に今でも苦しんでいる現実が。彼女の笑顔や仕草、「なんでもない」という言葉にひそんで、彼女が彼女である事を、その存在自体を苦しめているに違いない。当の本人は「本当になにもないよ?」といっているが、彼女が浮かべている笑顔からは、その雰囲気がうっすらと浮かんでいた。
ハウワーは、その雰囲気に胸を痛めた。自分は彼女と比べて……いや、そういう経験はまったくなかったが、彼女が寂しげに笑う姿を見ると、それがまるで自分の事のように思えてしまったのである。「失恋とは、こんなにも悲しいものなのか?」と。だから彼女にも、「ミレイ」と話しかける事はできたが、親友を元気づけるような言葉、その気持ちを慰めるような言葉はまったくいう事ができなかった。自分が何かをいったところで、親友の苦しみが癒えるわけではない。その悲しい過去がなくなるわけでもない。ただの気休めを与えるだけだ。なんの救いにもならない、上面だけの気休めを。それをいうのは、ハウワーとしても気に入らなかった。相手の気持ちを「救いたい」と思うなら、本当の意味で救わなければならない。
ハウワーはテーブルの上にカップを置いた後も、不安な顔で親友の横顔を見つめつづけた。
親友は、その視線に気づかなかった。その視線が分かりづらかった事もあったが、アリスがうまい具合に気を利かせてくれたおかげで、お茶会の空気がすっかり戻し、いつも楽しい会話が一つ、また一つとよみがえり、それらの会話が、ハウワーの視線を見事に覆いかくしてしまったからである。彼女はハウワーの視線に気づかないまま、(表面上では)穏やかな顔で今日のお茶会を楽しみつづけた。
そんなお茶会が終わったのは、いつもと同じ時間だった。町の空が朱色に染まって、地平線の向こうに太陽が沈みいく時間。文字通りの夕暮れ時だった。少女達はそれぞれに椅子の上から立ちあがり、お茶会の主催者であるアリスや、その執事であるノエルに「今日もありがとう」といって、ある者は屋敷の庭に待たせている馬車、またある者は友人の馬車に乗りこんで、庭の駐車場からゆっくりと動きだした。それを眺めていたハウワーも、ミレイの乗った馬車に手を振り、それからアリスやノリス達にも「今日も、ありがとう」といって、敷地の中からそっと出ていった。
ハウワーは、町の道路を歩きはじめた。町の道路には人が溢れていたが、彼女の衣服が見るからに庶民風だった事や、貴族の令嬢なら普通は乗っている馬車に乗っていなかった事もあって、その中性的な顔立ちや茶色い髪に振りかえる女性達はいても、大抵は彼女の横を素通りするか、不可思議な好奇心からチラチラと見てくるだけで、それ以上は何の反応も見せなかった。彼女に「気をつけて帰りなよ?」と話しかけた女性も、彼女の事を単に案じていただけだった。女性は「クスッ」と笑って、彼女に手を降った。
ハウワーは、その厚意に笑いかえした。
「ありがとう」
彼女は女性の顔から視線を逸らした後も、真剣な顔で町の道路を歩きつづけた。道路の光景はいつもと変わらなかったが、人々の行きかう十字路を曲がって、そこから鉄橋の上までいくと、その足を急に止めてしまった。視線の先には、一人の少女が……。鉄橋の手すりを握って、そこから夕焼けの空を眺める少女が立っていた。
ハウワーは、その姿に息を飲んだ。その姿があまりに美しかったからである。最近流行の写実主義、そこに描かれた美しい女性が、絵の中から飛びだして、現実の世界にすっと現れたかのように。彼女は「現実」と「虚構」のいいとこ取りをして、景色の美しさにそれを重ねあわせていた。時折見せる妖しげな笑みや、夕日に潤んだ淡い瞳、「花の香り」を思わせる溜息からも、その雰囲気が漂っていたのである。
「綺麗」
それ以外の言葉が見つからない。ましてや、それを否めるような言葉も。彼女は女性が根幹的に持っている要素、親友の「神聖」とは違った、「魔性」の美を持っていた。
「ああ」
ハウワーは真剣な顔で、彼女の横顔を眺めつづけた。その横顔が動いたのは、ハウワーが彼女の前に少しだけ歩みよった時だった。彼女はその場にピタリと止まり、真剣な顔でまた相手の顔を眺めはじめた。
相手は、その視線に微笑んだ。
「
「こ、こんにち」
は、の部分がつまってしまった。時間としてはまだ、「こんばんは」ではない。
「あ、あの」
ハウワーは妙な緊張を覚えつつ、目の前の少女に頭を下げた。
「す、すいません。つい……その、見ほれちゃって」
少女はその言葉に目を見開いたが、やがて「そう」と笑いはじめた。
「ありがとう。でも」
「は、はい?」
な、なんですか? と、ハウワーはいった。
「やっぱり」
少女はその言葉を無視して、彼女の前にゆっくりと歩みよった。
「なにか悩んでいるわね? それも、自分ではどうする事もできない」
それを最後まで聞かなかったのは、彼女の言葉が真を突いていたからだろう。ハウワーは最初こそ黙っていたが、だんだんと悲しくなってしまい、彼女の目から視線を逸らすと、両手の拳を握って、その目から涙を流してしまった。
「う、ううう」
少女は自分のハンカチを使って、彼女の涙をそっと拭った。
「ここは、非情な町よ? 弱い人間には」
「う、うん」
「でも」
「でも?」
少女は、優しげに笑った。
「ワタシは、そんな人間が好きよ? 冷たく濁った水よりも、温かく澄んだ水の方が。貴女の目は、とても澄んでいる」
ハウワーはまた、その言葉に涙を流した。本当は泣きたくなかったのに、その言葉が心に響いてしまったせいで、今は涙がより激しく流れてしまったのである。
「アタシは、ぜんぜん澄んでいない」
無言の返事は、少女なりの思いやりかもしれない。少女は相手の目をしばらく見ていたが、数秒後にはその目から視線を逸らして、町の夕焼けをまた眺めはじめてしまった。
「貴女の名前は?」
「な、ま、え?」
「そう、貴女の名前。ワタシの名前は、カノン・レーンよ?」
「カノン・レーン、さん」
ハウワーは両目の涙を拭って、彼女の目を見かえした。
「アタシの名前は、ハウワー・ダナリ」
「ハウワー・ダナリさん、か。いい」
名前ね、といいかけた時だった。少女は真面目な顔で、相手の目をまじまじと見た。
「貴女、まさか」
「は、はい?」
「ダナリ家のご令嬢?」
今度は、ハウワーの方が驚いた。
「そ、そうですけど? あなたは、って!」
ハウワーはここで重大な事実に気づいたらしく、慌てて自分の身なりを整えた。
「レーン家といえば、有力貴族の一つじゃないですか!」
少女もとえ、カノンは、その言葉に苦笑した。貴族までならまだしも、そこに有力がつくのはあまり嬉しくないらしい。
「世間の人からは、そう思われているようだけどね? ダナリさんの方も」
「アタシの家は、ただの下級貴族だから。貴族のサロンにも、滅多に呼ばれないし。パーティだって、年に一回あればいい方。家は昔から、貧乏貴族で有名だからね」
「そうだとしても」
カノンは身体の向きを変えて、鉄橋の手すりに寄りかかった。
「同じ貴族である事には、変わりはない。『下級』とか『上級』とかいう階級は、世間の人が勝手につけた偏見。銘柄意識にとらわれた人達の病気よ。自分の舌で『美味しい』と感じた物なら、どんな物も一級品になる。その意味では、貴女も立派な一級品なの」
「アタシも、立派な、一級品」
ハウワーは妙な温かさを感じたが、それも長くはつづかなかった。親友の悲しげな顔をふっと思いだしてしまったせいで、その温かさが急に冷めてしまったからである。
「でも」
「ん?」
「それでも、救えない。自分の親友を。彼女が悩んでいる事から」
カノンは、その言葉に目を細めた。
「親友の子は、何を悩んでいるの?」
「分からない。でも、とても悲しい事なのは分かる。『自分の大事な人を失った』って。『その人はたぶん、今でも自分の事を恨んでいるだろう』って」
「その人の名前は、分かるの?」
その答えはもちろん、「分からない」だった。
「その人の名前も、男なのか女なのかも。ミレイは、ただ」
ハウワーは悔しげな顔で、右手の拳を握りしめた。
カノンは、その拳をじっと見つづけた。
「ミレイ、それが親友の名前?」
「その子の姓は?」
「マヌア」
カノンは、その姓に目を見開いた。
「マヌア家、か。なるほど。マヌア家も、かなりの名家ね。町の人なら、しらない者はいない程の有力貴族。純粋な財力なら、家よりも上だわ」
そのお嬢様が一体、何を悩んでいるのか? と、彼女はいった。
「マヌア家程のお嬢様なら、手に入らない物なんてない筈なのに?」
ハウワーも、その疑問にうなずいた。
「う、うん」
二人は自分の顎をつまんだり、通りの人々に目をやったりして、その疑問をしばらく考えたが、いくら考えても分からなかったらしく、最初はハウワーが諦め、次にカノンも「しかたない」といって、鉄橋の手すりから背中を離した。「こういうのは、今すぐに分かる事でもないから」
カノンは、目の前の少女に頭を下げた。
「ごめんなさい、力になれなくて」
ハウワーは、その言葉に申しわけなくなった。
「そ、そんな! アタシの方こそ、初対面の相手にこんな」
「それでも、よ? 貴女の力になれなかったのは、事実だわ」
だからごめんなさい、と、カノンはいった。
「許してね?」
そういわれたもう、何もいえなかった。ハウワーは目の前の少女をしばらく見ていたが、その少女が「クスッ」と笑い、彼女の前から歩きだすと、暗い顔で彼女の背中を見つめた。
カノンは、彼女の方を振りかえらなかった。
「そろそろ日も暮れるし、気をつけて帰ってね?」
「は、はい。レーンさんも、気をつけて! 女の子が一人で、夜道を歩くのは」
「ワタシは、大丈夫よ?」
「え?」
「こういうのは、慣れているし。これから行くところも」
「行くところも?」
カノンは、その質問に振りかえった。
「快楽屋、だから」
ハウワーは、その言葉に固まった。
「か、快楽屋!」
そこは、つまり……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます